Novel 57
□Happy Birthday
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事務所に入ると僕は真っ先にブラインドを上げて窓を開ける。
朝の気持ちいい風が髪を揺らして思わず目を細めた。
地上からは子供たちの元気な声や、大人たちが交わす朝の挨拶が響き。
上空にはまばゆい顔を覗かせた太陽が輝いている。
「ん〜今日も暑くなりそうだな」
雲ひとつない青空に今日の天気を予想して、僕は笑顔のまま所長席に腰を下ろした。
パソコンを起動してスケジュールを確認していたら、ふと、デスクの上のカレンダーが目に入って。
「あぁ、そうか。今日、は……」
8月27日。
全ての事件の発端となった日。
(何度目の、今日なんだろう)
口の中にヘンな唾が沸いて、僕はそれを飲み下す。
じわじわと潤む目元を乱暴にぬぐう。
この日は僕にとって断罪の日。
愚かで醜い僕の、記念日。
(今日の朝を迎えた神乃木さんが、次の朝を迎えることはできなかった、日、なのに)
上天気に浮かれていた気持ちが急にしぼんでいって、僕は力なくデスクの上に両腕を置いた。
寒くなんてないのに皮膚の上をざわざわと寒気が走って、周りの空気が薄くなったように呼吸が苦しくなる。
「どうしたんだい、まるほどう」
不意に響いた声に顔を上げると、いつの間に入り込んでいたのか、事務所の応接セットのソファにゴドーさんがくつろいでいた。
「お、はよう、ございます」
「アンタ、その顔色……」
キシリとかすかな音を立ててソファから立ち上がると、ゴドーさんはゆったりとした足取りで僕の方へ歩み寄った。
そして、椅子に座る僕の首の後ろと、足の間接の裏に手をまわし、ひょいと抱き上げてしまった。
「な、にをするんですかっ、ゴドーさん」
「不安定だからな、あんまり暴れると落としちゃうぜ、それでもいいのかい?」
顔のすぐ横で喉仏がクッと震えて、僕はその脅し文句にぴたりと動きを止めた。
抱き上げられたこの高さから落ちてしまえば、きっとほぼ確実に腰を痛めてしまうだろう。
(さすがにこのトシで腰痛持ちはちょっと……)
成人男性を持ち上げているというのに、ゴドーさんはしっかりした足取りでソファーに戻る。
そしてそのまま腰を下ろし、僕の片足を動かしてゴドーさんのふとももをまたがるような体勢で座らせた。
幼子が甘えるような座り方になって、羞恥心にかっと顔が熱くなる。
ゴドーさんは赤くなった僕の耳たぶを優しく噛むと、ふーっと息を注ぎ込んだ。
「いい子だ、コネコちゃん」
背中に回された手が優しいリズムで叩いてくる。
もう片手は、僕の身体を支えるため、腰元をしっかりと抱きしめて。
僕をいくつだと思っているんですか、とか、コネコじゃないですってば、とか、色々な言葉が頭の中をぐるぐるするのに口から出てこなくて。
どうしてだろう、なんて考えてたら、僕はゴドーさんの胸元に顔を押し付けて、アイロンのぱりっとかかったシャツにすがりついて、ぼろぼろと泣いていた。
「俺の腕の中で、何かを我慢する必要はないんだぜ」
何も悲しくなんてない。何も痛くなんてない。
ただこのヒトが優しすぎて、苦しい。
「泣き濡れたコネコちゃん、嫌いじゃねぇが」
静かな声に、心臓が締めつけられる。
多分このヒトは、今日が何の日なのか気付いていないのだろう。
「アンタは笑ってくれた方がいい」
優しい鼓動に、魂が揺さぶられる。
このヒトは、僕がどうして泣いているのか、本当に分かっていない。
(気づいていたら、分かっていたら、きっとこんな風にしてくれない)
背中を叩く一定のリズムが心地よくて、たかぶった気持ちが癒されていく。
けれど同時に、責められているようにも思えて、ちくちくと痛い。
今日の日は、『神乃木さん』がちなみの毒に倒れた日。
『ゴドーさん』となって目覚めるための、長く辛い眠りに堕ちた日。
(ごめんなさい、ゴドーさん。僕は、醜い)
『神乃木さん』が死んだ今日は、それから続く長い死の連鎖を生み出すというのに。
僕は本心からそれを悲しむことができなくて、愚かにもバースディソングを歌ってしまいそうなのだ。
(だって今日は、ゴドーさんが、アナタが生まれる日だから)
コーヒーの闇に落とされた一滴の種子。ちなみの手からこぼれた憎悪のしずく。
発芽したそれは、『神乃木さん』の髪から色を奪って、『神乃木さん』の目から視力を奪って、『神乃木さん』の身体から健康を奪って、『ゴドーさん』を形成した。
二人の痛みや悲しみや絶望を思いやりながら、それでも僕はこの日を喜ばずにはいられない。
『神乃木さん』への申し訳なさとは裏腹に、心の中で歓喜に笑う。
「泣いて、吐き出しちまいな、まるほどう」
僕の腹の奥を知らないゴドーさんはそう甘くささやいて、赤ん坊をあやすようにかすかに身体を揺らす。
「ごめんなさい」
たくさんの気持ちを込めて、ただ小さく懺悔する。
許しの言葉は必要ないから、細かい内容なんて口にしないで。
アナタの苦しみを知っているのにこの日を喜んで、ごめんなさい。
心の底からアナタの幸せを願えない僕で、ごめんなさい。
一番謝らなければならないのは、知らなかったとはいえちなみの共犯となり毒のビンを隠したことなのに。
自分本位な僕は、この期に及んでなお自分のことばかりを謝る。
「……ああ」
ゴドーさんは優しいから。
どこまでも優しいヒトだから、僕は僕の大罪を口にする。
「アナタが好きなんです」
何年経っても、僕にとってこの日は罪の日。
そして、祝いの日。
「俺は、違うな」
『神乃木さん』が死んだ日。
『ゴドーさん』が生まれた日。
「ゴドー、さん?」
そして、僕の中に、自分勝手な悪魔が住み着いた日。
「好きじゃ足りねぇ。アンタを、……愛している」
Happy birthday to you
Happy birthday, dear……
僕は誰にも内緒で。
不幸で幸福なこの日を祝う。
素敵サイトさまを巡っておりましたら、今日のこの日がゴドーさんのあの日だと知りまして(あの日って…。
ものすっごい勢いで書いちゃったお話でございます。
えぇと連載とは違うなるほどくんです。
連載のなるほどくんは、ゴドーさんの苦しみを想って過去を変えようと全てを捨てましたが。
こっちのなるほどくんは、ゴドーさんの苦しみが生まれたこの日を喜んでいます。
ちなみの毒がなければ、『ゴドーさん』という存在は生まれず。
なるほどくんの中に、こんな風に人を好きだと想う気持ちも生まれなかった。
いけないことだと知りながら、それでも『ゴドーさんへと生まれかわる』今日を喜ぶ気持ちを抑えられなくて…暗いです。
でも人間、大なり小なり、自分勝手な、こんな部分はあるんじゃないかなと思います。
むしろ醜い部分があって当たり前かな、ということで、思わず書いちゃいました。
こういうなるほどくん不可の方は申し訳ないです。…でも久々にだーっと書けたお話でした。
(08/08/27)