メビウスの輪

□メビウスの輪4
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第四話 ジャック・ザ・リッパー(前編)









イギリスの短い夏はあっという間に過ぎる。
夏といっても、この英国は玲の故郷である日本と違い、気温は最高でも30度には満たない。
一年間で最も過ごしやすい時期であり、その5月から8月までの間は社交期だった。
どの貴族もマナーハウスからタウンハウスへと移る時期であるのだが、現ファントムハイヴ家当主は社交に積極的ではなかった。


「・・・それで、坊ちゃん。
社交会なんて暇人共の催しに一々顔を出していられるか、と仰っていたのに・・・
どうして突然タウンハウスにいらっしゃったんですか?
それに、私もお供させていただける事は大変光栄に思いますが・・・今朝突然に何故ですか?」


玲は揺れる馬車の中で正面に座る主に問いかけた。
突然、「ロンドンに向かうからお前も共をしろ」と命ぜられ、詳しい事情も聞かされぬまま馬車に詰め込まれたのが今朝の事。
シエルは重い雰囲気を醸し出していて訊きづらいし、セバスチャンは早々に馭者台へと上がってしまうしで、理由を聞き出すタイミングがなかった。
だが、いい加減そろそろ理由を知りたかった。


「・・・玲、お前はもしもセバスチャンが不在になった時のための執事代行役だ。
ファントムハイヴ家の裏の仕事を・・・女王の番犬の仕事を何も知らぬ訳にはいくまい。
だから、見せておこうと思ってな」

「裏の・・・仕事」


なんとなくではあるが、分かっていた。
シエルが表には公開できない秘密の仕事をしていること。
そしていつもドジばかりの同僚たちの本来の役目も。
ファントムハイヴ家は公にできない裏の仕事を引き受ける家系なのだ。
バルド、メイリン、フィニは恨みを買うことの多いシエルと屋敷を守るための警護役だ。


「これまで表の世界で生きていた玲に何の選択肢も提示してやれない事は、すまないと思っている。
だが、ファントムハイヴ家の使用人として雇われた瞬間から、裏社会の人間からはお前もこの稼業の一員として見なされている。
これから様々な修羅場を見ることになる。
覚悟はしておけ」


シエルの重い言葉が、ズンと胸に落ちる。
玲はもう一般の人間ではなくなっているのだ。
一介の使用人であって、そうではない。
それでも玲には後悔する気持ちなど微塵もなかった。
この世界に落ちて出会った、玲の誇りそのものでもあるシエル・ファントムハイヴ。
シエルの下でなら修羅場だって名誉な舞台だ。


「イエス・マイロード」


決意新たに主人にかしずく。





タウンハウスまでの道のりは、もう半分以上を超えた。
窓越しに流れていく景色を見送る。


ドクン・・・!


「・・・っ!?」


胸騒ぎに似た落ち着かない心地が玲を襲う。
それと同時に掌の印がじわりと熱を持ち始めた。
思わず確認した掌には、また印が浮かび上がっていた。


「玲? どうし・・・おい、その掌は!」


初めて見る玲の『供物』の印に、シエルは身を乗り出した。


「これが、セバスチャンさんが言っていた神々へ捧げられる者に刻まれる『印』・・・らしいです。
たまに、こうして浮かび上がってくるんです。
どうしてなのかは、わからないのですけれど・・・
火傷しそうなほどの熱と、妙な落ち着かない心地を感じるんです」

「・・・これが、印か」


シエルは僅かに視線を下げた。
自身の右目の契約印を意識した。
玲とシエルとでは印を受けた状況も性質も違うが、それでも人外との繋がりを示す『証』をその身に刻んでいる。
以前に玲から聞いた話では、彼女も両親を亡くし一人暮らしをしていたという。
二人は少し似た境遇だった。


「玲、その印は隠し通せ。
メイド姿の時でも普段から手袋を着用するようにしろ。
人間に見られても、神に見られても厄介な代物だろう?」

「は、はい・・・そう、します」


シエルからの忠告を受けつつも、熱の増していく印と、徐々に胸騒ぎが強くなる心地で顔色は白くなっていた。
右手を強く握り締める。

・・・一体、どうしたというのだろうか。
何かの予兆なのだろうか?

そんな玲の不安を乗せた馬車は、新たな修羅場の始まりの場所で車輪を止めた。
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