その他

□記憶の中の
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うわぁぁぁぁ!
私は歓喜の声を上げた。

だって、わっかがいくつも飛んでいくの。
すごい!すごい!おもしろい!

私は馬場先輩の部屋で、彼の特技である『煙草の煙でわっか』を見せてもらっていた。
煙草に火をつけた馬場先輩は、そのまま少しだけ上を向いて、口の形を丸くした。
見てろよ?というように視線をよこして、それからひとつふたつとわっかを作って見せてくれた。

いつだったか、私から聞いたことがあるような気がする。

「あの…特技は何?」

誰かが「柔軟」と言った。
誰かが「演説」と言った。
誰かが「暗算」と言った。
そして馬場先輩が「煙草の煙でわっか」と言った。

それは曖昧で断片的な記憶。
でもきっと現実(ほんとう)の記憶。

馬場先輩のことだけは、少しずつ思い出している。
私と馬場先輩が、何か大切な事を忘れているのは確かで、でもどうしても思い出せない自分達がもどかしい。

お前は大袈裟だなと、切れ長の眼が笑った。
優しく見つめられて思わず心臓が鳴る。

「だ、だって私、こんなの初めて見ました!すっごくおもしろかったです!」

「そうか、それならよかった」

馬場先輩は、肩を揺らしながらまだ長い煙草を灰皿に押し付けた。

「でももう煙草はダメですよ?」

「あぁわかってる」

…なんて自分勝手な言い分。
彼の特技を一度見てみたくて、やってやろうか?と言う彼に甘えたのは私。
禁煙してるのにごめんなさい。
馬場先輩は優しいから、私はついつい甘えてしまう。
で、でも!やっぱり煙草はダメだから…

「新しい飴も買ってきましたよ。はい、先輩」

さっきコンビニで買ったばかりの飴の袋を差し出す。

「おぉ、悪いな」

そう言って彼は飴ごと私の腕を引っ張った。
反動で馬場先輩の広い胸に飛び込む形になってしまう。
その瞬間かぁっと一気に全身の熱が上がった。

「でも今日は、みなみがいるからいらねぇな」

優しいキスが降ってきた。
付き合い始めてから、キスは何度かしている。
でも今日のキスは初めての香り。
煙草の香りがした。

軽いキスを何度か交わした後、彼の眼から余裕の色が消えた。
それに気付いた瞬間、今度は深く深く求められる。
そのまま私の背中は冷たい床に押し付けられていた。

「馬場せん…っ!」

一瞬にして緊張が走る。
彼に押さえ付けられた身体と唇は、私の言うことなんてまるで聞いてはくれない。
私達はまだ、キスしかしたことがなかった。
私だってその先の男女の関係を知らないわけじゃない。
でも、私にはまだ…っ

「…っ…ば、馬場先輩!…先輩っ!」

馬場先輩の唇が首筋に移動し始めたその隙に、私は必死に彼の名前を呼んだ。
頭の中は真っ白で、ただひたすらに彼を呼んでいた。

「馬場先輩…!待っ…」

再び口を塞がれて、そのままの格好で馬場先輩が言った。

「違うだろ?」

なに、が?
今の私には彼の言葉の意味が容易には理解出来なかった。
困惑の色を写した私の顔を見やって、彼の唇は耳元へと移動した。

「違うだろ?みなみ。俺は、馬場先輩じゃない」


____あっ。

私は言葉の意味をようやく理解した。
あの日、あなたの腕の中で初めて呼んだ。
あなたの、名前。

「き…よみ…」

まだ慣れない呼び方に、恥ずかしくてたどたどしくなってしまう。
それでも私は教碧から目を反らさず、もう一度名前を呼んだ。

「教碧」

恥ずかしいからと、口を閉ざしてはダメ。
いつでも真っ直ぐ、ちゃんとあなたに伝えなきゃ。
だって明日は、何があるかわからない。
いい子だ、笑いながらそう言って、教碧は優しく私を抱き起こしてくれた。

「悪い。びっくりさせたな」

ポンポンと頭を撫でられて、なんだか申し訳なくなった私は、俯いたまま謝った。

「…ごめんなさい。私、まだ怖くて…」

それだけ言うと、ふっと吐息混じりの含み笑いと共に、隣り合う彼の肩が揺れた。

「バカだな。んなこと気にしてんじゃねぇよ。まぁ、抱きたいか抱きたくないかで言えば、そりゃもちろん抱きてぇけどな」

なんでもない事のようにさらっと言われて、再び私の身体が熱を持った。

「でもな、お前の気持ちを無視してまでしたいとは思わねぇよ。みなみ、お前を大事にしたいんだ」

そんなに優しい眼を向けられたら、私は息の仕方も忘れてしまう。
甘い、甘い、あなたの毒に侵されて。
私は彼に、キスをした。
それは今私に出来る精一杯の愛情表現。

「もう少しだけ、待ってね?今はキスだけでも心臓が持たないの」

「…むらっとしたな」

また、彼の肩が揺れた。

むせかえる程の甘い幸せの中、溢れる愛しさを隠すことなく私達は笑い合った。
そっと触れた教碧の唇は、まだ煙草の香りがしていた。



____あの日、

「演説」と答えた彼、
「暗算」と答えた彼、

「柔軟」と答えた彼。

誰か彼らに伝えてほしい。

私達は大丈夫。
きっと幸せになるよ。
だからもう、心配しないで。

ねぇあなた達は今どうしてる?

隣に、
愛しい人はいますか?
 



【終】

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