月の花の咲く夜に

□1-1. 魔女のいた都
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 都中にめぐらされた水路が、朝日を浴びて青く美しく輝いていた。水路に沿って立ち並ぶ家々の白壁は、水の波紋をそのゆらめきを映し出す。夜になれば月光が、常に満月がそこにあるかのように都のすべてを青く浮かび上がらせるだろう。その幻想的な様子は都の外にまで伝わり、いつしかここは青の都と呼ばれるようになっていた。
 しかし、どれほど美しい都であっても、否、美しい都だからこそ、辛く悲しい過去を持っているものである。
 ここはかつて魔女ニキによって、多くの民が虐殺された地である。
 当時のことは、魔女ニキの変として今に伝わる。残虐な魔女ニキの魔術によって人々がなすすべなく命の灯を消していく中、一人の旅人が都を訪れた。その無残な光景を目にした旅人は民に同情し、魔女ニキの弱点を見つけ出し都を救う。旅人はその功績を認められ、この国の王となった。その血脈は今も続いている。
 ゆえに、今でも王家の威信は強く、魔女に対する嫌悪はすさまじい。
 魔女ニキの変以降、この国には魔女は一人もいない。魔女であることは不名誉なことであり、魔女だと言われることは死よりも耐え難いことだった。

 そんな過去を持つ、美しい青の都の王宮。
 そこに下働きとして勤める一人の少女がいた。廊下でせわしなく動く少女の手には雑巾が握られ、窓を拭いているのだとわかる。
「ティア、ちょっと手を貸して」
「は、はい」
 仕事の手を止め、慌てて返事をすれば、ティアのいる廊下に面した部屋から顔を出す自分と同じくらいの歳の少女、ベルがいた。ティアはすぐさまベルの元へと向う。
「あぁ、ティア。この壺を動かしたいのよ」
 ベルが部屋の隅を指さし、はぁ、っとわざとらしくため息をつくのは、その壺が自分の肩までの大きさで真鍮でできているためだった。つまり重い。ティアは一つ頷いてその壺に手を掛けた。
 何とか動かして、二人で額の汗をぬぐったときには、かなりの時間が経っていた。
「助かったわ、ありがとう」
 解放してもらったものの、思っていた以上に時間がとられてしまったティアは急いで自分の作業に戻る。仕事の遅れは同僚に迷惑がかかるし、女官長にも怒られる。仕事に集中したティアはほんの一時、周囲を意識するということを忘れてしまっていた。
 ざわざわ、と俄かに廊下が騒がしくなった。複数の足音が廊下の奥から響き、その音でティアははっとした。
(しまったわ。どこか控えられる場所はあるかしら)
 しかし、気づくのが遅かった。すぐにその一団の姿は見え、今から逃げるように立ち去れば、それはそれで無礼にあたる。しかし、自分のような下働きの者は基本的に貴族や王族の者に姿を見せてはいけないのだ。どうにもすることができず、ティアはいつも侍女たちがしているように視線を落とし、礼の姿勢を取った。
(どうか咎められませんように。何事もなく過ぎて行ってくれますように)
 ティアは心の中で念じる。床を見つめる目の端に、質のいい空色の布地がかすめる。
(あ……)
 空色の衣。そんな話題が今朝、侍女たちの間で交わされているのを小耳にはさんでいる。
(――殿下。青の王子)
 殿下は御年十八歳。この国の乙女であれば誰もが憧れるような相貌をしており、誰もがその姿に一度は恋する。だから、王宮の侍女たち、下働きの者も含め、暇あれば殿下の話題になり、遠くからでも見かけることがあれば黄色い歓声が上がる。だからティアの記憶違いでなければ、今自分の前を通り過ぎようとしているのは殿下だ。緊張に少しだけ身を固くする。
 殿下たちはティアに気を止めることなくそのまま通り過ぎていく。ティアはほっとして少しだけ肩の力を抜いた。あとは完全にこの廊下を抜けて見えなくなってから作業を再開すればいい。そう思った途端、殿下の足音が止まった。
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