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□【 Agapanthus 】『暗い水の夢』
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- side B -『暗い水の夢』


「や…だ、父さ、ん…」

――嫌な、夢を見た。
ブチャラティはシーツの上で溜め息をついた。ひどく、息苦しい。

夢の中でブチャラティは、幼い少年だった。年は10歳頃だろうか、故郷の漁村の海辺に、彼は居た。満月の夜。砂浜には、誰も居ない。ブチャラティは、濡れた砂浜を独りで歩いていた。
ブローノ。不意に誰かが自分の名を呼んだ。声がした沖の方を見遣ると、小舟の上で父が手を振っている。
今そっちに行くよ、父さん。ブチャラティはぱっと駆け出し、父の居る方へ向かって夜の海を泳ぎだした。海は穏やかで、水面に月光がゆらゆらと輝いていた。波間を煌めく鈍色の光は、父の居る小舟へと続いている。ブチャラティは揺れる銀色の道を泳いでいった。
暫く泳いでいるのに、父の小舟は一向に近付いてこない。ブチャラティは、忙しなく水を掻く手足がじわじわと冷えてくるのを感じていた。
月が翳る。波に浮かぶ光の道が細くなった。ブローノ。また、父が呼ぶ。ブチャラティは必死に波を掻き分けて泳いだ。

泳ぎ進むうちに、ブチャラティはいつの間にか現在の大人の体になっていた。父さん。先程よりやや低く変わった声で父を呼んだ時、波の上の光の筋が、消えた。見上げると、厚い雲が満月を完全に覆い隠してしまっていた。光の先に見えていた父の姿が暗くなる。

ふと不安になって、ブチャラティは今来た方を振り返った。暗い海の先には、何も、なかった。砂浜ももう、見えない。だいぶ沖の方まで来たらしい。早く父の所まで行かなくては、と、ブチャラティは再び進行方向へ顔を向けた。そして、愕然とする。
父の姿が、忽然と消えていた。暗い海に、一隻の小舟だけが、心許なく揺れていた。父さん。ブチャラティは父を呼ぼうとしたが、口を開いた瞬間、突然何者かに海中へ引き摺り込まれてしまった。藻掻こうにも、手足が動かない。見えない力に全身を押さえつけられたまま、ブチャラティは暗い水の中へと沈んでいった。

苦し紛れに絞り出した自分の声で、ブチャラティは目を覚ました。全身が、汗でびっしょりと濡れている。終わりの見えない闇の中に、何処までも何処までも堕ちる、夢。
「何、だ…あれは」
ブチャラティは暫く、肩で荒い息を繰り返していた。

カーテンから、うっすらと青白い光が射し込んでいる。時計を見ると、4時を指していた。二度寝をするには中途半端な時間。それでなくとも、もう眠れそうになかった。
ブチャラティはもう一度深い溜め息をつくと、手近な服を纏ってベッドを降りた。スプリングが小さく軋む。客間のソファで寝ているナランチャを起こさないように気を付けながら、ブチャラティは足音を忍ばせて、コーヒーを淹れるためにキッチンへ向かった。

途中、壁に掛けた鏡に映る自分の姿が見えた。青ざめた唇。泣き腫らした両目の周りが、赤い。

「なんて顔…してるんだ」


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