Novel 57

□STAY WITH ME

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 正直言って、成人男子に『コネコ』はないだろうと思う。

 それが真宵ちゃんみたいに若い子だったり、千尋さんみたいに美人な人だったりしたら分かるけれど、僕は身長もあるし体格だって貧相じゃない一般的な男で、誰から見てもそんな名称が似合うはずがない。

 そう何度抗議しても、ゴドーさんは僕をコネコと呼んで、いい加減それに慣れてしまった僕はスルーすることにした。

 受け入れることを決めてしまえば、ゴドーさんの声がひどく優しいのに気づいた。呼びかける言葉だからか、息と一緒に吐き出される『コネコ』はふわりと柔らかな印象でもって鼓膜に響くのだ。

 気づいてしまえば、あとは坂道だ。

 その優しい声を独占したい、から始まって、気持ちは彼の全てへと向かって行った。

 声だけではなく身体も、身体だけではなく心も、心だけでなく未来も欲しくて。

 際限なく溢れ出てくる欲望は僕自身ストップできないくらい激しくて暗くて強いものだった。

 そうしてみっともなく追い求めた僕に、ゴドーさんはしごくあっさりと与えてくれた。

 声も、身体も、心も、未来も、僕が望むなら全て僕のものだと。

 『愛している』という言葉まで与えてくれて――だから僕は、この人のためなら何でもできる。

「神乃木さん、あなたがあんまりコネココネコ言うから、僕、猫の気持ちが分かるようになってきましたよ」

 朝食後のコーヒーを楽しんでいたゴドーさんは、僕の言葉に小さく首を振った。

「クッ、コネコが猫の気持ちを語るってわけかい」

 言葉では『コネコ』と呼ぶこの人は、けれど僕を未熟者ではなく一個人としてきちんと認めてくれている。

 だからこそ、言葉の裏を想定するクセがついているんだろう、僕の口から続く言葉を考えて少しばかり動きを止めた。

「発情期、ってことです」

 焦らすつもりなんてないから、あっさりと回答してみせると、ゴドーさんはあごひげに手を伸ばしてニヤリと笑った。

「そいつは大変だな。何だったら発散するのに協力しちゃうぜ」

 遠慮します、と、伸びてくる手から身体を引いて逃れ、僕はうっすらと微笑んでやった。

 チラリと横目で時計を確認すると、ゴドーさんがいつも出勤する時刻から逆算して10分前。ちょうどいい時間帯だろう。あと10分もすれば、どれだけ込み入った話であっても部屋を出ていかなければならないのだ。

(大丈夫、さっきクスリを飲んだばかりだし、あと少しくらいは大丈夫のはずだ)

 目に見える……外見にあらわれる症状でなくてよかったと思う。決して目の前にいるこの人にだけは悟られていはいけない。舞台は整い、役者はそろった。だから僕は、あらかじめ想定していた内容を演じるだけだ。

「それで、ね。浮気しちゃったので別れましょう、僕たち」

 流麗かつはっきりと、独特のリズムを崩さずに言えと指導されたのは、ハムレットのセリフだったか。かのグッドウィルにはかなわないけれど、僕なりのセリフで言葉をつづる。

「ゴドーさん、そういうの一番お嫌いでしょう? ですから責任取ります。ここでお別れ、ということで」

 にっこりと鮮やかに微笑んで言う。決して心の内側をこの人に悟らせないように。全てが終わる時まで、ゴドーさんにバレてしまわないように。

「とりあえず、異議有り、だな。何を考えているんだい、まるほどう」

「とりあえず、では敗訴しちゃいますよ、ゴドーさん」

 間を空けずに切り捨てると、ゴドーさんが口元に笑みを浮かべて、テーブルに身を乗り出した。

「貞操って言葉が男にも使えるのなら、コネコちゃんに捧げるちゃうぜ。アンタは誰にでも肌を許す男じゃない、そうだろう?」

「だから発情期だと言ったでしょう? いくら僕でも本能には逆らえませんよ」

 ゴドーさんの弁論術は一種独特だけれど、筋の通らない意見は出してこない。だから通常出てくるだろう言葉を想定しておけば対応できる、といった読みは正しかったようだ。どうやら突然の僕の別離発言にあまり頭が回らない様子なのも幸いした。この人がその気になってしまえば、僕の嘘を暴く問いかけなんて簡単に出来ただろうから。

「発情期の本能に負けて、そこらの馬の骨と淫らなダンスをお楽しみしちゃった、と。そう言うんだな、まるほどう」

「えぇ、その通りです。そんな不貞を犯してしまったのにあなたの側にいられるほど厚顔じゃありませんから、正直に暴露しちゃいました」

 ゴドーさんがどれほど僕を大切にしてくれたか、知っている。

 大事に、大切に、守って、愛して。

 初めは僕が求めたから与えてくれた愛が、いつしか本気になってくれたのも知っている。

(僕から求めたんですから、僕から手放すのが筋です)

 開放してしまえば、これだけ素敵な人なのだからすぐにいい人が見つかるだろう。その誰かと、幸せに生きて欲しい。他の誰かと浮気したなんて、あっけらかんと言う不実な僕なんて忘れて、世界中の誰よりも勝る幸せがあなたに訪れて欲しい。

 時計を見る。出勤時刻まであと5分。意外に几帳面でしっかりしているゴドーさんはいつも定時に家を出て、プライベートで欠勤したりなんてしない。この話は必然的にあと5分で強制終了。あとはこの人が出て行ってから、自分の荷物を始末して僕も出て行くだけだ。

「それが猫の気持ちってわけかい。発情期ってやつも大変だな、コネコちゃん」

 違う。僕が悟った猫の気持ちは、一つだ。

「えぇ、大変でしたよ。発散しようにもその時出張中であなたがいなくて、手近で済ませるしかなかったですし。まぁでも、それはそれで新鮮で面白かったですがね」

 猫は死期を悟ると姿を消す。その気持ち、だけ。

「俺が仕込んだ身体が俺以外の手で満足するとは思えねぇんだがな」

 愛する人を悲しませたくない。遺していきたくない。たとえ傷つけてしまうカタチになっても、どこか遠くで生きているのだと思っていて欲しい。

「人それぞれ形状が違いますから、当たる部分も違ってよかったですよ。あなたに教えてもらった手管がほかにも有効的だと気づきましたし」

 僕がきっぱりと言いきると、ゴドーさんはゆっくりと椅子を立った。出勤前なので、いつものベストにネクタイにと隙のない格好だ。そのままキッチンにテーブルの上の皿などを運び、すぐに両手にコーヒーを持って戻ってきた。

「飲むだろう、まるほどう。罪人にふさわしい、闇の色だ」

「えぇ、そうですね。いただき」

 受け取ろうと手を伸ばした瞬間。身体の奥から響く異変に気づいた。ざわりと鳥肌が立ち、腹からこみあげる不快感に油汗が出る。

(クスリ、が、切れたのかな)

 もう少しだったのに。あと5分。いや3分か。今だけでいい、あとになってどれほどひどく発症してもかまわないから、今は彼をだましきるまでは何でもないふりを。

「……ます」

 ぐっと奥歯をくいしめる。表情だけはいつものようにと心がけて、右手でマグカップを受け取った。左手はテーブルの下に置いてぐっとコブシを握り固める。爪が皮膚に食い込む痛みでたくさんのものをこらえ、僕は一息にコーヒーをあおった。

「ご馳走さまでした、ゴドーさん。そろそろ出勤の時間ですよ、洗い物はしておきますから行ってらっしゃい」

「まるほどう、アンタ……いい加減、バカな嘘はやめな」

 どうか、早く行って。それだけを願って笑顔を顔に貼りつける。

 だらだら流れる汗まではどうしようもないけど、でも、この人とスムーズに別れるように、ふてぶてしく強気に笑って。

「浮気したのは事実ですって。ほら、早く出て行かないと遅刻してしま」

「俺じゃあ、頼りにならねぇのか」

 抱きしめられて大きな手のひらが背中を撫でる。優しく、何度も何度も。

 それについに負けてしまって、僕は身体をくの字に折り曲げて苦痛を吐き出した。痛みが身体中に満ちて気が遠くなる。ゴドーさんのベストに全力ですがりつきながら、服に皺がついちゃうな、なんて馬鹿みたいなことを考えた。

「昨夜だったか、まるほどうが風呂に入っている時だ、コネコあての病院からの電話を間違って取っちまってな、入院手続きについて説明を聞いちゃったぜ」

 病気の診断を受けたのは、つい昨日の昼。

 出先で意識を失って病院に運ばれた僕は緊急入院が必要だと言われたのだけれど、個人で事務所を開いていることを説明して一晩だけ猶予をもらった。

 現代医学ではまだ治すことが難しい病気らしく、おそらくは、そう簡単に退院できないだろう。

「アンタからきちんと説明してくるだろうって思っていれば、ありえない嘘で俺と別れようとするなんてな」

 そして僕は今までにないくらい頭をフルに働かせて、一番最優先すべきことを決めたのだ。それは、ゴドーさんとスッパリ別れること。

 優しいこの人のことだ、僕が病に倒れたとなれば自分のことそっちのけで看病してくれる。それだけは嫌だった。

 誰が好きな人の負担になりたいなんて思うだろう、それくらいなら憎まれてもいいから離れることを選ぶ。そうして、記憶の中でだけでも馬鹿な男がいたことを覚えていてもらえれば、それだけでいいのだと。

「俺はそんなに頼りにならねぇ男かい? 情けなくて涙が出そうだぜ」

 かすれた声が少しだけ震えて聞こえて、この人が泣くはずはないのに、声が濡れているような錯覚を起こす。苦痛のせいで嫌な汗を吹き出しながら僕は奥歯をかみ締めて荒い呼吸をこらえた。

「こんな姿、見せたくなかったんです」

 激痛を感じるたびにこんな風に醜い歪んだ姿をさらすのだ。ゴドーさんは優しすぎるから、そのたびに何も出来ない自分を責めて苦しむだろう。僕だって、そんなことは我慢できない。これから一生連れ添って支えていこうと思った人の、負担になるだけの半生なんて嫌だ。

「あなたに、だけは」

 吐き出る言葉は苦痛を生んで僕の中でよどむ。にじむ涙が痛みのせいなのか、それとも違った理由なのかは分からない。幾筋も頬を伝い落ちる水滴に顔を汚し、必死の努力をしてゴドーさんの胸を突っぱねた。

 離れようとする僕の腕を捕らえて、ゴドーさんは強く強く抱きしめる。その腕の確かな感触に包み込まれ、淡く痛みが溶けていく。鎮痛剤よりも確かな効力のある薬に、僕がどれほどゴドーさんを愛しているかを思い知った。

 ゴドーさんは抵抗をまだ警戒しているのか、腕の力を緩めないままそっと身をかがめて僕の肩に頭を乗せた。

「競争しようぜ、まるほどう。俺とアンタ、どっちがより長く生きられるか競争だ。一日でもいいから生きた方が勝ちだ。どうだい、不敗の弁護士さんよぉ、俺と勝負しねぇか?」

 ゴドーさんの声が震えている。ゴドーさんの腕が震えている。過ぎるほどに優しいこの人の心がどれほどに乱れているのか分からなくて、僕はその背中に手を回してベストに爪を立てた。

「アンタが負けちまった時は覚悟しな、追いかけていって閻魔のオッサンの前で熱烈な愛を感じさせてやるぜ」

「それは、困りますね」

 苦しい呼吸が元に戻り、僕はハハと小さく笑う。

(僕は、頭の中までおかしくなっちゃったのかな)

 僕が死んだら後を追うと言う言葉を嬉しいと思うなんて、人としてどこか間違っている。自殺なんて許さないと言わなければならないのに、嬉しくて涙がこぼれて。胸が苦しいくらいにいっぱいになって息が止まりそうだった。

(でも……生きていたい。この人と、一緒に)

 今は、地獄に落とされてもいいからこの腕の中にいたかった。このぬくもりを、自分の意思で手放すなんてもう出来ない。自分から離れるなんて、もう無理だ。別れを切り出すだなんて、ただ一度限り。僕は弱いから支えを失うなんて、耐えられない。

「俺と一緒に生きてくれるな、コネコちゃん?」

 僕は凪いだような穏やかな心地の中、ゆらりとゴドーさんから離れ、笑いながら告げた。

「……until we are parted by death」

 病める時も健やかなる時も、死が二人を分かつまで。

 それは結婚の時に誓う、二人の誓約。

「Do you promise? If so, say I do」

 僕の言葉の意味を悟ったゴドーさんはクツクツと喉奥を震わせて笑いながら、自分の指から指輪を外し僕の左手をそっと取り上げた。

「――Yes, I do」

 低いバリトンの声できっぱりと答えると、ゴドーさんの温もりの残る指輪を僕の小指にはめた。僕とゴドーさんとでは指のサイズが違いすぎて、指輪はくるくると指の周囲を回る。

「近いうち、給料三か月分のヤツを買ってやるぜ、成歩堂」

 もう十分です、とゆるく首を振って、僕は濡れた頬をゴドーさんの胸に押しつけた。





end








記念すべき第1回【G&K Anniversary】の参加作品です。
身を引く、というのをテーマに考えて。
なるほどくんが身を引くとしたらどんなのだろうと妄想した結果です。
最後はバカップル丸出しですが、ゴドーさんかっこいいなぁと。
無駄に長い話になりましたが、少しでも楽しんでいただければ嬉しいですv


(09/09/05・サイト転載09/12/07)



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