Novel 57

□不安定な精神安定剤

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 成歩堂にとっての俺の存在価値がどんなものか、あまり考えたことはない。

 葉桜院事件のあとに、自ら立件した俺の事件を担当し、見事執行猶予つきの判決をもぎ取ったその理由も。
 それ以降も無理やり事務所に連れ込んで助手まがいのことをさせられる理由も、特に意識したことはない。

「あはは、何を言ってるのさ。御剣はかけがえのない親友だって。うん、感謝してるよ、もちろん」

 ただふと気になったのは、成歩堂が例のヒラヒラボウヤとにこやかに電話している会話を耳にしてしまったからだ。
 楽しそうに目を細め頬を緩めて笑う姿は本当に気を許す相手だけに向けるそれで、そういった笑みを目の当たりにしたことのない俺は内心ひどく衝撃を受けながら、そりゃそうだと心で呟いた。

(俺はコネコちゃんの幼馴染でも親友でもねぇからな)

 開きかけた所長室を閉め、俺は事務所内に与えられている椅子に座り、コーヒーをぐっとあおった。

 いつもと同じブレンドのはずなのに喉を滑り落ちるそれはひどく苦くまずい。
 豆も煎りも配合も間違えるはずもないのに、なぜだか腹の奥にひどい苛立ちがよぎる。

 それならばと引き出しから取り出した煙草に火をつけて、肺に吸い込んだ煙をふーと吐き出す。
 こちらはそれなりに効果があったのか、グツグツと煮えていた心地が少しは落ち着く。

「まるほどうにとっての俺……。そして、俺にとってのまるほどう、か……」

 千尋を間においての憎しみはとうに消えていた。もともとがベクトルの違う憎しみだったのだ、まっさらの感情で成歩堂に向き合えば憎悪など抱くはずもなく、千尋亡きあと大切に全身全霊で真宵たちを守ってくれたことにむしろ感謝している。

 けれど、成歩堂のことを考える時、真宵や春美に対して抱くような温かい気持ちが沸くことはない。
 ただぐっと心臓を締めつけるような痛みが伴う、おかしな感情。強いて言えば千尋へ想っていたような、そんな甘ったるい想いだった。

 そう、もうすでに、自覚はしている。この気持ちはおそらく恋愛のくくりに入るものなのだ。
 それも、千尋に抱いたものよりももっと激しく絶望的なほど狂おしいほどの。

 だから俺にとっての成歩堂のポジションは、そのまま愛おしい相手というそれだ。

 これまでの全てを受け入れ、これまでの全てを乗り越えてきたからこその、熱烈な慕情。
 魂を揺るがす芳醇なアロマは媚薬のように俺をとりこにして離さないのだ。

 けれど、成歩堂にとっての自分のポジションは、と考えればそこで思考は中断する。

 千尋の恋人だった男、元弁護士のヤメ検、執行猶予中の犯罪者、アドバイザー兼事務所の居候。
 さてどれが正しい答えなのだろうか。

「あれ、ゴドーさん、どうかしましたか?」

 カチャリと所長室のドアを開いて成歩堂が笑顔を迎える。
 手に空のコップを持っているのを見ると、休憩がてら片付けにきたのだろう。

「電話はもう終わったのかい、まるほどう」

「えぇ、ちょっと今回の裁判で検事局の手を借りることになっちゃいまして。その根回しです」

 成歩堂は少し隈の出来た目を細めて笑うと、給湯室に向かいかける。
 その腕を素早く掴んで手からコップを奪うと、俺はクッと笑って首を振った。

「お疲れのコネコちゃんにはゴドーブレンドスペシャルを奢っちゃうぜ」

「……すみません、ありがとうございます」

 成歩堂は素直に頭を垂れると、応接セットのソファに腰を下ろした。
 何か煮詰っているようで、その眉間からは皺が消えない。

 いにしえの昔から、疲れた時は甘いもの、と言う。
 俺としては邪道だがたっぷりのミルクにハニーシロップを入れたカフェオレを用意して、ほんの少し足早に成歩堂の元へ戻った。

「あー、いい香りだ。ゴドーさん、ホント、コーヒー淹れるの上手ですよね。ありがとうございます」

「クッ……素直なコネコちゃん、嫌いじゃねぇぜ」

 両手でカップを持って嬉しそうに唇を寄せる成歩堂を見つめながら、俺もまた自分用のコーヒーに口をつける。
 さっきの不味さが嘘だったように極上のブレンドが喉を滑り落ち、満足しきった息を吐いた。

「なんだか単純だな、僕」

 薄茶の液を見つめながら、成歩堂はぽつりと呟いた。
 唐突な言葉はけれど反応を待つものではなかったので、俺は無言のままカップの闇を飲み干す。

「さっきまですごくキツかったんです。御剣の手を借りても、真実は見えてこないし。でも……でも、ゴドーさんのコーヒー一杯でそんな気分が吹き飛んで楽になって」

 飲み干したカップの底にあったのは、果たして虚無か希望か。
 重いマスクの下からじっと様子をうかがいながら、俺は成歩堂の向かいで足を組み替えた。

「僕にとってなんだか、ゴドーさんって存在自体が精神安定剤っぽくなっちゃって……依存しすぎ、かなぁ」

 見詰め合う視線が、甘くとける。
 いつもは法廷で真っ直ぐに真実を貫く瞳が、ただ熱い焔を抱いて俺を見る。

 それはおそらく、成歩堂本人すら気づいていない感情の揺らぎで。
 不自由な目だからこそ残る五感でそれを感じ取った俺は心臓が止まるかと思った。

「さて、と。続き、頑張ろうかな。ご馳走様でした、ゴドーさん」

 自分がどんな爆弾を落として言ったのか気づかないイタズラなコネコは、明るく笑って所長室へと戻っていった。
 俺はといえばブスブスと焦げた煙を出すゴーグルを押さえて、みっともなくソファに座るだけしかできなかった。

 俺にとっての成歩堂のポジションは、そのまま愛おしい相手。
 そして、成歩堂にとっての俺のポジションも、きっとおそらく。

 単なる希望的観測なのかもしれない。
 ただ自分の都合のいいように思い込んでいるだけなのかもしれない。

 だが、淡く染まった頬や照れたように震えたまつげに感情の発露が見え隠れして、俺の想いを突き動かす。

「覚悟、するんだな、まるほどう」

 真実は今明らかになった。
 あとは鈍感なコネコにどうやって自分の気持ちを自覚させるか、それだけで。



 そして、それがどんなに困難な道か、俺が思い知るのはもう少し先のこと。








ファイルの整理をしていたら、ひょっこり顔をのぞかせた小話です。
ゴドナルにハマりたての頃のお話ですので、いつも以上にぎごちない。
なるほどくんは自分の気持ちに鈍感だったらいいなーと思います。
個人的に、なるほどくんの無意識の言動に振り回されちゃうゴドーさん、というのが好きで。
鈍感ななるほどくんにたくさん振り回されちゃうんだろうなーと想像しました。


(08/11/02)




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