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□ 少女と悪魔の契約料 4
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「蒼太、部活から帰って来たら体操着すぐ出してって言ってるじゃん!
…ホラ汗くさっ!
陽菜子も帰ったらお弁当箱出して。
洗わないとカビ生えちゃうよ」



深空家は相変わらず姉弟妹たちのやりとりで賑やかだった。

三人が登校登園するまでの朝の一幕は一日で最も慌ただしいが、昼間の家人の居ない深空家はとても穏やかである。
しかしそれとて蒼太と陽菜子が帰宅してくれば昼間の静けさが嘘のように一気に騒がしくなり、晴が帰ってくれば、そこに晴の世話焼きに忙しく動き回るのも加わる。

夕食を終え、小休憩の後に入浴タイムがあり、順番は大抵陽菜子が一番最初になる。
あまり遅くなると寝てしまう可能性があるので、自然とそうなってしまうのだ。
陽菜子も自分の身の回りのことは自分で出来るようになってもらうため、晴は近頃では一緒に入浴しないようにしている。
ただし、何か事故があった時にはすぐ駆けつけられるようにと脱衣所で待機している。
陽菜子の入浴が終われば次は蒼太かゼノリスで、晴はいつも最後だ。
皆が入浴中に家事の残りを終わらせる。
ゼノリスが来てからは、食器洗いやちょっとした掃除くらい手伝ってくれるため晴の負担はマシになった。

そして弟妹達が入浴を終えて就寝した後に晴の一日の仕上げが待っている。
主には陽菜子の明日の準備だ。
園服のボタンを繕っていたり、翌日の弁当の下準備をしたり。

それらが終わる頃には、もう遅い時間だ。
一日フルで動き続けている晴はすっかりくたびれている。
結果、リビングのテーブルに置きっぱなしにされた晴の宿題は手つかずのままだ。



そんな深空家の生活をゼノリスはここ数日体験し、その中で気付いた事があった。












少女と悪魔の契約料 4












「晴。母親はどうした?
日頃は晴しか弟妹の面倒を見る者が居ないようだが」



この数日でゼノリスは深空家の父母の顔を見ていない事に流石に疑問を覚えていた。
人間界の事情はそこまで詳しくないが、普通父母が居るものでは無いのか。
父は出張だと聞いているが…深空家の母はどうしたのだろうか。
母も父と共に仕事に出ているのだろうか?

学業休みの、この日。
その疑問を晴が家事の合間、お茶休憩している時にぶつけてみた。
(ちなみに蒼太はサッカー部の練習で学校に行っていて、陽菜子は庭で水に色々な物を混ぜて錬金術師ごっこで遊んでいる)



「あぁ、そいやゼノリスさんにはまだお話してませんでしたね。
母さんは数年前に出てっちゃったんですよ」



晴はアッサムティーにミルクと砂糖を混ぜながら、なんという事も無いという風にそう答えた。



「出て行った……離婚したという事か」



「んー…どうなんでしょうねぇ」



「うーん」と考え唸りながら、晴はティースプーンをソーサーに戻すと新たにカップを用意した。
そのカップにインスタントのコーヒーをスプーン一杯入れてティーポットからお湯を注いだ。
このコーヒーはゼノリスの分。
長い話になるだろうと踏んだのだ。



「違うのか?」



晴が差し出すコーヒーを受け取りながら、ゼノリスは問う。



「まあ、一応離婚っていう事になるんでしょうけどね。
あ、ちなみに兄も居るんですよ。
私より4つ年上なんですけどね…お兄ちゃんもお母さんと一緒に行っちゃいましてね。
ホント突然だったんですよ」



母は数年前に突然兄を連れて出て行ってしまった。
理由は何だったのだろうか。
今もまだ不明のままである。
ただ、喧嘩などしていた気配は微塵も無かった。
本当に母が出て行く直前まで仲睦まじい夫婦だったと、ぼやけた記憶ながらもそこだけはしっかり覚えている。
だからきっと喧嘩別れではない。
一応、世間的には離婚という形になっているが、精神的な問題としては離婚というより失踪という感覚であろう。



「お父さんも何も教えてくれないし。
難しい事情だったのかなぁ」



「今も何も聞かされていないのか?」



「はい。
お父さんも話してくれたことはないし、お母さんやお兄ちゃんからも便りは無いですからねぇ」



晴はミルクティーを一口飲み、小さく息を吐く。
その様子を観察するゼノリスは相変わらずの無表情であるが、理解に難しい態度を示すかのように尻尾の先が僅か垂れ下がった。



「お前は、それでいいのか?」



「何がです?」



「母と兄がある日何も告げずに突然出て行ったのだろう。
何故、何も疑問に思わん。
子どもの身からすれば理不尽も甚だしいと思うのだが」



「何故って。
だって、そりゃあ…」



…何故だろう。



言葉を不自然に途切ったまま、答えに窮す。
この数年間、特別気にした事は無かった。
ただ、母と兄が居なくなってしまったという事実が悲しくて寂しくて。
そればかりだった。
肝心の理由を深く探る事はしてこなかったし、父が話そうとしないならそれも仕方なしと早々に諦めてしまったが…



…確かにこれはおかしい。



晴はゼノリスに言われて初めて考えた。
当時の父は幼い子供たちに説明しても理解できないと思ったのか、答えを濁すばかりだった。
以前ならば、どういう訳かそれで納得してしまっていた。
思えばもうこの時点で既におかしい。
晴は今まではここで立ち止まってしまっていた思考の足取りを進めた。

そうだ。
不明瞭に過ぎる点が明らかに多い。
普通ではない。
仮に、父が当時の子供たちには難しい話だからと…もしくは酷い話だからと、話すのを躊躇していたのだとしても。
晴だって今はもう16歳。
幼かった頃と違って今ならば大人の難しい事情だって理解できるはず。
それでも父は相変わらず何も話そうとはしない。



(…もしかしたらお父さんもお母が出て行った理由を知らない?)



その可能性が急浮上する。
そう考えてよくよく父の様子を思い返せば、あの時の父の困った表情は『何かを知っていて敢えて答えない』のではなくて『何も知らないから答えられない』時のものだ。



(…何故?)



母には子どもに明かせない事情があったのかもしれない。
けれども夫にすらも話せないとは、どんな事なのだろうか?
それほどに酷い事情なのだろうか?



(お母さん…
そんな、誰かに言えないような後ろ暗い事を隠し持ってるような人だったっけ…?)



晴は母の事を想う。
もう数年も昔の母の記憶は大分朧げである。
でも母がどんな声で晴を呼びどんな表情で笑いかけてくれたか、それだけははっきりと覚えて…



(…あれ?)



…母はどんな顔だった?



そこで、晴はまた一つの謎にぶつかった。

もう最後に母の顔を見たのは数年も前である。
であるが…母の顔くらいならば、本物を見なくとも写真を見ればそれで思い出せるはず。
家族で写った写真ならば幾つもある。
その中で母の姿を見ているはずだ。
母の写真くらい、あるはずだ。
そのはずなのに。



この数年間、一度も母の写真を見たことが無い。



母の姿が写った写真が無い。
それどころか兄、光一の写真も無い。
一枚たりとも、無い。
そして、その事に何も疑問を抱かなかった。
晴はそこに思い至った時、いっきに血の気が引くような気分になった。
きっと晴だけではない。
照太郎も、蒼太も、母と兄の写真が我が家に無いという事を何も不思議に思っていないだろう。
もし、それを疑問に思ったのならば、そう言っているはずだから。
しかし一度もそういった話を聞いた事が無い。
陽菜子は仕方ないとして、深空家の誰もがこの不自然な点を不自然であると認識していない。
母や兄に関わる事になると、それが不自然に掻き消されているように無くなっているのに、それを不審に感じる事もなく思考停止状態だった。
たった今さっき、ゼノリスに指摘されてようやく晴がそのことに気が付いたのだ。
普通ならばあり得ない。
明らかに普通でない事が、この深空家で罷り通っていた。
その事実に寒気が走った。

晴は焦燥に急かされながら母や光一の事を想い出そうとした。
背格好は大体思い出せる。
母は紅茶のようなオレンジ色掛かった茶色い髪だった。
編み込みのサイド流しにしている事が多かった…と、思う。
光一は母よりも少し明るめの髪で…晴の髪よりも、もう少し赤み掛かっていたはず。
スマートな体格だった。
だけど、母も兄もどんな顔だっただろうか?
知っているはずなのに思い出そうとすると不意にその顔がぼやけてしまい明瞭には見えない。
まるで二人の姿が曇りガラスの向こうに居るかのようだ。
声も良く思い出せない。
幼い日に二人と過ごした日々も、どんなものであったのか?
知っているはずなのに、答えにしようとすると出てこない。
はっきりとした像を頭の中に描くことが出来ない。
大切な人達であるのに。
いつか、この僅かに残った母や兄の記憶すらも何もかも忘れてしまう日が来るのだろうか。
それを当たり前に受け入れる日が来るのだろうか。

…それは嫌だ。
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