白の衣 南天の実

□第1章
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 よく晴れた空の下、北斗京に最も近い宿場町、茅花(つばな)宿、そこに一人の少女がいた。
 茅花宿は、首都、北斗京と古都、南天京をつなぐ天斗(てんと)街道沿いにあり、紙作りで栄えた町だった。紙だけでなく本も多く、学者も多く、変わり者の多い町として知られている。
 少女の名を日宮(にちみや)藍(あい)といった。年の頃は、十二。日に焼けたその顔にはまだ幼さが残っている。薄茶色の背負い鞄に、ゆったりとした上着とズボン。それらの裾は裂いた布で縛ってある。そんな少女の衣服はごく一般的な旅人の服装である。しかし、ここ、茅花では、夏を間近に控えたこの季節でも少々肌寒い。常月の中でも北部に位置するこの辺りの町では、少女の服装の上にフードのついた外套を羽織るのが一般的だ。とはいえ、そんな細かなことを気にする者はここにはいない。
 その少女、藍は今、茅花の東部、土地の者をおいて、誰も通らないであろう小路を、その緩やかな坂道を上っていた。藍の足取りは軽い。しかし、その足取りの軽さに反して表情は硬い。
 辺りから民家が途絶えて更に歩くこと数分。正面に先ほどまでの民家とは明らかに異なる大きな屋敷が見えてきた。漆喰の塀に門。その奥に灰色の屋根が見えている。こざっぱりとした印象のその屋敷は、この町、第二の規模を誇る。あくまでも、宿場であるこの町の中で、ではあるが。
 藍はその屋敷の前で足を止めた。その無人の門に足を進め、潜り抜けようと足を踏み出し――その足が地に着く直前、引き戻した。
 手を胸に当て深呼吸をする。
「まったく。私らしくないよ、藍」
 自分で自分を叱咤する。それと同時に微笑が浮かぶ。
「ここまで一ヶ月。迷うことなく着くことができたわ。大丈夫。私は大丈夫よ」
 その言葉に微かな寂寥感が滲む。
 青くすがすがしい香りが鼻腔をくすぐる。風はさやさやと歌っていた。小鳥もまた絶え間なくさえずる。
 辺りは自然に満ち溢れていた。
 さっと視界が開けた。
 今まで見えていなかったものが見え、感じられなかったものが感じられるようになった。藍はゆっくりと辺りを見回した。辺り一面原っぱだった。この町の名の由来ともなったチガヤが所狭しと肩を並べていた。そして、そんなチガヤに負けまいと明るい日が降り注いでいた。藍は深呼吸し、自然を吸い込んだ。
「あ、れ……?」
 藍は首を傾げる。何かが間違っている、そう感じた。
 藍は屋敷の前に立っている。屋敷は空き家でなければ人が住むものである。この屋敷が空き家でないことはむろん確認済みだ。それなのに人の息吹が感じられない。人の生活の音が全く聞こえない。生まれながらにして騒音である人の、その音が。
「ふふ。ふふふふ」
 藍は口を押さえ、必死で笑いをかみ殺す。
こんなことにさえ気づかなかったのだから、どうかしていたのかもしれない。
「よし、行くよ」
 藍はざっと身だしなみを整え、門を潜った。
「門番もいない。生活感も見せない。この屋敷で待っているのは仙人か何かかしら」
 無論、そんなはずはない。藍は「魔術師」を訪ねて、この屋敷に来ている。この屋敷の主は変わり者か、訳ありの隠者かのどちらかだろう。
 門から玄関まで十数メートル。藍は堂々と歩いていった。
  カラン カラン
 藍が呼び鈴を引くと、家の中で心地よいベルの音が鳴り響いた。響き渡るその音が美しすぎることに藍は疑問を抱く。本当にこんなところに人が住んでいるのだろうか。
ベル音が消えて静寂が訪れる。まるで外の音までもを吸い込んでいるかのような静けさだった。
  ガラガラ
 何の前触れもなく、戸が開いた。藍はすっと一歩下がりお辞儀をした。
「どちら様でしょうか」
 冷たく、澄んだ男性の声だった。途端にその存在感が増す。藍は、言葉の冷たさとその見えない威圧にたじろぎながらも、全身で受け止める。ここで引くわけにはいかないという思いだけを支えに、喉に詰まる言葉を何とか吐き出す。
「お初お目にかかります。わたくし、日宮家が長女、日宮藍と申します」
 藍はゆっくりと顔を上げた。その動作でさえ重く、つらい。
 戸口に立つのは、凛とした面立ちで柔らかな笑みをたたえた男性だった。声の冷たさとその表情とのギャップに藍は思わず声を失う。おそらく三十歳は過ぎているだろう男性は、威圧の影に落ち着いた空気を見せている。
 男性は、首まで覆われた黒いシャツに、黒いストレートパンツ、そして、膝に届く長さの白衣を羽織っていた。一見、奇妙とも取れる出で立ちではあるが、魔術師や学術師、武術師といった職務、「術師」の世界ではよく見られる格好である。
 「白」といえば、この国の王家の色である。通常は赤子をおいて身に纏うことを禁じられていた。しかし、公の任務、お国の仕事につくことのある術師の世界だけは例外で、自由に身に纏うことが許されていた。つまり、「白」は術師の証なのである。
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