ふと気がついた時、俺は細く長い道の上に立っていた。
道の両側は真っ暗な闇がぐにょぐにょと触手を伸ばしていて正直気持ちが悪い。先ほどまでいた優しくて穏やかな場所とは大違いだ。
身体中がおかしな浮遊感で満たされていて、歩いてもいないのにゆらゆら移動しているのが分かった。
おそらく到着点はこの道の先、光輝く場所。
とても懐かしい、かつて俺が生きていた場所。
小さな点だった光が徐々に大きくなり、太陽にも勝る光塊になった時、俺はあまりの眩しさに思わず目をつぶった。
拒絶することのできない圧倒的な力で光の中に吸い込まれていく自分をさながらブラックホールに入っていくゴミのようだと例えて、一人で小さく笑う。
次に目を開いた時には、初めて見る事務所の中にいた。
壁を埋める分厚い書物に、機能を優先したようなデスク。そこの応接セットのソファに、いつの間にやら腰をかけていた。
まるで他人の身体のように手足が重く、自由に動かない。視力がおかしくなったのか、視界が白くぼやけ、俺は乱暴にまぶたをこすりつけた。
「……アンタ、名前は?」
低い声が背後から聞こえ、俺はぼやけた思考のままゆっくりと振り返った。
そこにいたのは、おそらく俺よりも十は年上の頑健な体つきをした男だった。何か戦隊もののようなおかしな仮面を顔につけ、いやみったらしい笑いを浮かべている。その顔を一目見て分かった、俺はこの男とは気が合わない。間違いなく。
もともと研究肌というのもあって人付き合いはそう得手ではないのだが、それ以上に、この男から初対面にもかかわらず敵意が感じ取られ、そう気が弱いわけでもない俺は反発してしまう。
(アイツがこの敵意を前にしたら、怯えて泣き出すんだろうけどな)
ずいぶんと長い間遠のいていた友人の顔が脳裏をよぎり、俺は胸の痛みに眉を寄せる。
会いたくても会えない相手。触れたくても触れられない相手。
彼の声を聞けなくなってから、彼の瞳を見つめられなくなってから、どれくらいの時間が過ぎただろうか。
日々は淡々と過ぎ行き、雛鳥のように俺になついていた男はもうどこにもいない。
「聞こえなかったのかい、アンタの名前を聞いたんだぜ、俺は」
「常識を知らないのかよ。名前をたずねる時はまず自分から名乗るべきだってのは子供ですら知ってることだぜ」
小馬鹿にしたように鼻で笑ってやると、男の口元がクッと歪む。変な男だ。髪は老人のように白いのに髭だけは黒々とし、どこから取り出したのかも分からないコーヒーをがぶ飲みする。
「そいつはすまなかったな。俺はゴドー。検事を辞めたあと、弁護士をしている。で、アンタは?」
「呑田菊三。有盟大学の薬学部所属」
淡々と返しながらも、俺は驚きに一瞬目を見開いた。目の前の野生じみた男が弁護士だなど思えなかったからだ。同時に、その職業を目指していた友人のことを思い出して気持ちがざわついた。
「アンタをここに呼んだのはほかでもねぇ、俺のコネコちゃんが寂しがっててな。成歩堂龍一、覚えているかい?」
まさしく思い浮かべていた人物の名前を告げられ、身体がビクリと震える。
俺は思わず立ち上がってゴドーとかいう男のベストをつかむと、力任せに揺さぶった。
「アイツがここにいるのか、どこだ、どこにいるっ」
「その前に落ち着いて俺の話を聞きな。会う前に、アンタは今の現状を確認する必要がある。呑田サン、アンタは一度死に、霊媒という力で今この場にいるってことをな」
「そんなことはどうでもいい。龍一は、どこだっ」
会いたい。会える。触れたい。触れられる。抱きしめたい。抱きしめられる。
頭の中が歓喜で満たされ、俺は立ち上がると周囲を見回した。そして、ソファの向こう側にドアがあるのを見つけ、龍一はそこだとなぜだか確信する。
「待ちな! 言っておくが、俺は納得したわけじゃねぇ。アンタがまるほどうにイケナイ手を出せば強引に除霊しちゃうぜ」
殺意の込められた警告を軽くかわして、俺は勢いよくドアを開いた。蛍光灯の明るい光が目に突き刺さり、一瞬視界が見えなくなる。
「龍一っ!」
「ごめんなさうわああんっ!!!」
そこにはあの頃と同じ龍一が青いスーツに身を包んで、あの頃のままうずくまって泣き喚いていた。その周囲を取り巻いていた見知らぬ男女が一斉に俺の方を振り向いて、あからさまに安堵の息を吐く。
「あっ、ハミちゃん、本当に降霊しちゃったんだ。あのね、私たちがなるほどくんを泣かせちゃったんじゃないんだよ。ただ、催眠術かけたら失敗しちゃったの」
紫の着物の女が言うには、親しい者同士で集まって食事や酒やらを楽しんでいたところ、見ていたテレビでたまたま催眠術の特集が流れたらしい。それが本当かどうかと討論になり、ちょうどほろ酔い加減だった龍一を実験に『一番気になっている人物は誰か』と深層心理に問いかけた。
そうしたらいきなり泣き出して『呑田さん』と繰り返し呼び出したのだそうだ。けれど会いたいとわめく対象の俺はすでに死んでいて、どう慰めても泣き止まない龍一に手をこまねいていると、ハミとかいう女が『呑田さんという方をお呼びすればいいのですっ。なるほどくんと縁が深いのであればスムーズに交霊できますわ』と言い出だして実際に俺を霊媒した。
「呑田さあぁああん、ごめんなさうわああんっ」
酒瓶を片手に泣き叫ぶ龍一。その周辺を取り囲む、龍一の友人たち。俺が一歩足を踏み出すと、その輪が崩れモーゼのように道を開く。
「お手並み拝見、だな」
背後であのゴドーとかいう男がからかうように笑う声が聞こえた。その声を聞きながら俺は歩を進め、座り込む龍一の真正面に立った。
そして片手を振り上げ、そのとげとげしい、けれど実際はひどく柔らかな頭めがけて、コブシを落とした。
「うるせぇよ、龍一。いい加減泣き止めって」
ゴインてすごい音がしたよ。今のはまぎれもなく傷害事件だ。裁きの庭に連れ込むわよ。クッ、有罪確定だな。いくつもの声が響く中、龍一は叩かれた頭を両手で押さえながら恐る恐る顔を上げた。
「今の力加減、ポイント、スピード、声、……もしかして、の、呑田さん?」
おぉ、泣き止んだよ、なるほどくん。なっ、なぜだっ。私のムチでも駄目だったのにっ。俺の闇色のアロマですら効果がなかったんだが、な。いくつもの声が響く中、俺は膝を折って龍一と目線を合わせて、いつもの顔つきで笑ってやった。
「よお、相変わらず泣き虫だな、龍一」
「うわあぁああんっ、呑田さんだぁっ」
両手を広げた龍一が抱きついてきて、膝が崩れてしりもちをつく。なぜだか俺は着物を着ていて、すそがパンと足に張り付いて動きにくかった。
「お前、何を泣いているんだ? お仲間サンが心配してるぜ、俺を呼び出すくらいにな。聞いてやるから言えよ、どうしたんだ?」
記憶の中の龍一は、スーツなんて着ていなかった。こうやって泣きつく時はいつも、安物のシャツを着て、俺はその背中を撫でてこんな風に慰めていたんだが。スーツ特有のごわごわした感触が手に伝わって、月日の流れを実感した。
俺が死んで、何年経ったのか。さっき襟元にヒマワリのバッジが見えたということは、あれから無事に司法試験に通って弁護士になれたんだろう。いくらか微妙な連中ではあるものの、信頼し合える仲間もいて、おそらく幸せなのだろうと思う。
「呑田さん、僕、ずっと気になっていて。ずっと呑田さんのことが気になっていて」
あ、と周囲を取り巻く連中が声を漏らす。
催眠術で導いたのは『一番気になっている人物は誰か』。それが俺のことだったから、酔いも手伝って記憶が逆行し俺を求めたんだろう。
「あの時、突き飛ばしてごめんなさい。あの時、側を離れてごめんなさい。あの時、呑田さんを拒絶して――」
勢いよく言い募ると嗚咽に声がつまったのか、ごほと咳き込む。
その背中をトントンと叩いてあげながら、俺は「それで?」と続きを促してやる。
こういう状態になった龍一は全てを吐き出させなければ、自分の中に溜め込んでしまうから。
「それから、あなたが好きで。大切で。でも死んじゃって。もう一度見たくて。もう一度触れたくて。もう一度聞きたくて。呑田さんと僕、色んな約束したのに果たせなかったし。呑田さんがいない自分がいやで」
顔を押し付けてしがみつかれるせいで、着物の胸元が緩んでひどく肌寒い。そこにボトボトと龍一の涙が流れて、正直ちょっと気持ちが悪い感覚があった。
「ちいちゃんから守ってくれたのに、本当のことを言ってくれたのに。信じることができなくて。呑田さんとこれから続く時間を失って、後悔して。僕、呑田さんが、大好きだったのに」
子供のように体温の高い龍一を抱きしめて、定期的なリズムで背中を叩き続ける。そうして、俺はその耳元で優しく優しくささやきかけた。
「分かってるよ、龍一。アンタが俺を忘れなかったこと、感謝している。……よく頑張ったな」
「頑張った? 僕、頑張れたのかな?」
「当たり前だろう。俳優から弁護士にまで方向転換した挙句に司法試験に突破したんだろう。そしてこんなに友人に恵まれて愛されている。俺もずっとアンタを愛し続けている。だから、安心しな」
大切な、大切な後輩。初めは、元カノがとっ捕まえたコイヌのようなヤツだと思った。
ちなみとの思い出話を共有するうちに、いつからだろう、純粋な尊敬で俺を慕ってきた男を、もっと特別な感情で見つめるようになっていた。
俺は俺の死を後悔はしていない。
俺が死んだことによって、龍一はちなみの魔の手から逃れられたのだと、空の向こうで髪の長い美人サンに教えてもらった。
だから、俺の死は必然であるのだと、大切な人間を守るために必要なソレだったのだと、自分でも満足していた。
「うん、呑田さん……う、ん……」
嗚咽が次第に収まり、預けられた体重が次第に重くなる。泣き疲れて眠ってしまうのは、本当に昔と変わりがない。崩れそうになる龍一の身体を両手で支えながら、俺は周囲で見守っていた男女に笑みを見せた。
「で、どうだい。俺のお手並みは」
「クッ……悔しいが見事としか言えねぇな」
ゴドーは忌々しそうに舌打ちしながらも、あきらかにほっとしたムードで龍一の寝顔を覗き込む。それは周りにいた連中も同じで、涙のあとが頬に残る龍一を、ひどく優しい顔つきで見つめた。
(あぁ、龍一は、生きているんだな)
当たり前の事実を実感する。泣き虫で俺の真似ばかりをしていた龍一は時間と共に変わり、こうして俺の知らない連中と交流を深めて成長していくのだ。
「コイツを、よろしく頼むぜ。龍一はいわばうわばみなんだ。何でもかんでも飲み込むわりに吐き出すすべを知らない。心の許容範囲は広いくせに自分のことだけはなおざりにしやがるから、爆発もできないままに全てを受け入れる。龍一の腹が裂けちまう前に、たまには吐き出させてやってくれ。……俺にはもう、それが出来ねぇからな」
こいつらに……特にゴドーとやらに頼むのは業腹だが、肉体を持たない俺にはどうしようもないから。未来を託すのはこいつらしかいないから、俺は淡々と龍一を頼む。
言いながら、世界が次第にぼやけていく。来た時とは逆に世界が白から黒へと移り変わっていく。
多分、『霊媒』ってのが終わるんだろう。俺は腕に抱いた愛しい男の顔を、脳裏に焼き付けようとじっと見つめた。
「龍一を、任せるぜ」
周囲にあったはずの光はやがて点になり、そうして俺はいつの間にか細い道の上に立っていた。さっきまで腕の中にあったはずの龍一はどこにもなく、やれやれと息を吐いた。
短い、奇跡のような逢瀬。だが、死んでからずっと願っていたことがかない、もうこれ以上の望みはない。会いたかった愛しい相手に触れてその涙をぬぐい、成長した姿を見つめて言葉を交わすことができた。
身体がふわりと浮き、足が細い道から外れた。上を見上げれば、美しい花園が見え、安らぎと平穏と光とに満ちた場所へ還っていくのが分かる。視線を足元に落とせば道はすでに遥か下の方にあった。
またあの細い道を通って龍一に会える日が来るのであれば、その時はあの無垢で無邪気な笑顔を見られたらいいと、ただひたすら祈るように思った。
end