ネズミ事件の後日。
「さあ、ほら呼んでみて」
授業の合間の休憩時間。
隣席の男子が機嫌よさげに期待を向けてくる。
面白半分、期待半分に見つめらている少女は口籠っている。
「……の…」
ようやく振り絞ったような一音。
隣席の彼…花京院は瞳を色々な意味で輝かせている。
「の?」
膝の上に足を組んで椅子に座った姿勢のまま、上体を乙瀬の方に傾けながら手をメガホンの様に耳に当てた。
小さな呟きすらも聞き逃さないようにと乙瀬の言葉に集中している。
そんな面白可笑しそうな花京院に乙瀬は流石に「ぐぬぬ」と唸り悔しさを表した。
実は今。
乙瀬はネズミ退治のお礼を花京院にしているところなのだ。
それは、お互いに苗字ではなく名前で呼び合うというものだった。
もちろん学校に居る間も今後もずっと、である。
たかが名前呼び。
されど名前呼び。
今までずっと…それこそアニメで彼を見ていた時からずっと「花京院」と呼んで来た乙瀬には今更「典明」と呼ぶのは少々照れ臭いものだ。
そんな乙瀬の心情を理解していて花京院は益々楽しそうにしている。
遊ばれているのを感じて乙瀬の唇がムっと曲がる。
「のりぴー」
嫌味をたっぷり含んだ声音で彼の名を呼んでやった。
すると花京院は笑顔のまま無言で乙瀬の脳天に手刀を落とした。
ガツッっと衝撃と鈍い痛みが脳天を支配する。
「いだぁっ…!
いいじゃんよ。いかにも友達っぽくて」
「嫌だ。いかにも馬鹿っぽくて」
両者譲らぬ睨み合い勃発。
「これは、僕へのお礼なんだろう?」
「…そうだけど」
「だったら、しっかり名前で呼んでくれよ」
「…んん」
「なあ?」
「…の…のり…あー……」
視線あっちこっちに泳ぎまくる乙瀬の口からはなかなか「典明」という言葉が出てきそうにはない。
花京院はついに頬杖をついて、つまらなさそうにそっぽを向いた。
「分かった。もう無理にとは言わない」
意地になって強要しても虚しいだけだし。
しかし。
…しかしこれだけは。
譲れないものがある。
「でも、僕は呼ばせてもらうぞ」
横目に視線を向けてみれば、パッと顔を上げて見つめてくる彼女の様子が分かった。
丸く見開かれた目がまるで驚いた時の猫のようだった。
「乙瀬」
舌の上で彼女の名を味わうかのように、ゆっくりと呼んでみれば彼女は分かりやすく頬を染めて俯いた。
くすぐったそうに唇をむずむずと蠢かしている。
それからあまり間を置かずして彼女はついに観念したらしい。
「分かったよ…典明」
言葉尻の方は大分小声であったが花京院の耳にはしっかり届いていた。
乙瀬に名を呼んでもらうという事が想像以上に胸に込み上げるものがあり、不意打ち同然に脈が跳ねて花京院の頬も染まる。
ダブルノックアウトである。
ところで彼らは気付いているのだろうか。
(あーはいはいカップルカップル)
(糖尿病になる)
(リア充かよ永遠に爆発してろ)
二人の初々しい糖度のやりとりはクラスに筒抜けであった。