月曜朝
「…今日は来ない」
乙瀬は制服姿でリビングの掛け時計を見る。
時刻は7時半。
もうそろそろ登校しなければならない時間である。
基本的に時間にはしっかりしている彼が…いつも頼んでも無いのに勝手に迎えに来る花京院が今日は来ない。
流石に昨日の今日で気まずいのは乙瀬だけではなかった…ということなのだろうか。
■とある女子の異世界生活■
昨日の今日…
昨日、花京院と二人で夢と魔法の国に遊びに行った。
そして帰宅後も魔法の効果が残ったままの彼に、乙瀬は初めてを奪われた。
『初めて』といっても唇だけであるが、今までの17年間でまともな色恋の青春して来なかった乙瀬には重大である。
しかもあれほどに関わり合うまいと決めていたはずのジョジョの登場人物に抱いた想いを、しっかり自覚させられてしまったとあってはもう、落ち着きなどとうに失っている。
昨晩は悶々とした一夜をベッドの中で過ごしたものだ。
今朝の寝起きは最悪。
溜息ばかりでろくに寝付けなかったせいで頭はぼんやり靄が掛かったようだし、そのくせ思考の鈍い脳は昨夜の出来事を事細かに回想してしまい、その度にこのオタク趣味の枯れ女が出すにしては切なすぎる喘ぎに似た吐息を漏らし、相変わらず胸と胃の腑の間あたりには胸騒ぎにも似た凝った物を抱えているしで…正直しんどい。
世間ではそれを恋煩いと言うのであるが、まさか自分が恋慕の典型的症状に見舞われてるだなんて思いもしない乙瀬は、すっきりしない感情の捌け口のように悪態な考察を巡らせた。
「典明も流石にあの後の事は気にして…いいや、あの男はそこまで可愛らしい精神構造じゃないな。
原作展開と恐怖を激しく乗り越えDIOにしっかり仕返ししてきたような奴だ。
絶対、爽快ケロリとしてるだろうなぁ、ちくしょうめ人の気も知らないで」
…いや、そうではないな。
少し気を静めてよくよく彼の性格を思い返す。
確かに花京院は乙瀬ほどに悶々はしていないだろう。
時には腹黒いしドSだったりもするが、基本的には紳士的で気遣いの出来る男だ。
「あたしが落ち着くまでは一旦離れてくれるって事なのかなぁ?」
実際それはすごくありがたい。
今の乙瀬はどんな顔で花京院に会えばいいのか分からない。
彼の性格らして、本当なら別々に学校に行くにしても何か一言くらいは言い置きたかっただろうに。
しかし、今の乙瀬ではきっとそれだけの事ですらも過敏になってしまう。
乙瀬は再度時計を見る。
いつもの迎えの時間から5分経過していた。
迎えは来ないだろう。
「あー…学校行くのシンドイ…でも行かないとなぁ」
学校に行けば花京院と顔を合わせる事になる。
だからといってサボりもあまり出来ない。
成績は絶望的とまではいかないが下から数えた方が早い方なので、せめて内申点くらいは稼いでおかねば。
精神的にも身体的にもシンドイ身体を引きずるようにして玄関まで歩く。
玄関…
…昨夜の事がフラッシュバックする。
昨夜この場所で。
暗い廊下の壁に追いつめられて。
唇を重ね、舌をねじ込まれて吸われて絡ませ合って。
告白でもって恋愛という名の刃を胸に突き刺された。
瞬間、顔に熱が集中した。
リアルにありとあらゆる感覚を思い出せる。
動悸は激しく、心臓が胸を突き破りそうな勢いだ。
朝から腰が抜けてしまいそう。
ぶるぶると震える両手で顔を覆い、狂い悶えそうな衝動を抑える。
一度、二度…と、深呼吸。
脈が少し落ち着いたところで、未だ小刻みに震えながらも靴を履く。
膝から崩れ落ちそうな身体を叱咤して玄関を出れば、朝の陽ざしがとても爽やかに出迎えてくれた。
「清々しいね…」
「ふぅ…」と息を腹の底から絞るように吐くと、乙瀬はしっかり覚悟を決めるようにして顔を上げ登校するのだった。
いつも通りにするしか、ない。
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教室の扉を開いた時。
乙瀬の目は真っ先に赤茶の髪の少年を見つけていた。
彼は元々目立つ容姿をしているが、こんなに吸い寄せらる様に彼に視線が行く事なんて今までは無かった。
乙瀬は明らかに花京院を意識してしまっている事を感じて、瞬時彼から視線を逸らした。
クラスメイトと挨拶を交わしながら自分の席に向かう途中、花京院がずっとこちらを見ているような気がした。
どれだけ自意識過剰になっているのだろうか。
いつも通りに…と思っても、やはり気まずいものは気まずい。
と、いうか。
乙瀬は自席に着いたところで猛烈に頭を抱えたくなった。
すぐ右隣の存在を強く意識する。
そうだった席は隣同士だった。
(クソ気まずい)
ああ、どうしたらいい。
流石に何も一言も無いのは態度悪いし周囲も怪訝に思うだろう。
席に座ったままガチガチに固まる乙瀬の視界の右端で赤茶の髪が少し揺れた。
「乙瀬、おはよう」
いつもと何も変わらない落ち着いた声音。
彼に名を呼ばれた瞬間、痛いほどに心臓が跳ねたが挨拶されたのに無視するわけにはいかない。
首の角度を微かに傾げて上目遣い気味にそっと花京院の方を見れば、彼も同じように僅かに顔だけ傾けて乙瀬を見ている。
花京院の表情はいつもと変わらない穏やかで理知的なものだった。
まるで、昨夜の獣のような眼光が嘘のように。
昨夜の事が夢か何かだったのでは?と思うくらいに彼は平静そのものだ。
「あー…お、おはょぅ」
花京院に返事した声は引き攣り気味で語尾はフェードアウトしていった。
無様を晒す。
恥ずか死しそうだ。
意図せず、つい伏したその目元は赤らんでいて、唇も微かに震えて熱で鮮やかに色づいていた。
ちなみに乙瀬は周囲の様子を気に掛けるどころでは無かったが、クラス中が既に何かを察していた。
(夢と魔法の国で見事に魔法に掛かったな)
(花京院…優男面でやる事はきっちり、やりやがる)
(あの乙瀬が『女の顔』してるわよ…)
そのくらいに分かりやすかったのだった。