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下弦の月[6]


ピアノを弾きながら、春歌は那月の歌に聴覚を寄せる。
曲はお互いに納得のいくものが完成し、後はボーカルの調整だけだった。

「那月くん…歌い方変えましたか?」

ここ数日感、春歌は微妙なズレを感じていた。
調子の良し悪しというよりも、歌い方や表現の仕方そのものに違和感がある。

「前のままでは物足りないので、少しロックを意識してみたんです。僕はこっちのほうがかっこいいと思うんですが…」
「そう、ですか」

確かに激しさと色っぽさが以前より出て、味としては悪くない。
ただ、那月を意識して作った曲からは距離があるような気がする。
作曲者にしかわからないような微妙なニュアンスの話ではあるが。

「あの…前の感じで歌ってもらうことは出来ますか?」
「気に入りませんでしたか」
「いえっ、そういうわけではなくて…比べてみたいと思って」

春歌は聞けないでいたが、那月の弟の砂月という存在が、周知となったあの日から、那月の様子がおかしかった。
レコーディングルームでの二人の話に、聞き耳を立てるようなことはしなかった。
那月を信じていたから。
でも、それ以来、那月はいつになくイライラしている。というよりは、余所余所しくしているように思えてならない。

「歌ってみます…でも、前の感じを忘れてしまいました」
「そう、ですよね。出来る限り、優しく歌ってください。前の感じは、優しかったから」

春歌の注文に、那月はうんとだけ頷く。
注文後の歌は様変わりした。那月の声は先刻よりも柔らかさと、以前はなかった哀しさを交えていた。
哀しい。非常なまでに。
(那月くん…どうしたんだろう)
まるでこれでは、優しくしたいのに出来ない人の心を表現しているようだ。
春歌はピアノを奏でながら、目頭が熱くなった。

「ハルちゃん…?」

那月の声に気づかされた時、春歌の頬には感受の辿った跡があった。

「ごめんなさい…那月くんの歌、凄く哀しい物語が伝わってきて…」

那月の心は今、壊れそうなのだ。那月は音楽で自分を素直に表現するから。

「僕は…生まれて初めて、音楽の女神に出会えたのかもしれませんね」
「え?」

那月は微笑を浮かべていた。それがまた、哀しそうだった。

僕のために、僕の代わりに泣いてくれた人は、あの人の次に君だった。


――

那月から一通のメールが届いた。名前を確認して、砂月は内心ひやっとした。

『今からそっちに行ってもいいかな』

件名は「さっちゃんへ」と記してあり、本文にはその一文のみ。
(どういうつもりだ…那月)
兄に憎悪を燃やす弟に、敢えて何用だろうか。
(用心するに越したことはないか…)

砂月はいつでも最悪の手段を使えるよう、ポケットにそれをしまいこんだ。
那月が黒であれ、彼もそこまで過激な男ではない。
いきなり押し入って殺されるなんてことは。いや、甘いことは考えるな。
宣戦布告をした以上、那月のほうでも何らかの動きがあるだろう。


「さっちゃん、こんばんは」


那月が到着したのは夕方だった。
ドアを少しだけ開けると、スーパーの袋を持った兄が立っていた。
(一人か…)砂月はほっとした。

「さっちゃん、ごめんね急に」
「いやいいよ。上がってけって」

那月を玄関より先に招くも、背中では那月を警戒していた。

「さっちゃん、あの…あのね。おかず買ってきた」
「え?」

リビングに案内すると、那月が袋の中身を見せてくる。
ネギに、大根に、豆腐諸々。

「さっちゃんの夕御飯、僕がつくってもいいかな」
「お前が?」

砂月は目を吊りあげた。

「どういうつもりだ」
「え?」
「よくもそんな振る舞い方ができるモンだな。何か企んでるんだろ」
「どうしてそんなこと言うの…」
「俺に恨まれてるからさ」

那月に酷いことを言ってもさほど傷つかなくなった。だがまだ、ほんの少し、チクリとした痛みはある。
早くこんなもの、無くなればいい。

「さっちゃんが僕を憎むのは当然だもの…僕、何となく気づいてたから」

那月が悲しそうに苦笑する。キッチンに材料を運び、水洗いをし始める。

「でもその反対は有り得ない…僕はさっちゃんを傷つけてきたから、それ相応の報いがあってもしょうがないなって」
「…な…に…」
「もう手遅れかもしれないけど、僕はさっちゃんとやり直したい…」

砂月の闇は今一度揺り動かされる。何で今更そんなこと。

「僕はあんまり気が利かないから、こんなことしか思いつかなくて…さっちゃんに美味しい料理を作ろうと思って、
昨日ね。友達のトキヤくんに味付けの仕方教えてもらったんだ」

那月の表情はいつもの優しい兄だった。その言葉が嘘だとは思えない。
それは砂月の以前あった感情を引き戻しにかかった。

「嘘つけ…」

磁力に逆らう。駄目だ。まだ那月を許そうという甘い情が燻っている。
信じるか。信じてたまるか。

「お前の言うことなんか信じるか」
「………」

那月からの返答はない。水道水の音が虚しく響いているだけだ。
後ろ姿が力なく思える。触れたら泣いてしまいそうなほどだ。
煩い。弱い砂月は何処かへ行け。
背後から那月の行動を睨めつける。那月がこそっと小さい容器を取り出し、材料に振りかけたのを見た。

「おい那月。今何入れた」
「え?あっ!」

那月の手首を掴んだ。容器が揺れて、中から少し白い粉が散った。

「痛い、離して、よ…さっちゃんっ」
「お前コレ食ってみろよ」
「っ?」
「毒じゃねえか証明してみろ」

那月の顔が真っ青になる。

「これは塩だよ、さっちゃんっ」
「だからその証明をしろって言ってんだよ」

兄の手から容器を取り上げ、砂月は計量カップに思い切り注いだ。

「ほら、毒味してみろよ。これ全部」
「待ってよっ。そんな量飲んだら、僕…」
「飲めないのか?やっぱり毒なんじゃないかよ!」

砂月の剣幕は那月を震え上がらせた。

「うぐ?!」

砂月は那月の口を無理やりこじ開けた。
暴れようとする兄を壁に押し付け、計量カップの中身をぶちまけた。

那月の瞳孔が開き、生々しい嘔吐音が繰り返される。
床に項垂れて喚きながら、なお咳き込み続ける兄をモノ同然に砂月は見下した。

「吐いちまったら判別できねえじゃん」

砂月の声が、那月には悪魔の囁きに聞こえただろう。
いつのまにか兄の眼鏡が転がっていた。砂月は拾い上げる。

「こんなもので、那月になれると思った俺は馬鹿だった…」
「…さ…っちゃ……」
「お前はこんなもので俺の傷を抉りやがったんだ!」

眼鏡を投げつけて、まな板の上のいくつもの切片を、那月に叩きつけた。


「お前がいるから俺はいつまでも影なんだよ!お前のせいで、お前のせいでっ」


砂月の視界は拡散した。
自分で何をしているのかわからないほど、十数年かけて膨張した念が身体から突き抜ける。


――

お父さんとお母さんは俺を愛してくれなかったお前だけを愛していた俺は人間の扱いすらされなかったお前はそんな俺を可哀想に思う素振りをして弟思いの良い兄を演じていたそのせいでますます俺の居場所はなくなったお前が白を演じるせいで俺は何をしたって黒で済まされた誰もが邪魔だと言ってきた家を追い出されたお前は仲間に囲まれて音楽に囲まれて楽しそうに幸せそうに好きな女と遊んでいるのに俺はずっと一人ぼっちで唯一信じていたお前にも邪険にされた許すものかお前から何もかも奪って死んで地獄に落ちるまで絶対許すものかお前なんて死んでしまえ死ね
やめ…やめて、さっちゃ…痛い、本当に……ごめん、なさいっ……
誤って済むと思うかこの諸悪の根源がお前なんて地獄へ堕ちて一生報われない日々を送り続ければいいお前なんて
ごめんなさい、ごめんなさい、何もかも受け止めるから、そしたらさっちゃん…
うるさいうるさいお前なんて絶対幸せになれない俺がさせない
さっちゃ…………て…ね…?


――

静かだ。

一室は蒸している。だた、砂月の息遣いだけが生きていた。
腕が痛い。心臓が駆けずり回るようだ。喉が焼けている。

酷い汗をかいている。拭おうとしたが、手のひらも発汗量が凄まじかった。
指がふらふらだ。
頭がぼーっとする。


「……那、月………?」


静かすぎる。言いようのない違和感に、砂月は思わず名前を呼ぶ。
熱を発しているせいか、五感が思い通りにならない。
脳の指令が行き渡ってないのだ。

返事がない。ちょっと、やりすぎてしまっただろうか。

「那月……」

今度は言葉の輪郭を整えることができた。
やはり、静寂を守っている。

「那月…?」

おかしい。視界も徐々に正常さを取り戻してくる。
那月は頭を守るようにして倒れていた。

「那月…」

怯えているのか。
そりゃそうだ。怖い思いをさせるつもりで、お前に当たったから。
でも、震えてない。

「那月?」

ミルクティー色の髪に指を絡める。綺麗な髪だった。自分も、これを受け継いだはずなのに。

「那月…何か言えよ」

よほどショックだったのか、狸寝入りかわからないが、反応の気配がない。
髪全体をまさぐる。しばらくして、自分の掌が濡れていることに気がついた。

「え……」

掌は鮮やかに色づいていた。なんだこれは。
砂月は思わずそれを口に含む。
それは舌と喉に張りついて、綺麗に流れてくれない。そのまま乾いて留まりそうだった。

「しょっ…ぱい……」

手相に舌を這わせた。
人肌のように温かい味に夢中になって、砂月は自分の手を舌で愛撫した。
口唇の周りにも付着するそれ。

「那月…お前の、髪が…」

汚れている。砂月は迫り来る動悸の正体に怯えて、那月の身体を傾けた。
那月は目を閉じている。
ミルクティー色の髪を、違う角度から覗い見たら、濃い紅色をしていた。

砂月はそれが見間違いかと思い、周囲を見渡した。

色とりどりな野菜の切片。フライパン。菜箸。まな板。
計量カップは、中身をぶちまけたまま横たわっていた。

後は。原型を留めていない割れ物類。包丁。
その付近に赤い斑点。
那月の髪を濡らす色。赤。ミルクティー。赤…赤。


砂月は、口を塞いで声を絞り出した。
首を横にふる。頭痛がひどくなるまでふり続ける。人の血液だ。


「あ…あ……あ……」


那月は、死んでいる。


――

練習を終え、春歌は那月とレコーディングルームを後にした。

「満足の行くものに、なりませんでしたね…」

最後まで、春歌はOKを出せなかった。
歌の理想を一方的に押し付けるつもりはないし、今までも、食い違う部分は手直しして、満足な出来栄えにしてきた。
今は、食い違いすぎるのだ。

「ごめんなさい。那月くんの希望も取り入れたいんですけど…私の実力不足で、できなくて…」
「いいえ。あなたはただ、正直に僕の歌を受け入れてくれただけです…」

ごめんなさい、と那月が重く瞼を伏せた。
歌自体には感情が込められていた。違和感は、那月の心の問題なのだろう。

「那月くん…あの」
「はい…」
「何か、ありましたか…?」

那月が一瞬だけびくっとしたように見えたが、すぐに笑顔になった。

「いえ、とくには」

この違和感。
無理している笑顔、というよりも、笑顔に不慣れな笑顔、というのだろうか。

「さっちゃんのことでしょう?」
「え」
「あなたが聞きたいのは」

春歌は狼狽して、息を呑むように頷いた。
那月を怒らせたのかと思ったからだ。

「ハルちゃんには、どう映りましたか?僕たち双子の兄弟が」

春歌に聞いているのに、心ここにあらずな表情で那月は窓の外を眺めていた。
那月と砂月。一言では済まされない関係なのだと、たぶん、春歌だけでなく、仲間も感じ取っただろう。
不意に思い出した。あの日、ゲームセンターの帰り、那月からの問いかけを。


「那月くんは以前、『僕がこの世に二人いたら、あなたはどうしますか』って質問をしましたよね。
それって、弟の砂月くんの、ことですか?」


那月が驚いた顔で振り向いた。

「そんなこと…言ってたの…?」
「え?」
「…ああそういえば、そんな質問をしましたね僕」

すぐに繊細な横顔は外の景色に返った。


「さっちゃんが現れたら、さっちゃんにあなたを取られるかもしれない…さっちゃんは
きっとあなたを好きになるから…
だって、僕が…あなたを好きになったから」


――

時計の針が深夜をまわっていた。砂月はようやく冷静になった。

(どうする…)
横たわる那月の死体を、数歩離れた場所から見据える。
夢なら覚めればいい。だが何度瞬きをしても世界が変わることはない。

(殺しちまった…んだよな、これ)
どこか他人事のように心中でつぶやく。
あの時、自分でも記憶にない時間が流れていた。
手の届く範囲のものすべてを、自身の蓄積された怨恨とともに那月にぶつけた。
覚えのない刃物まで。恐らくこれで。

殺すつもりはなかった。
なかった?嘘だ。

『よかったじゃねえか。これでお前は表の世界に出ることが出来る』

そうだ。遅かれ早かれ、自分は那月を殺していた。
だってそうしなければ、自分は人間として成り立たなかったから。

「コレで、よかったんだ…」

砂月の口元には笑みが浮かんでいた。

「怖くない…怖くねえぞ…俺は何も悪くない…ずっと我慢してきた。なあ、だから許されるだろ…?
ひとりくらい、ころした、って……」

神にでも話しかけているつもりなのか、天井を見上げたまま言った。

「那月ばっかずるい…那月…ばっか……うそだ…うそだ、那月」

砂月はほんの一刻、声をあげて泣いた。
温かみが失せた那月の頬を、手で包んだ。

死体を捨てなければ。

その時、バイブ音が鳴った。那月のズボンのポケットだった。携帯だ。
砂月はポケットの中をまさぐり、取り出した。
翔、からだ。

(無視、するか…)

いや、これを利用しない手立てはない。
砂月は繋いだ。

『もしもし、もしもーし那月?』
「はい…翔ちゃん、どうしました?」

砂月は腰を下ろして、壁によりかかった。

『お前今どこにいんだよ。七海が心配してたぞ。帰ってこねえって』
「…ああ、ごめん。今ね。弟のアパートに来てて…うん、話が長くなっちゃって泊まることになったんだ。
連絡のタイミングがつかめなくて、本当にごめん。明日の朝戻るから…」
『…まあ、そういうことなら、仕方ねえけど…俺にも離れて暮らしている弟がいるから、気持ちはわからなくも…てかお前…
なんか全然元気なくね?大丈夫か?』

緊張と上の空を行き来していた。

「ちょっと眠いからかも…ごめんね。体は元気だよ」
『そっか…明日テストだし、ちゃんと休めよ』
「ありがとう。おやすみなさい、翔ちゃん」

そこで電話は切れた。
明日からは学園生活とバイト、アパートでの暮らし。目まぐるしい日々が始まるのだ。
砂月はほとんどの人間に把握されてない存在だから、少し姿を眩ませても誰の気にも留まらないだろう。
那月として暮らし、時々、砂月に戻る。

やっと、俺は個人となれる。


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