「お前、婚約したんだろう、その祝いだ」
部下の一人にプレゼントを渡すと、男は感激したように目を潤ませた。感極まったようにプレゼントの品を抱きしめ、ペコペコと頭を下げる。
「おいおい、そこまで喜ぶことはねぇだろう、未来の女房にヨロシクな」
「あっ、ありがとうございますっ」
ここまで喜ばれるとプレゼントしたこちらの方まで嬉しくなってくる。もとより、部下の幸せは俺の幸せでもあるのだ。目を細めて男の様子を見つめ、俺は胸の前で腕を組んだ。
「付き合って三年だったか、そんなにイイ女なのか?」
「は、はい、もちろんです。自分、一目惚れでしたからっ」
きっぱりと言い切った言葉にひょいと片眉を持ち上げる。
(一目惚れ、ねぇ。……ドラマとかの中でしか聞かねぇ言葉だぜ)
男をからかうつもりも疑うつもりもないが、そういうものが現実に起こりうるとは思わなかった。誰それを可愛い美人だと思うことはあっても、一目で惚れるということはない。第一、言葉すら交わさない状態で相手の何を知り、どこに惚れるというのだろうか
「自分にはもったいない彼女なんですっ」
「ふん、そいつはめでてぇな」
一目惚れの言葉は疑問だが、男が恋人に惚れ込んでいるのは間違いがない。
おめでとうよ、ともう一度男の肩を叩き、俺は首を巡らして周囲を見回した。
バンドーランドで起きた誘拐及び殺人事件。フリル検事の邪魔があるものの、優秀な部下たちのおかげで着実に真実へ近づいている。
「あ、あのっ」
厳しい視線で睥睨していると、いまだプレゼントを抱きしめていた部下が緊張した様子で声をかけてきた。
「自分が彼女にプロポーズしたのは、このバンドーランドの橋なんです。あそこには『一緒に渡ったコイビトたちは必ず幸せになる』という言い伝えがあって、師父も、もしよろしければ」
「ふぅん、そんな話があるのか」
正直、そういった伝説的なものは信じていない。だが、部下の心遣いを無視することは主義に反するから、俺はありがとうよと礼を言ってその場所へ足を向けた。
「チッ、シーナのやつさえいりゃあな」
常に側にいてくれる部下のことを頭に浮かべ、小さく舌打ちする。方向音痴というほどではないが、初めて訪れた場所に対する感覚は鈍い。その点、まるで訪れたことがあるように行動するシーナの存在は頼もしいわけなのだが、あいにく別行動で事件を調査しているせいで頼ることもできない。
パンフレットを睨みながらその場所へ移動し、あたりを見回す。親子連れやら恋人たちやらとすれ違い、なんとなしに部下のデレデレに緩んだ顔を思い出した。
(一目惚れか……一度くらい経験してみたいもんだぜ)
女を抱いたことがないわけじゃないし、惚れたことがないわけじゃないが、それでも心を奪われるような心地を感じたことはない。
「狼子いわく、一目会ったその日から恋の花咲く時もある、か」
逮捕学の創始者、狼子の教えは多岐にわたり全てを覚え切れていない。けれど、その中に気に入った言葉はいくつもあり、こうして巻き物がいなくとも暗唱できる時もある。
「なぁんてな、俺には恋愛なんてしている暇はねぇよ」
クッと笑って胸に沸いた願望を捨て、俺はようやく言われた橋のたもとにたどり着いた。
「なるほどくーん、おーい」
欄干には先客が一人。目にも鮮やかな青のスーツ。艶やかな黒髪は尖っていてどこかに刺さりそうだ。
「危ないよ、真宵ちゃん」
手すりに腕を乗せたまま、男はボートに乗る少女二人に声を送っている。大丈夫だと手を振る少女たちを心配そうに、そしていとしそうに見やる目は穏やかに細められて。
「まったくもう、子供だな」
まるで周囲から音が消え去ったかのように、俺の耳に届く低い声。女のソレのように鈴のような声ではないが、透明でひどく心地よい声だった。
「でも……ま、いっか。楽しそうだし」
じわりと指先が痺れる。脳からの命令回路が壊れ、男から目をそらせず身動き一つできない。首を絞められるような苦しさに息が止まりそうになる。
(どう、しちまったんだ?)
じゅくりと沸いて出る甘辛い痛みが男からもたらされているのは分かる。けれど、どうして、この弱そうな日本人に俺がすくみあがらなければならないのか。
俺の凝視する視線に気付いた男が顔を上げる。きょろと周囲を見回し、人形のように突っ立っている俺へと目を留める。
「こんにちは」
見知らぬ他人への警戒心はないのか、男は莞爾と笑って会釈する。甘くてとろけそうな笑顔はとてもまぶしくて、俺は物理的に殴られたかのように足がよろめいてしまった。
(なんなんだ、一体)
つい数分までの体調は万全だったというのに心臓の刻む音が耳の後ろにまで響き渡り、呼吸が荒くなってじわじわと肌が汗ばんでくる。かすかに震える指先を顔に当て、俺はめまいが過ぎるのを待って深く息を吐いた。
「あの、大丈夫ですか?」
近くでささやかれた声に心臓を鷲づかみにされ、俺はぐっと唇をかんだ。ほんのわずかの距離に男の姿があり、心配そうに俺の顔をのぞきこんでいる。
「あ、い、いや、大丈夫だ」
思ったよりも長いまつげ。きめの細かな肌。呼気の温度すら感じられるほど側にある存在。
「でも顔が真っ赤ですよ? 風邪かもしれませんね」
黒真珠のように輝く目が俺を映す。ギザギザの眉が心配そうに寄せられ、人のよさそうな顔を彩る。
「なんでもねぇよ」
舌が口腔の中で固まってうまく動かない。なんとか搾り出した声はひずんでいて、我ながらひどく不機嫌そうだった。せっかく心配してくれた男が気を悪くすると分かっていても、吐き出したソレをどう撤回すればいいか分からず次の言葉が出てこなかった。
「そう、ですか。ええと、余計なお世話かもしれませんが無理はしない方がいいですよ」
思った通り男は表情を曇らせるとそっと身を引いて頭を下げた。馬鹿のように呆けたまま男の後ろ姿を見送り、ちらちらと振り返るその横顔に何かを返すこともできず、俺は自分のふがいなさに舌打ちした。
(ったく……なんなんだ、俺は)
遠くなっていく背中を見送るのがつらくなって、橋の手すりを背もたれにして空を仰ぐ。射るような日の光に目が痛んで、慌てて特注のサングラスを顔に引っかけた。濃い色つきの視界であっても、なぜだか男の顔が網膜に焼き付いて消えない。ため息と一緒に肩が落ちて、こんな姿、部下たちには見せられねぇぜと心の中でぼやく。
(名前、何っていうんだろうな、あの男)
優しい顔をしていた。笑うと垂れ下がる目尻。柔らかく響く声。日本人にしてはわりと体格が良いはずなのに、身にまとう穏やかな雰囲気のせいで少しばかり小柄に見えて。
「あー、ちくしょう」
脳みそをチクチクと刺す後悔は苛立ちを倍加させ、重くのしかかる心が枷となって身動きを封じてしまう。
(馬鹿らしい。会ったばかりの男だってのに俺は何を考えてやがるんだ)
去っていったあの背中を追いかけたい。青い背中へ、いつも通りを装って声をかけて。さっきの無様な姿を塗り替えて、俺の俺らしい姿を見せつけて。そうすれば、男は名前を教えてくれるだろうか。俺の名前を、知ってくれるだろうか。
「……あの、コレ、よかったら」
俺のことを、好きになってくれるだろうか。
「ん?」
視線を上げると、そこにはさっきの男。走ってきたのか、呼吸を少し乱しながら、俺に一本のスポーツドリンクを差し出した。反射的に受け取ろうと広げた手の上に、コロリと二粒、あめ玉も一緒に置く。
「疲れている時は甘い物って効果的らしいですよ」
今日は暑いですし、と言って、男は用は終わったとばかりに会釈してもう一度背中を向けた。
(わざわざ、買ってきたのか?)
汗ばんだ手のひらにヒヤリと冷えたボトルが気持ちいい。指の間でカサと音を立てるあめ玉はいちごみるくで、とても甘そうだった。
(俺の、ために?)
視神経がおかしくなったかのように世界が揺れて、男の背中しか見えなくなる。乾ききった喉を引き絞って声を出し、俺はゆらりと一歩前へ進み出た。
「なぁ、兄ちゃん」
ほんの数メートルの距離。大股で歩けば数歩の先に、振り返って俺を見つめる男の顔。うっすらと上気した頬はとても柔らかそうで、緋色の唇は甘そうで、身体の奥が痺れてしまう。
「どうしました?」
さっき感じた後悔が脳裏をかすめる。名前を知りたいと切実に思ったのはほんの数分前だ。この男の名前を知りたい。そうすれば、きっと赤の他人ではなくなる。新しく何かが始まるような気がする。
「俺は狼士龍。アンタは?」
男は一瞬だけ目を丸くすると、すぐに顔を崩して笑いかける。太陽の日差しを浴びてのソレはどこまでも無垢で無邪気で、不覚にも呼吸が止まってしまいそうだった。
「あはは、同じですね。漢字一文字。僕は龍一です。成歩堂龍一」
飲み込んだ息を吐き出すこともできずにつばを飲む。目の表面が乾いて涙が出そうになった。
「おーい、なるほどくーん」
「あ、すみません。連れが呼んでいるようなんで」
駆け寄ってくる少女たちに軽く手を振り、男は今度こそ背中を向けて歩き出す。
「なるほどう、りゅういち……」
震える声で名前をつぶやくと身体の中を風が吹き抜ける。心地よい風を受けて俺は溜めていた息を吐き出した。
「あー、ちくしょう」
先ほどつぶやいた独り言を、今度は違うニュアンスで落とす。
運命のいたずら、とでも言うべきか。一度は経験してみたいなどとほざきながらも信じていなかったというのに、ここまで無理矢理な自覚症状が現れると認めざるをえない。
(こういうのを、一目惚れって言うのかい)
婚約して幸せそうだった部下の顔が脳裏をよぎる。今の俺もまた、あんなとろけそうな顔をしているのだろうか。あんな風に、見る者まで幸せになりそうな笑顔を、浮かべているのだろうか。
「クッ、思ったよりもアマいもんだ」
今は事件の最中でそういう場合ではないのだと分かっているのに、優しく満たす想いの中に酔いしれる。甘い熱に酩酊し解放された感覚に心が解き放たれていく。
「覚えときな、龍一。いつかアンタの中にも恋の花、咲かせてみせるぜ」
浮き立つ心地に全身を預けたまま、俺は右手を銃身に見立てて龍一が去った方向へ向ける。あの青いスーツはどこにもないが、俺の網膜にはしかと焼き付いている。壊してしまいたいほどの麗しき人へ向けて引き金を引く。
「ばぁん」
人差し指から放たれた恋の弾丸は果たして龍一の心臓を撃ち抜いただろうか。銃口から立ち上る硝煙を消すようにフッと息を吹きかけて、俺はそのまま指先を唇に押しつけて音を立てて投げキスを送った。
end