†text†

□【 Agapanthus 】『ローマ駅にて』
1ページ/1ページ

- side B -『ローマ駅にて』


「おい小僧、起きろ」
頬に小さな痛みが走り、ブチャラティは目を覚ました。
「えっ? ここ、は」
目の前に居たのは、あの銀髪の男だった。こちらを覗き込んでくる、黒い眼球。
「セニョール…え? 俺、一体、どうして」
何がなんだか解らなかった。列車の屋根の上で、謎の敵二人と戦って、殺られる、と思った瞬間に敵も自分も何故か剃刀を吐き出して…そこで記憶が途切れている。

「あ、あの、セニョール」
ブチャラティはおずおずと相席の男に尋ねる。
「俺は生きてるんですよね」
「ここが天国に見えるか?」
「俺はどのくらい気を失っていたんです?」
「一時間ぐらい、か」
「あの二人の狙撃手はどうなりました?」
「列車から落ちて、多分、死んだ」
ブチャラティは訳が解らないなりに、自分の今ある状況を読み取った。
そしてやや落ち着いたところで、自分が男の腕の中に居る事に気付く。
「ど、どうしてこんな格好で」
「倒れたお前をここまで運んできて、その血まみれのスーツを何とか外から隠そうと努めたら、こうなった」
「あ…」
よく見ると、自分の白スーツは夥しい量の血で真っ赤に染まっていた。
「列車を降りる前に上着だけでも着替えておけ」
「は、はい」

ブチャラティは内心動揺しながら床に降りた。途端、猛烈な眩暈に襲われて、ふらふらと倒れ込む。重心を失ったその体を、再び男が抱え込んだ。男はブチャラティの体をを座席に放ると、鞄から何かの小瓶を取り出す。
「飲め」
「えっ?」
突然その小瓶を差し出され、ブチャラティが戸惑っていると、男は小瓶を開けて何か錠剤のようなものを二、三粒取り出し、手元のミネラルウォーターとともに自分の口に含んだ。
「セニョール…? 一体、何を、うっ」
ブチャラティの問いは、押し当てられた男の唇によって遮られた。
反射的に閉じようとした歯茎をこじ開けられ、口内に男の口から何かが流し込まれる。
「ぐっ…」
数秒間その状態が続き、ブチャラティが水と錠剤を完全に嚥下したのを確認すると、男は漸く唇を離し、ブチャラティの口元に零れた水を指で拭った。
「…っは」
「鉄剤だ。さっきも一応飲ませておいたが…貧血を起こしている筈だ。残りはやるから、飲んでおけ」
鉄剤の瓶をブチャラティに放って寄越すと、男は自分の荷物をまとめた。

男が出て行った後、ブチャラティはあたふたと着替えて列車を降りた。まだ軽い眩暈はするものの、普通に行動する上では差し支えない。
「でも、これ…どうしよう」
ブチャラティは手に持った本に目を落とした。さっき席を立つ時に拾ったものである。恐らく、あの銀髪の男が忘れていったのだろう。
あの男はまだ近くにいる筈だ。追い掛けて本を返そう。そう思って急いで駅を出たブチャラティだったが、男の姿はもう何処にも、見当たらなかった。

「それにしても…だ。俺、任務中に何て事…」
狙撃されて、敵の正体も掴み損ね、あまつさえ一般人に介抱されるなんて。とんだ失態だ。おまけに、セモラートとの交渉で『売り物』とする体にも傷を付けてしまった。
「ああ俺の馬鹿! 馬鹿!」
思わず頭を掻き毟りたい衝動に駆られる。
「あのセニョールにろくにお礼も出来なかったし…」

『大人は、借りをきっちり返すもの、だろう?』

不意に、昨日自分がナランチャに言った台詞が脳裏に浮かぶ。あの男は言うなれば命の恩人だ。相応の埋め合わせをしなければ。

そういえばあのセニョール、ずっと俺の事『小僧』呼ばわりだったっけ。
ブチャラティは男のよく通る低い声を思い出した。男は自分より大分年上に見えたが、終始子供扱いされるのは少々癪だった。
いけない、これじゃあまるでナランチャだ。ブチャラティは苦笑した。

「この本…何としても直接返さないと、な」
ギャングの面子にかけても、だ。ブチャラティはその本を大切に鞄の中に仕舞い込んだ。

別れ際に聞いた男の名を、もう一度、呟く。

「リゾット…リゾット・ネエロ」


[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ