だからさ、仕返ししてやろうぜ。

 ずきんずきんと痛む頭の中、その声ははっきりと聞こえた。おかげで半分飛んでいた意識が戻り、少しずつ思考能力を取り戻す。寝起きの気分だがあいにくベッドの上にはいない。いまいちはっきりしない前後の記憶。今何時だ。ダンは手首に嵌まった腕時計を見やる。先日勢いで購入したタグホイヤーはこんな暗がりで眺めても上品に輝いており、刻む時もきっと信用できるだろう。時計の針が深夜の二時をとうに過ぎていると教えてくれた。

 次。ここはどこだ。ダンは正面を見つめる。無愛想な髭面の親父が黙々とグラスを磨いている。小洒落たグラスは磨きにくそうだが酒を愉しむためにそんな形をしているのだから仕方がない。酒。そうだ、とダンは今の今まで握り締めていた物にようやく視線を落とした。

 ウィスキー。

 いい感じに思い出してきた。今夜は一晩中飲んでいた、この様子じゃあ現在進行形で飲んでいる最中か。琥珀色の嗜好品、量はさほど減っていないがまさかこれが最初の一杯であるわけもなく。泥酔とは情けない。ガキでもないのに飲み過ぎたと自覚した途端、頭痛がいやに増した。失敗した。酔っていることを自覚しなければ良かった。

 「これ、何杯目だよ」
 「六杯目まではおれも数えてたんだけどよォ」

 また声。耳との距離が近い。ダンは肌を粟立たせた。隣から返される解答はさっき聞いたものと一緒だ。常に嘲笑混じりの、粘着質なそれが誰の声なのか。今度は聞き分けることができた。

 飲み仲間は選べよわたし。

 数時間前の自分へ毒づくも時既に遅し。観念してようやく横を向けば、晩酌の共としてはあまりいい相手でない男、ラバーソールが笑顔で手を振ってくる。起きたかいダンさん、と、敬称を付けられてこれほど腹の立つこともない。露骨に顔を顰めたダンに対しにやけ面を崩さずにいる。友好的なのはこちらを見下しているがゆえ。己のスタンド能力に絶対の自信を持った態度が気に入らない。ダンはラバーソールが嫌いだ。しかしこの嫌悪感は鏡でもあった。

 「物真似ピエロが酒の肴じゃあ道理で悪酔いするわけだ」
 「ひでェーなァ……偶然出会えたドーシにおれァ一生懸命考えた今後の展望を熱く語って聞かせてたのに。ダンさん途中で寝ちまうんだもん。酷い酷い」
 「展望? 待て。何の話だ……というかわたし達って何の話をしていた?」
 「そこから忘れちまったのかよ! あ、それ飲まないならくれ」

 こちらが口付けないのをいいことに、返事も待たずグラスを奪っていくラバーソール。そもそもどうしてこの男と飲むことになったのか。縁もゆかりもない、とは言わない、彼とは雇い主が同じいわば同僚だ。『元』同僚だ。そんな奴は他にいくらでもいる。会う機会もない。雇い主であったDIOが死んだ時点でてんでばらばら散り散りになったからだ。一部の狂信者はともかく、金で強められていた結束など所詮そんなものだ。なのに自分達は肩を並べている。

 わたしとラバーソール、他に共通点は?

 思案し、凝視していたらウィスキーを舐めていたラバーソールと目が合う。

 「何? おれってやっぱりハンサム顔?」

 自惚れ屋のラバーソール。

 「絆創膏付きなのが惜しいと思わない?」

 わざとらしく頬をさする。なるほど確かに、そこには大きな絆創膏が貼ってある。見せつけるように滑るラバーソールの指につられ、自然と自らの口元に触れてダンも自分の状態に気付く。湿布が貼ってある。その上を押すと痛い。腫れている。ラバーソールと一緒だ。ラバーソールは怪我をしている、治りかけの大怪我。それは自分も同じだ。

 「あぁ……同士、同志か」

 同じ志を持つ者。閉じた目蓋の裏で甦る、自分を射抜いた、あの若い眼差し。無意識に撫でたものは腕の時計で、

 「承太郎」

 腹底から喉を通ってひり出したのは浅ましい情念だった。恨みと言う名の消えない想い。幾日過ぎても、むしろ時が経てば経つほど濃く激しく粘りを帯びて肥大する。晴らすまでは止まらない。

 「やっぱ覚えているんじゃあねェか」

 覚えている? 忘れていた? 思い出した?

 違う、あまりに大きなこの復讐心がもはや自身の一部になっていただけ。今更再確認するようなことではなかったのだ。

 「今日あんたと再会して、一目で分かったね。あんたの目、あの野郎を忘れちゃあいねえって。受けた仕打ちを、痛みを忘れねえ……どうにかしてえって。おれと同じ目!」

 けたたましく笑うラバーソールから奪い返したグラスを煽り、思いっきり飲み干す。安っぽい口笛に称賛された。熱い。視界がぎらぎらと煮え滾る。目玉の奥が燃えているようだ。

 「それで」

 アルコールを全身に馴染ませて、けれど酔いなど完全に吹き飛んで、熱に侵されながらも感覚を冴えさせて、ダンは先ほどの台詞を反芻する。おいラバーソールよと声をかけてから興奮を一旦飲み込み、

 「仕返しが、何だって?」

 差し出した右手を、

 「そうこなくちゃあァ」

 ラバーソールがきつく握る。同族嫌悪も極まった。我々は今まったく同じ顔をしているはずだと鏡を見るような気分でダンもまたラバーソールの手を握り返す。早く会いたい。だなんて逸る気持ちはまるで恋慕だ。自分で思っておきながらぞっとした。





 「ちょっとどきなさいよあたしの方が上手く剥けるのよ」
 「ハア? アンタのそれどこ産よ! 農薬たっぷり付いているんじゃあないのッ?」
 「ねえ見て見てウサギちゃんできたわ! あ〜んってしてぇ」
 「頼むよ、お前が来てくれたら絶ッ対勝てるんだよォ」
 「あの学校のヤツらうちの後輩どもに手ェ出しやがったんだ許せねえ」
 「力貸してくれ!」

 昼休みの保健室は騒がしかった。それぞれが手に果物を持って一番いい位置に陣取ろうとする女子達。きゃあきゃあと響く甲高い歓声の間を縫い、顔を覗かせ、闘志に燃える男子達。承太郎が寝転がるベッドの周りは賑やかで、その賑やか過ぎることに目を瞑れば実に和気あいあいとした雰囲気だ。孤高の一匹狼に似つかわしくない。いや承太郎にそんなイメージを抱いていたことこそ勝手だったのか。彼の周りにはいつも人が集まり、情があったのかもしれない。ただし自分を取り囲む華やかな状況を本人が今どう思っているのかというと。

 「うるさいわよ男子! メーワクになるでしょ!」
 「お前らこそどっか行ってろ! 男同士の大事な話だッ」

 激化する陣取り合戦へ、承太郎のこめかみ辺りは痙攣し、や・か・ま・し・い、と唇が微かに動いていた。怒鳴る気力も失せているらしい。次から次へ話しかけてくる相手に労力を費やしたくないといった態度で、帽子ごと枕へ預けた頭は動くことなく、頑なに目を閉じ騒音に耐えているようだ。

 「でもびっくりした。ジョジョが倒れるなんて」
 「倒れてねーだろクラァっとしただけだよな。なあジョジョ」

 皆から寄せられるものが純粋なる好意だから余計に面倒くさいのだろう。そんな青少年達のがやがやから承太郎を救ったのは一人の大人だった。

 「はいそこまで。保健室の住人にそんなに一杯の果糖は要りません。喧嘩を勧めるなんて論外なのは言うまでもありませんけど!」
 「あ、先生」

 現れたのはここの支配者、保険医だ。いかにもベテランらしい貫録があってそう若くはないがなかなかの美人、濃い目の化粧と白衣から見え隠れする脚も艶めかしいながら、彼女は尤もなことを言う。お見舞いで具合を悪化させてどうするの静かにしてちょうだいと全員のおでこを指で小突いていく。男女平等、優等生も不良も分け隔てなく。

 「保健室っていうのはね、体を休める所なんだから騒ぐなら出て行きなさいな」
 「おおこええ……言うこと聞かないと目ん玉突き刺されちまう」

 男子生徒が何気なく言った瞬間、女医の手が止まる。しんと静まりかえった、かと思えば次にはそこかしこから軽口を咎める声が上がった。承太郎は相変わらず無関心を決め込んでいる。

 「やめろよ、ソレ、笑えないって」
 「あれは変質者が引き起こした集団ヒステリーだったんでしょ。よく知らないけど、先生が気にすることないったら」
 「おれだってわ、分かってるよ。ジョークだよジョークだかんな先生!」
 「ええ、私も分かってる、大丈夫よ、ありがとう」

 生徒の気遣いが、青ざめ強張っていた顔をほぐす。人望のある教師とは敬虔な聖職者にも似ている。希少という意味において。

 「犯人まだ捕まってないのよね、怖いわ」
 「そういえばその時巻き込まれたっていうあの転校生……花京院くんもすぐまた転校しちゃったもんね〜怖いわ不気味だわ〜」

 それまでどれほど沢山の声が飛びかおうと意地でも開かなかった目蓋の震えに気付いた者はいたのだろうか。新たな盛り上がりをみせていたお喋りはチャイムによって中断される。さあ授業に向かいなさい学生諸君と女医に急かされて生徒達は本来居るべき学び舎へ渋々退室していく。白を基調とした部屋には女医と承太郎だけが残り、カーテンと共に風を受け、帽子から零れた前髪は小さく揺れる。


 鐘の音が消えて、大分経った。開いた窓からは校庭で行われている体育の授業の様子が伝わってきて、それからさらに数分後。備え付けの机で書きものをしていた女医が一段落をつけて立ち上がる。

 「ジョジョ、あなた、進路はどうするつもり?」

 他の先生方が気にしていたわと、ベッドまで歩み寄り覗き込むのへ、起き上がりもせず無言をもって答える承太郎はおそらく、小言が煩いから寝たふりでやり過ごすつもりだ。今まではそれで話を終わらせてきたのだろう。担任も学年主任というやつも、それ以上の追及をしなかったわけだ。自分の考えや感情や意思を易々と見せない、必要がなければそうしようとも思わない、それが承太郎のスタンスで、実際さっきのクラスメイト達も上手くかわされていた。だが彼女は放っておく気がなさそうだ。保険医とはいえ教育者としての使命か、元々お節介焼きなのか、あるいは単に暇だから、なのかは知れないがいずれにしても、

 「そういう時期でしょう。他の子達は未来に夢見てるっていうのに」

 クラスメイト達にとってジョジョが好い人であるように、彼女にとってもまた承太郎は手に負えないような恐れる存在でなく、放っておけない少年なのだろう。

 「ああそろそろいいわ、体温計出して」

 女医が望むものを承太郎は脇から外し無造作に置く。

 「熱はなし。頭痛や吐き気もないんだったら目眩がしたのは多分寝不足ね。忙しいの? ついこの間まで長期間休んでいたけれど、何かなりたいもの、あってのことだったのかしら」

 承太郎はゆっくりと目を開けた。落ち着いた光がたゆたう、静かな深緑。見上げられて女医は口を噤む。

 「体を休める場所なんだろう。寝かせてくれよ」

 自分が言ったことを逆手にとってさぼる口実にして、ふざけて口にしたのだ、と解釈することもできるのに、けれど彼女はそうしなかった。

 「そうね……今の君にはそれが必要みたい」

 可愛い生徒に、強い子だと思っていた生徒に、力なく頼み願われては拒めやしないと、カーテンを引き、その空間を守った。


 「先生」
 「どうしたの」

 ソフトボールの練習試合で怪我しちゃった子がいて、息を切らして廊下の先を指差す女生徒に頷き女医は白衣を翻す。気持ちは切り替わっている。あくまでも全校生徒の健康と健全を守ることが彼女の使命、たった一人ばかり気にかけていられない。昇降口へ向かう凛とした背筋は立派なものだった。しかし女生徒は彼女の後を追わない。見送りもしない。視線はカーテンの奥へ注がれている。当然だ、目的はその空間だ、女医が守ろうとした孤独な揺りかごの中だ。

 「ジョージョ。いるんでしょお? ワタシ、はるばるあなたに会いに来たの」

 可憐なはずの声に滲み出る濁り。一歩一歩と近付きつつ同時に細い指を順々に蠢かせ、手招きでアピールしてくる相棒の合図にダンも腰を上げた。ラバーズの目を通して見てきた、日本とは、平和な国だ。平和でのどかで日常が幸福だ。だが今日一日幸福な世界の中で承太郎は一度も笑わなかったなと、それを少し気にかけながら校内へ侵入する。





 「先輩さえ大人しくしていたらあのセンセも嫌な悲鳴を上げるこたァないんだぜ」

 少女には持ち得ない、愉悦が込められた低音は、脅しに他ならない。幼げな東洋人の顔が爛れ落ちていく過程は、さながら陳腐なホラー映画のワンシーンだ。恐怖はないが生理的嫌悪感を与えてくれる点でよく似ている。スタンドの肉によって外側の皮一枚だけでなく骨格をも欺いてしまう完璧な変装を解き終え、長身がうんと伸びをする。十二分に悪意ある笑みを浮かべラバーソールは承太郎へ手を振る。

 「あ〜すっきりした。女の演技は疲れるってやつよ。おれがおれである姿、本当の自分が一番素敵だろ?」
 「何をしに来た……てめー、DIOの」
 「ああん? うろ覚えかよ……仕方ねえか? 前はヤり合うのに夢中で自己紹介もできなかったっけ。じゃあ仕切り直しだ。おれはラバーソール。スタンドはイエローテンパランス、よく食うカワイイ子。よろしくしようぜ承太郎。そんでもって」

 こいつがおれ流の握手だ、と自分の体から離れたイエローテンパランスを獲物へ差し向ける。蛍光色がじわじわと迫って来ても承太郎はベッドから動けない。ラバーソールとダン、二人の挙動を見過ごさないため動かない。天敵を前にした動物のように神経を研ぎ澄ませている。だがそれはダンも同じだ。リラックスしているラバーソールと対照的に、ダンは緊張を強いられていた。何せ、武骨な拳が鼻先で止まっている。

 あいかわらず、なんという速さ。

 突如カーテンを裂いてみせた奇妙な女生徒と反対の位置、窓に足を掛けその勢いで保健室に土足で降り立った、かつての敵。承太郎は即、スタンドで攻撃をしかけてきた。ダンが何かを言う暇もなかった。ラバーソールの脅迫がゼロコンマ数秒遅ければ今頃意識はなかったと思う。やはり優れたスタンド使いだと、ダンは承太郎の才能を恐れて認める。判断力、瞬発力、危機的状況も打破する実行力。一つ一つは単純なものが、合わさればこれほどに手強い。

 厄介な強さだ。本体も、スタンドも。

 スタープラチナの手は今にもダンの顔に触れそうだ。噂には聞いていたけれど、これがあの『最強』であったDIOを粉砕したという『最強』のスタンドが武器とする『最強』の拳。そんなものを突き付けられれば怯えるなという方が無理なこと、心臓も止まりかける。現実、鼓動は止まらなかった代わりにどくどくと音を立てて鳴り出すザマだ。激しい動悸のせいでダンの頬には冷や汗が伝っている。前にも感じた、懐かしい冷たさだった。DIOに仕えていた時間はダンにとって承太郎との思い出が全てとなっている。見下し、憐れんできたあの目。この拳にも、何充発殴られただろう。味わった痛みは頭より体が覚えていて両足も戦慄いた。が、今日は鼻を折られず済みそうだ。

 「お前には人質が有効過ぎる」

 優しい子だよ本当に。

 再び手に入れた絶対的な優位。もう殴られることはない、と安堵の一息を吐いたら次は嘲笑へ。喉を鳴らし笑い始めたダンに一発、それさえ入れば再起不能へ叩き込める、たった一発を入れられず。だが承太郎は冷静であり、ダンを睨んできた。瞳の中心に『敵』を捉え、捕らえる。

 「ツケの払い残しでもあったらしいな、わざわざ払いに来たとはご苦労なこった」

 スタンド使いとしての力だけではなく、対等でいようとする気安い口調も、神経を逆撫でする生意気な挑発も、戦士としての勘も意気地も、承太郎の中では衰えていない。

 「わたしはお前が寄越した領収書通りに払ったつもりだがね」
 「てめぇの名前は記憶にある……ダン、といったか」
 「スティーリー・ダンだ。お前、わたしのことは覚えているのか?」

 ラバーソールと違い自ら名乗ったから印象に残っていただけだろう。そうだと分かっていても堪え切れず、

 「嬉しい……嬉しいな」

 心が素直に零れて落ちる。

 「そんな通称は忘れていたがな。シンプルでいい響きだが似合っていねえのが残念だ。てめーの場合鋼じゃあなくて豆腐だろう」
 「トーフ? まあいい。再会の挨拶は済んだ。さて承太郎、待てができたら次は伏せだ」

 犬でもできる、と笑い、ああやはり支配する側に立つのは気持ちがいい、とダンは目を細めた。スタープラチナの手から力が抜けていることを確認してからおそるおそる触れて、掴んで、顔の前からどける。抵抗はなく、半透明になり、やがて消えていく雄々しいビジョン。残るのは生身の体一つ、何のことはない、まだ十代のガキ一人。強い者からその強さを奪い封じてしまう、これが最高だ、これでいつも満たされる。牙を折り爪を剥ぎ羽をもぐことに快感を得るダンの性癖は、標的の反撃を許さないというラバーズのスタンド能力に色濃く反映されている。スタンドを己の分身とはよく言ったものだと思う。

 そして、矜持ごと体を足蹴にすることがここまで愉しいというのも。

 お前が初めてだ……なんてな。

 ダンが自嘲するのへ合わせるように、承太郎が呻く。起き上がろうとしてベッドについていた手をイエローテンパランスが覆い出していた。振り払おうとする承太郎をラバーソールが止めた。

 「おいおいそんな抵抗なんかしてェ……恥ずかしがらないでくれよ承太郎」
 「女医にはわたしの恋人が付いている。安心していいぞ承太郎」
 「ろくでもねえコンビ組みやが、る……くぅ、う」

 いかなる攻撃手段を持ったスタンド能力か、一度体験しているからなのか、制服を溶かし肉を消化される痛みにも承太郎は堪えてみせた。承太郎が今敵として見据えている相手はダンだけで、自分を食むスタンドを物ともせずただ一心に射抜くのだ、あの時と同じ、強い意志で。ダンも応えて承太郎を見つめていた。虐げられても弱気を見せない瞳、危機に陥っても折れない心、これもあの時と同じ、だと思う。同じのはずだ。だがダンは引っ掛かりを感じた。承太郎の目は揺るがない。彼に揺るぎなどまったく見えないのに、けれど違和感があった。室内の明かりを集めて煌めく双眸。いっそ強過ぎるくらいの煌めきが、いやに目を惹く。

 目が潤んでいる?

 揺るがない、揺るぎはないが、迷いがある?

 ためらっている、とでもいうのか。抵抗をか、反撃の機会をか。いったい何を躊躇しているのか。濡れて輝く瞳を見つめ返したところで正答が得られるわけでもないのが、あともう少しで見えそうな気もして、いっそう食い入るように見つめ、足が一歩、前へ出る。

 「おれも構ってくれよ承太郎よォ」

 イエローテンパランスに顎を掬われて、承太郎の焦点は移る。勝ち誇った顔で笑うラバーソールへと強制的に。あ、とダンは声を上げかけてから慌てて咳をする。せっかく自分を映していた瞳が逸れてしまった。一瞬でも名残惜しく思ったことを誤魔化した。

 「最初の質問に答えてやる。何がしたい、だったか。何しに来たかって言うとおれ達はな……何って……あれェ? 何をするんだったかなダンさん」

 すっとぼけたポーズのラバーソールに突然振られダンは口をへの字に曲げた。言い出しっぺはお前だろうよわたしに投げるな。言いかけて、はっとなった。そういえば具体的にどうするのかを決めていなかった。仕返しという言葉だけに突き動かされてきたけれど、その先を知らない。ダンは承太郎のことを知らない。知らな過ぎた。承太郎が経験した旅の全てを知らない。承太郎がDIOを倒した方法など知らない。戦いのない日々ではどんな少年なのか、知らない。知らなかった。ただ何となく、戦いに勝って無事日本に帰って、勝利に酔いしれた生活の中、浮かれきったその面を歪めてやる、そんな風に漠然と思ってきたのだ。こうして会わなければ『知らないこと』も知らないままでいただろう。

 だから、会えてよかった。

 内心の思いを隠して、

 「分かっていることをいちいち聞くな。リベンジ、仕返しだ」

 スタンドの塊を口内に押し込まれ呻く承太郎の上に覆い被さる。

 「お前にもらった屈辱と痛みを考えれば、わたし達はお前を殺してもいい」

 口の端から垂れた唾液をもう一度唇へ塗り付けてやり、耳の奥へは囁きを贈った。

 「お前を狂信者どもに売りつけても、いい」

 カリスマを失った者の嘆きと恨みは凄まじい。空条承太郎を狙う輩はそれこそ世界中にいる。生け捕りにして金に糸目をつけない連中に渡せば一生の豪遊も夢ではない。

 「だがそんなことはいい。いいんだ……承太郎」

 このわたしに金など要らないと思わせるものを、どうして今手離せる。

 浅い呼吸をすると共に仰け反った喉元に誘われ、衝動に任せ、承太郎の首筋を舐める。舌に当たる皮膚が熱い。あるいは自分の舌が熱源か。からかおうと思って付けた唇を中々離せず、首から頬にまで滑らせていく。

 「んんッ」
 「今は仕返しが優先さ……そうだな……とりあえず、泣け」
 「まだ肉は食わないでいてやるから、素っ裸で土下座でもしてもらおッかなァ」

 ラバーソールの調子っぱずれな哄笑を聞いても、この熱は下がりそうにない。


 引き裂かれたカーテン、散らばった包帯、漂う消毒液の匂い。癒しのための清純が汚されていく。ベッドに縫い付けられた承太郎の肢体を這う粘膜、毒々しい黄色の色味だけ現実味がなく場違いで、ゆえに卑猥だ。

 上からはダンに押さえられ、衣服の中ではラバーソールの分身が這い回り、承太郎は身悶えもままならない。開かされた口や手では歯を噛み締められず、拳を握れもしない。耐えるための拠り所を奪われ僅かに震える、その小さな振動がダンを昂ぶらせた。そうして興奮すれど、特別なことはしていない。その気になれば男女関係なく陥落させる自信もあるけれど、柔らかい口付けを繰り返す。性行為から得る快感よりもその目が欲しい。ダンは承太郎の頬を挟み、額にさえキスを落とす。優しく愛おしげに鼻筋を辿り、一度離れて、瞳を覗く。潤いが増して輝くそこは美しい。

 「何だかわたしばかりだな」

 酸欠に喘ぐ唇をくすぐった。

 「なにか、喋れよ。なあ」

 ねだっても、口には異物が詰まっているのだから承太郎には無茶な願いだろう。ダンは共犯者へ目配せをする。ダンの熱中ぶりを呆れて眺めていたラバーソールは肩を竦めた。その表情が言っている、あんたそれのどこが仕返しだよ? と。

 自由になった口で承太郎が大きく息を吸う。

 「はぁ、はッ」
 「お前の場合溺死してもいい顔をしてくれそうだな。いいぞ、お前がもっとわたしを夢中にさせている間はお前の先生も無事だ」

 ラバーズを使おうという気持ちも腑抜けて、軽く言いながらすっかり脆くなったシャツを破った。露わになる承太郎の色を期待してのことだった。皮膚が白かろうが黄色かろうがどうでもよかった、承太郎というものをもっと堪能したかったのだ。しかし上半身が目に入った瞬間ダンは絶句した。肌を彩るのは想像していた美ではなく、いくつもの傷痕だった。抉れた痕は深く、刺し傷に近いが、それにしたって数が多過ぎるし、何より惨い。いくら戦いの毎日だったとはいえこんな傷痕、少年の体に残って良いものではない。

 「何、だ、これ……承太郎、お前」

 お前はどんな戦いを経てきたというんだ。

 「てめぇらで九度目だ」

 あまりの光景にうろたえるダンは気が付けば承太郎に包まれている。望んでいた通り、承太郎の瞳に。

 「八回まではぶちのめして追い返した。全員。後遺症だなんだのは知らねえがやつらみんな生きているだろう。おれはそれでいい。二度と来なけりゃあいい。だが来るやつは何度でも来る」

 ダンとラバーソールがまさしくそれだと言いたげに承太郎はダンを見上げて続けた。同じことがいつまで続くのか。それでも自分を狙うのだったらまだましだ。何度来ても同じ回数勝てばいい。だけど刃が周囲に向いたなら。誰かが巻き込まれたら。誰でも人質になり得るこの世界で、誰も傷つけないまま常勝できるのか。

 そうか、今がその時か、とダンは理解する。倒しても倒しても、いや倒す都度、負の遺産は増えてキリがない。以前の自分がそうだったからよく分かっていたし、数多の刺客を生かして帰してはキリなど在りようがない。禍根を止めるには、根から絶つしかない。

 「目をつむって九度目を逃がして十度目に後悔したくねえ。おれは、だから」

 またもダンの望みは叶った。承太郎が、泣いた。眦から涙が一筋、流れている。あの潤みが決壊して溢れていく。溢れ出てしまったものは戻らないだろう。ためらいはもう、無い。

 「だから決めた」

 思い出したのは、初めてDIOと出会った時の威圧感だった。

 さようなら。

 スタープラチナの口がそう動くのを見届けるよりも早く。スタープラチナがDIOを『殺した』力を見せるよりなお速く。ダンは物凄い力で後ろに引っ張られていた。

 「バカかテメェぼーっすんな!」

 怒鳴るラバーソールに襟首を掴まれて引きずられ、ベッドから落ちて体勢を立て直す暇もない。引っ張り上げられた体は窓から落ちて、退却を余儀なくされた。地面に尻を打った衝撃も、びびっているラバーソールの大声も、死にかけたことも、ダンには遠い。承太郎の泣き顔だけが今は全てだ。

 「こ、これは……ねえジョジョいったいどうしたのッ?」

 さすがに異変を感じ戻って来た女医へ、

 「進路……もう迷わねぇ、と、決めたぜ」

 伝える承太郎の声。本体から遅れて逃げるラバーズが拾った。





 「ヤバいやばいヤバイ死ぬかと思ったぞ! あれは! 間違いなく! 殺す者の目だ! 小便くせえ十代のクソガキが持ってるもんじゃあねェ」

 あの学校からなるべく離れたい、できるならとっとと飛行機でおさらばしたい、と前方を爆走するラバーソールが捲くし立てる。あぁ、とダンも頷いた。言う通り、あれは殺すと決めた男の目だった。

 「あーもー死んだかと思った。寒気がしたね! きっとすげェ隠し技なんだろうな……リサーチ不足だった」
 「あいつ、泣いていた」
 「え? なに?」

 走る速度を緩めて振り返ったラバーソールが目を見開いていく。

 「これから殺すおれ達を想って泣きやがったんだ」
 「ダン、なんつうツラしてんだ!」
 「確かにやばいぞラバーソール。わたし、多分」

 ダンは、真っ赤になっているであろう自分の顔を両手で覆った。



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