黄昏鳶

□黄昏鳶 九
1ページ/5ページ


+++++



冷たさがシンと降りる白い山。
静けさの中、時折風に揺れる松の枝葉がこすれ細波のような音を立てる。
一見、常と変わらぬ山である。
しかし今、この山は殺気立っていた。
獣達の生き残りをかけた野生の営みの環ではない。

人間同士の殺し合いだ。

小さな生き物は人間達の異常な殺気を理解したか、隠れ家に潜み鼻先すらも覗かせない。
鳥も囀るを躊躇したか、近頃聞き慣れたヤマゲラの鳴き声が聞こえてこない。









■黄昏鳶■
〜鳶を咥えた山猫〜












どれ程歩いただろうか。

全力で走ったわけでは無いが、雪の山道を急ぎ足に歩いてきた晴の吐息は短く切るように弾んでいた。
冷たい空気が肺を刺すようで息苦しい。
少し立ち止まり呼吸を整える。
近くの木の幹に上体を預けて寄り掛かった。



(疲れたぁ)



晴はようやく山歩きに慣れてきたとはいっても素人同然である。
当然、進みは遅い。
その上に追っ手や獣を気にしながら歩かねばならなかったため疲労は大きい。
完全に疲れ切って動けなくなってしまう前に休むべきだろう。
谷垣と違って晴は尾形に存在を知られたわけでは無い。
急ぎ逃げなくてもいいはずだ。
それならば足を速めて自滅するより万一に備えて体力温存をしつつ慎重に移動した方が良いだろう。
丁度陽も落ちる頃になる。



(クチャでも作るか)



アイヌで習った狩猟小屋。
そこで一晩過ごそうか。
少し見渡せば丁度松の木が倒れているのを見つける。
枝を引寄せ密集させたり、拾ってきた枝を束ねたりして屋根や壁を作る。

火を起こす道具はマッチを数本貰っている。
流石にこの寒い雪山の中を防寒準備もなく山越えするつもりはなかったし、フチが真っ先に晴の荷物の中に詰めてくれた。
昨今、アイヌでも昔ながらのやり方ばかりではなく和人の文明も便利なものは取り入れたりもするのだ。



(えっと…まずは火起こしの場所、それから火口…)



まだ、たどたどしい手つきではあるが習った通りの手順で火起こしの準備を進めていく。
アシリパやアイヌの人々ほどに上手くクチャを作れたわけではないので隙間風には気を付けなければ。
火種が消えてしまうかもしれないし、風で飛んだ火の粉でクチャが燃えてしまうかもしれない。



(枝拾って来てもう少し隙間埋めようかな)



それでどの程度寒風を遮れるかは分からないが。
…とにかく翌日も歩かなければならない。
早めに休息できるようにしたい。
覚束ないながらも、どうにかこうにか野営の形を整える。
完全に陽が落ちる頃には火を焚けるようにはなっていた。



(ホントは少しでも眠っておきたいんだけども今夜は寝ず番だな)



眠る間、火が無くては寒くて仕方ないだろうけれども、かといって火を焚いたままにしておくわけにもいかない。
丁度火鉢のように燃えすぎず燻らせる続ける状態を保つ方法も習ったのだが、まだ晴には上手く調整が出来ないのだ。
火を焚いたまま眠るのは火事の危険が伴う。
だが、いくらクチャで幾分かの寒風を防いでいるとはいえ、この凍える雪山の夜で暖も無しにうっかり眠ればそのまま永眠しかねない。
今夜は眠らず焚火で寒さを凌ぐしかないだろう。



(…まぁ、眠れる環境だったとしても結局眠れなかっただろうけれども)



もちろん寒さや空腹という理由もある。
しかし一番の理由は、やはり心配や緊張だ。
とてもでは無いが眠れる気がしない。

山中での銃声がどの程度の範囲まで聞こえるかは分からないが、しかし晴の足の進みを考えるにコタンからはまだそう遠く離れられたとは思っていない。
未だ銃声が聞こえてこないという事はまだ戦いにはなっておらず谷垣は生きているはず…そう思いたい。
人の身を案ずる前に自分の心配をすべきであるのだが…いくら山に慣れたマタギであり戦争帰りの屈強な兵士とはいえ彼が手負いである事に変わりはない。
それに脅威は何も追っ手だけではない。
山には血の匂いに敏感な獣が居る。
そのくらいは谷垣も心得ているとは思うが…



「…だめだ! やっぱ心配だ!」



晴は一つ覚悟を決めた。



(戻ろう)



戻った所で何が出来るかは分からない。
出来る事など無いかもしれない。
というか、まず何も出来ずに終わるだろう。



(あの人達の前に姿を見せようとかは考えてないし、正面切って戦うつもりもない)



ただ、そう…こっそり様子を窺うくらいなら。
もしも谷垣に不利ならば隠れて援護くらいは…

足手まといになるから別行動にしたわけだが、しかし今は最初とは状況が違う。
今、尾形と二階堂は武器を持たない手負いの谷垣が一人だけだと思っている。
晴の事はノーマーク。
今ならば、谷垣を追う尾形達を外野から監視し狙うポジションを取れる。
コタン生活で獲物の痕を追跡する知識を学んだ。
まだ谷垣やアイヌの猟師程とはいかない。
しかし今、尾形達は手負いの相手を追う立場…つまり優位に立っていると思っているはず。
そういう人間は多少なりとも気が大きくなっているものだ。
そんな人間を追うのは、警戒深く気配に敏感な野生の獣を追うより簡単だ。

ただし、相手は武装した兵士二人である。
後を追うのは出来るだろうが、戦いになればまず勝てる相手ではない。
決してこちらの存在を悟られる訳にはいかない。
そこだけは気を付けなければ。



(何にしても行動するなら明日。
あの人達だって夜の山道を歩き回ったりはしないはず)



暗い山道を歩くのは危険である。
かといって灯りをつければそれが目印になってしまう。

谷垣も、尾形達も、晴も、陽が昇ってからが勝負所だ。


次へ
前の章へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ