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□ゲルトルート
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見渡す限り不良ばっかり、云業ばっかりのこんな学校なんて来たくなかった。
でも仕方ないじゃない。
滑り止めのここにしか合格らなかったんだから。
そんな不本意で始まった高校生活も、気付けばもう3年目。
この間、私はなるべく目立つ言動は避けて大人しくしてきた。
…………それなのに。
「オラ、どうしてくれんだコレよォ」
「う……」
私はいま、セーラーの首元を云業に鷲掴まれ、落書きだらけの汚い壁に押し付けられている。
「冷てぇなァー」
云業の長ランは黒でもわかるくらい濡れていて、濡らしたのは紛れもない私だ。
今朝、先生に頼まれた花壇の水やりをしていたところ、登校してきた友達に声をかけられた。
ホースを持ったまま振り返った瞬間、運悪く近くを歩いていた云業に放水してしまったのである。
声をかけた友達はオロオロするばかりで、助けてくれる様子はない。当然だ。
うちの学校ではこういう光景は日常茶飯事で、周りの生徒たちも見ぬ振りをして通り過ぎたり、同情の眼差しをもって離れたところから眺めているだけ。
手から離れたホースは水の勢いそのままに地面を濡らし続ける。
「何か言うことあんだろォ?あ?」
「………ご…ごめん、なさ…」
「きっこえねーなァーー」
云業は自らの耳に手をあて、顔を近づけてくる。
初めから聞く気もない相手に今更何を言っても無駄だ。
それならもうひと思いに殴られるのを待つ他ないと、半ば諦めかけていたとき、
「身をもって反省しなァ……!」
いよいよ云業は拳を固め、後ろに向かって勢いをつける。
私は震える奥歯を噛み締め、目をギュッと瞑った。
ゴリィッ、という鈍い音。
骨まで到達したのだと、直感的に感じた。
──けれども、
「…………?」
痛く…、ない。
本来やってくるはずの痛みが、全く来ない。
そっと目を開けると、私を脅していた云業が宙に浮いていた。
どっしりと地を踏んでいた足は離れ、身体が投げ出されたような格好。
私の襟元もいつの間にか楽になっていて、目の前の光景はさながらスローモーションのようだった。
刹那、ズシャアアアアと擦れる音がした。それも随分と遠いところで。
その時初めて、周りの人間の悲鳴が耳に飛び込んできた。
大型トラックに生身の人間が勢い良く衝突したかのような、派手な吹き飛び方。
何が起こったのかもわからず、私はただその方向を呆気にとられて見つめていた。
地面に強く身体を打ち付けた云業は少しも動く気配がない。
「大袈裟だなぁ」
柔らかい口調の、それでいて震わせるような何かを持った声。
「…!?」
長い赤髪を背でみつ編みにした男子生徒が、さっきまで云業が居た場所に立っていた。
拳を突き出したモーションを下げ、指についた血──恐らくさっきの云業のを、不快そうに払った。
「楽しみにして来たのに、初日からガッカリさせないでよね」
制服は夜兎工の学ランだけれど、その顔に見覚えはない。
周りの生徒たちの様子を見るに、この見ず知らずの男子が云業を殴り飛ばしたらしい。
彼は花壇の傍にしゃがみ込み、花弁をそっと撫でた。
横まで綺麗に整った顔をまじまじと見つめていると、視線を流した彼と目が合った。
「この花、君が世話してるの?」
「!!え、あ、……はい」
溜まった水滴を吸い取るようにあてられる、細く長い指。
「へぇ……」
そのまま、薄いひらをつまんで引っ張った。
柔らかい茎がつられてしなる。
「……ちょ、」
今にちぎれる、というところでパッと手を離して立ち上がった。
花は弾力で元に戻り、小さな飛沫を飛ばす。
「こんなとこには似合ってないけど、なかなか良いんじゃない?」
何故か私の方だけを見つめて、ニッコリと微笑まれた。大きな目は細く弓なりになる。
しかしそれは、不思議と含みのある怪しげなものにも見えた。
じゃあね、と残し、髪を振って去ってゆく。
白い肌が黒い学ランに眩しい。
周りの生徒たちは彼から距離をとり、校舎まで自然と道が開かれる。
遠くなる背中を見つめながら、せめて名前だけでも訊いておけばよかった、との思いが頭を掠めた。
しかし同時に、彼のことを知る日はそう遠くなく、自然と誰の耳にも入るようになるであろうと確信した。
彼が何者であるかは、わからない。
でも、彼がどんな悪人であっても、少なくとも今の私にとっては間違いなく正義だった。
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夜兎工の学園モノとかも楽しそうですけど、生徒がほぼ云業だと考えると…