上階のクソ尾形さんとの戦争生活

□上階のクソ尾形さんとの戦争生活2
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週初めの朝は憂鬱だ。

通勤、通学ラッシュの詰め込み電車に揺られ、目的駅に到着したころには既に朝からぐったりで、それでもしっかり講義はあり、研究課題発表会があったり、レビューがあったり、テストがあったり…などなどで一日の予定を終えたらようやく解放される。
その後は友人と何処かに寄るか、真っすぐ帰宅か、バイトか。

今日は友人がバイト有りの日でだった。
晴はバイトもその他予定も特に無い。
彼氏でもいればデートか、デートとか、デートなどがあったと思うのだが生憎と晴に彼氏は居ない。
彼氏を作ろうと意気込んだ合コンでは見事に振られたばかりである。
だから晴がすべき事は、あとは帰宅の一択のみなのだ。
帰り道にどこか寄り道していったらどうかって?
晴は一人の時には、そのような事はあまりしたくない。
できるだけ真っすぐ帰って、休息のための時間を多く取りたい方なのだ。

憂鬱一週間の初日を安息で終わりを迎えるのは重要な事だ。
そのために必要なのは落ち着ける自宅であると晴は思っている。
翌日に備えてその日の疲れを癒すべく、ゆっくりと風呂に入り夕食を摂り好きな事をする。
誰からの邪魔もされず、のんびりと自分だけのペースで。
自宅とは、その様な癒しの為の空間であるべきだと晴は思っている。

暮れていく夕空を電車の窓から見上げ、地元の駅で降りれば、少し気が緩む。
5分ほどの道のりを歩き、現在晴が住んでいるマンションが見えてくる。
憩いの我が家(部屋)はあと一息だ。
そしてマンション敷地に足を踏み入れ、玄関で郵便受け確認した後に5歩ほども歩けば抜けられる程度の広くはないロビーを通過する。
エレベーターの前で立ち止まる。
一機だけのエレベーターは今下降している。
晴はそれを確認してボタンを押した。
部屋は305号室。
3階程度なら階段でもいいのだが、帰宅でくたくたの足は楽をしたいと言っているのだから仕方ない。
待つこと数秒、エレベーターが到着してドアが開く。
晴は3階の距離くらい、横着せず自分の足で一歩一歩段を踏みしめて行けば良かったと、心底後悔した。



「あっ…ん…」



…と、女性の悩ましい喘ぎ声。
男女がもつれ合い、深く深く唇を合わせ舌を吸い吸われしていた。
あんたらエレベーターで何しとんねん。
呆然、唖然とする晴の目の前でお構いなしにイチャつく男女が居た。
男の方には見覚えなんか無い。
黒髪オールバックのツーブロックなどではない。
両顎に顎から頬にかけての縫合痕なんか、絶対に無い。
特徴的な眉毛?そこらへんでよく見かけるような形ですよハハハ。
絶対、絶対、上階のクソ住民なんかじゃないんだから。



「…ん、着いたみたいね。
それじゃあ、またね百之助」



エレベーターの外で見ている晴の存在など、まるで視界に入っていないらしい。
「二人の世界ですと」でも言うかのように女は男を…尾形百之助を見つめている。(あーあ…尾形なんかここには居ないと思いたかったのになぁ…)
綺麗な女性がこれまた綺麗な笑顔を浮かべているのは、とても眼福であるのだが状況が状況であり、エレベーターの外で未だ待たされている晴としてはさっさと退出していただきたかった。



「ここまで送ってくれてありがとう」



とは言うが、尾形の部屋は4階であり、4階の部屋から1階までエレベーターに乗って来ただけの事なのだが、そこまで大した事なのか?
彼女を1階の玄関まで見送るだけの簡単なお仕事じゃないですかヤダー。
さてはお前、普段から彼女を自宅の玄関先まで見送った事すらないだろう?
用が済んだらとっとと帰れよ的な扱いで自室から一歩も出ないどころか、ベッドから起きる事すらもしないんだろう?
などと晴が思っていると…



「…お前が、送ってくれたら金くれるって言うから」



などというクソな発言がヤツの口から飛び出してきた。
お前はヒモ男なのか。
というか、平日のこの時間ならば普通はまだ仕事中だと思うのだが。
コイツは何の仕事をしているのか…色々な事が謎なのだが、正直、知りたくも無かった。



「ああ、そうだった、そうだった」



と、女性はきゃらきゃらと声を上げて笑い、財布から万札を数枚取り出し、それを尾形のシャツの胸元に押し込んだ。
尾形も尾形だが、お前もそれでいいんかい。



「じゃあねー」



女性が満足そうにエレベーターから出て来る。
ここでようやく晴がずっと待機していた事に気付いたらしいが「あら、失礼」と通りすがりに一言告げて颯爽と帰っていってしまう図太さを見せてくれた。
すげえや…流石は尾形の女…
晴は女性の美しい後ろ姿を唖然と見送る。



「…で、乗るのか乗らねえのかどっちだ」



エレベーターの中から低く気怠い無駄に良い声が聞こえてきた。



「…はっ!?」



晴はそこでハッとした。
ここで貰うもの貰った尾形は、女性を玄関外まで見送る気など無いのだ。
このままエレベーターで自室階まで戻るつもりだ。
という事は必然的に晴は尾形と相乗りする事になる。
勢いよく振り返った先には、胸元に万札を突っ込んだままの状態でエレベーターの壁に寄り掛かり『開く』ボタンを押しているロクでもない男が居た。
その黒く底の見えない瞳はこちらを見ている。
普段は表情筋が死んでいるかのように無表情なくせに、今は苛立ちが見える。



「どっちなんだ。さっさと決めろ」



いつまでもエレベーターの入り口で立ちすくんでいる晴を急かしているらしい。
おいおいおいおいおい。
ちょっと待てよ、待てよおい。
ついさっきまでエレベーターの中で女とベロチューかましてたお前に、その間ずっと待たされてたのは私なのだがな?
大学から帰って来て疲れてるのに。
やっとこさついたマンションのエレベーター待ちしていたら、開いたドアの向こうでは男女が絡み合ってたわけだぞ?

晴はニコリと笑った。
ただし目は笑っていなかったと思う。



「いえ、乗りません。
私の行先は上の階ですので、下行きのエレベーターには乗りません。
貴方はこのまま果てしなく地獄の階まで降りて、どうぞ」



親指を立て、オーバーアクションに下に向ける。
地獄に落ちて、どうぞ。



「……」


「……」



感情の読めない尾形の真っ黒い瞳と、最上の笑顔に殺意を込めた晴の瞳はエレベーターの中と外で睨み合いをしていた。
目に見えない火花が散っている気がする。
尾形との戦争である。
ここで屈する気は無い。
いつまで続くのだろうか?と思ったが、この数秒後に他の住民が帰って来た事でエレベーターの境を挟んだ睨み合いは終わりを告げた。
他人に迷惑掛けない。
これ、私の信条!



結局、エレベーターには尾形と事情を知らない若干戸惑い気味の第三者が乗って行った。
晴はそれからまたエレベーターが降りて来るのを待った。
無駄に時間を浪費する羽目になった自分の負けだなんて、絶対、絶対に思わない。



エレベーター境の戦いは私の勝ち…私の勝ちだ!


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