滴り落ちる水の音。視界をぼやけさせんとたちこめる湯気。シンプルな石鹸の匂い。と、複雑な香が醸す異国の雰囲気。もやもやと漂う熱気に包まれた体を、備え付けの簡素な椅子に預け、一息吐く。金でできた蛇口を捻って桶に溜めた冷水を頭から浴びれば、朦朧としていた意識が少しは回復してくれた。頭を振り水気を飛ばしてから、冷たくなった濡れた髪へ手を差し込む。これもまた備え付けの洗い場の、湯気に曇る鏡へ、前のめりにもたれかかり、さらに暫くじっとしてみる。考える力を取り戻していく。だんだん、酔いが醒めてくる。吸血のもたらす副作用、強烈な恍惚状態、抗い難い快感の余韻が、ようやく承太郎の中から消えようとしていた。

 「ジャグジーか。なかなかの水圧と心地好さだ」

 ここでは声がよく響く。後ろから聴こえてくるDIOのご機嫌さったらなかった。んっん〜あわあわだ〜という阿呆のような、しかしとんでもない美声で奏でられるさえずりもよく反響して、いつもより弾んで聴こえる。ああこれは紛れもないDIOの声、自分と同じ場所にDIOがいる、一足先にDIOは湯に浸かっている……DIOと……なんてこった、と、承太郎は髪ごと頭を抱えた。

 「人間は風呂へかける情熱が熱いな」

 DIOと風呂。初めての経験だ。館であてがわれた部屋のバスルームは狭くて、二人で使うことはついぞなかった。

 遊びを終えたDIOの体を打つシャワー音、微かなその音を、承太郎は四肢を投げ出した格好で聴いていただけ。DIOが寝台に戻るまでは眠りにつけなかった。宿敵の動向を把握しなければ神経が休まらないからだと、理由付けていた。今にして思えば、隣の体温を求めていたのだ。DIOの存在に体が慣れて、かの肌がないと、眠れなくなっていた。DIOも、そうだったのかもしれない。タオルを被り承太郎が出てくると、「枕が濡れるじゃあないか。乾かしてから寝ろ」と指摘して、実際拭き終わり乾くまで律儀に待っていた。歪な関係が軟化し出した頃のことだ。

 それでも一緒には入らなかったのに。

 今、DIOと、風呂。

 いや、それはいい、いいのだ。承太郎は日本人なので銭湯や温泉の類を人並みに気に入っている。他人と一緒に入浴することそれ自体に否やはない。その相手がDIOであっても、だ。そこに忌避もなかった。寝台で何度も見て見られて見せつけられてきた裸体をこうも明るいところで目にすると、何となく、妙な気分にはなるのだが。とにかくまあDIOと風呂はいいのだ。違和感はあっても恥ずかしがるようなタマでなし。家族以外との裸の付き合いというやつにも興味がある。承太郎が頭と共に抱える問題は別にある。

 「我が館にも今度造らせようかと思わせる凝り具合だ」

 場所にも不満はない。とある富豪の豪邸を買い取って改築したらしいSPW財団の施設には、有名ホテルにも劣らない煌びやかな大浴場が付いていた。なので、男二人で入っても窮屈には感じない。というか男二人にも広過ぎる。出入り口を抜けると圧倒的だ。端から端まで何種類もの風呂が並んでいる。違う風呂に入ると互いの姿が薄らぐだろう、そんなでたらめな広さだから、DIOは洗い場、承太郎が今いる位置に一番近い泡風呂に入ったまま動こうとしない。白い泡の中に身を沈めて満喫している。

 「じょうたろうじょうたろう」

 背後から、ぱしゃぱしゃと水音が立つ。手で湯を叩く音だ。一人で楽しむのにはいい加減飽きた、という意思表示の仕方がこれなのだから、分かりやすいと苦笑するべきか、あざといと呆れるべきか、てめーおれを舐めてやがるなと怒るべきか。そのどれもせず、承太郎はふと笑う。いまだに棺桶での眠りや蝋燭の明かりを手放せぬ吸血鬼染みた懐古趣味を持つのに、同じくらい、DIOが現代文化を愛でていることを、承太郎は知っている。海底から上がったらなんと百年経っていた世界で、知らぬ未来に触れて、驚き、戸惑い、瞳煌めかせたであろうDIOの姿を想像すると、口元は笑みを描くのだ。馬鹿にするとかではなく、ただ微笑ましくて、生まれるその微笑を隠し、承太郎は振り向き応えた。

 「どうだよ、いい湯加減か?」
 「悪くはない、入浴剤は鼻が曲がりそうにくどいが……貴様は入らないのか?」
 「今、風呂に入ったらソットーする自信があるぜ」

 何でもない風を装い切れず承太郎は目を細めることで何とかDIOへ焦点を合わせている。ふむ、とDIOは難しい表情をつくった。また小さな音を立てて湯から出した手を豪奢な照明にかざし、見上げている。自らの手を叱るような厳しい目つきだ。DIOはあの手で食事をした。承太郎はあの手に貪られた。DIOは耐えようとしたが承太郎は許さなかった。理性を崩された結果にしかめっ面をしているDIOには、もう傷など残っていないし、血も綺麗に落ちている。真っ白な肌は張りと艶を得て、湯の雫に濡れ、輝く。だから、DIOがどう不満に思おうとも、承太郎は満足をしていた。

 「やはり吸い過ぎた」
 「煽ったのはおれだ」
 「生意気にもな」

 片手で掬った泡をDIOが握り締めている。

 「無理をさせるつもりはなかった」
 「無理なんざしちゃあいない」

 自分で望み自分から仕掛け、DIOから理性を手放させた。一本取った、勝ち星を手に入れたのだ。喜んでもいいだろう。

 「似合わんことをする必要はねえんだぜ、吸いたきゃあいつでも吸えや、DIO。次からは大人しく吸われてやる気もないけど、な」

 胸にじんわりと広がる気持ちを、わざわざ表に出すことはない。傷が治ってよかったという本音は、自分で自覚できていればそれで良い。

 「お前のその無謀な積極性はどうかと思うぞ。その愚かさ、わたしは好きだが」
 「なにを言っているんだか」

 軽く受け流すけれど、付けたされるたった一言に、体感温度が数度上がった。浸かってもないのにのぼせそうだ。

 「ジョセフには悩みの種かもしれん。同情する」
 「てめぇそれを……言うなよ」

 上がった温度が瞬時に下がる。せっかく忘れていたのに。いや忘れちゃあいけないことなのだがいざ突き付けられると承太郎の度胸もさすがに揺らいでしまう。まさに、そこなのだ。そこのところが、現在の大問題。頭を抱えたくなる原因。

 あの時は夢中だった。無我夢中で腕の中のDIOを抱き締めていた。庇われて死なれては後味が悪い、借りを返したい、助けたい、そういう前提があったことは確かだ。けれど、牙が刺さる感触や、血を抜かれ、いや、血が、自分自身がDIOの体内へ巡り、DIOと一体となる。初めての感覚が、承太郎の本能を剥き出しにした。声にならない不規則な息遣いで何度DIOを呼び、もっと吸えと、背に指を突き立てただろう。

 奪うのではなく、望まれて送り出される血液が体中へ沁み渡り傷を癒していく、これが本来の吸血か、というDIOの覚えた感動さえ、伝わってきた。求めて求められることの歓びを、承太郎は全身全霊で知った。

 その、溺れる様を、祖父に『見られた』ことこそが、承太郎にとっての悪夢だ。

 吸血された直後は物事を考えられる力などなく。思考も記憶もおぼろげで、口から漏れるのは意味のない母音のみ。DIOに肩を借りて何とか立てる状態だった。開いた扉の前にジョセフが仁王立ちしていたとして、ろくな会話ができたはずもなく。どうして部屋の前にジョセフがいたのか、なぜ神妙な顔で見つめてくるのか、そもそもジョセフがいることを疑問にも思わなかったのだろう。ぼやけた目でぶれるジョセフの顔を見つめ、じじい、とだけ呼んだ気がする……まさか無意識に「おじいちゃん」と呼んでいないことを祈りたい。

 血塗れの二人組を険しく見据えるジョセフに、さすがにその格好じゃあまともな話し合いもできんだろう、いいから一旦風呂に入ってこい、話はそれからだ、と学帽を外されたこと。撫でるというよりいたずら小僧を叱るような強さで頭をこつんと叩かれたこと。擦れ違った瞬間見えた光の正体はジョセフの涙ぐんだ目だったこと。全部思い出したのは今さっきなのだ。ジョセフに見られ、『気付かれた』ことを理解したのは、この大浴場に入ってからだった。

 「く」

 急激な吐き気に、承太郎は自分の口を覆う。ジョセフには、祖父には多大なる衝撃を与え、心労をかけたはずだ。一度目の面会で、DIOに嬲られる夜を過ごしている、そんな事実を知った時以上に、ショックだったに違いないのだ。孫が、祖先の仇に縋りつく光景だなんて。あくまでも自分で決めたこと、落ちたつもりはない、だけどあれでは堕ちたと見なされて当然だろう。ジョセフの小さなゲンコツが今頃になって痛い。抱いているその相手が誰だか分かっているのか馬鹿者が、と、いっそ殴られたかった。

 「貧血が酷そうだ。あまり余計なことを考えるな」
 「余計なって……家族のことだぜ」
 「思うに……お前は案外考え過ぎる。しかもそれを外に出さないから、歯痒い……見ている側としては、だ」

 風呂の縁に置いた腕へ顎を乗せ、DIOは承太郎と目を合わせた。優しい色をした泡へ溶け込むような目。こちらの動揺を見透かしている眼。

 「わたしに関することだけを思ってみろよ」
 「DIO? あ」
 「楽になれる」

 柔らかいタオルが承太郎の体に触れている。反射的に立ち上がろうとしたけれど、上から、とん、と押さえられ、元の位置に座らされる。続いてDIOも後ろに座ったのが気配で分かる。時を止めて風呂から上がり『世界』に小さなタオルと椅子を持ってこさせる神業は見事といえるが、承太郎は嫌な予感しかしない。湯に入れないのならこうするまでだ、とDIOは手に持つそのタオルで承太郎の体を拭き始めた。

 「まるで介護だ」
 「甲斐甲斐しい、と言え」

 自分でできる、と言ってやっていい、抵抗してもいいような状況で、しかし承太郎は力を抜いた。鏡に映るDIOの笑顔がそうさせた。



 指の痕が残る脇腹は特に丁寧に拭われていく。微かな痛みの中に快感もある。どうしても疼く。どうしようもなく感じる。承太郎の唇から零れる熱のこもった息に気付かないDIOではないのに、何も言わない。が、DIOの体は如実にうったえてきた。背中と尻の境辺りに、熱い塊。当たっているぜ、と鏡を通して伝える。と、生理現象だ、とあっさり認めた。恥じず悪びれず、堂々とした態度のおかげで、承太郎も素直に感じ入ることができた。過ぎた快楽は苦痛だが、この布越しの愛撫は温かくて、湯船に浸かっているのに等しい気持ち良さがあった。

 「ん、DIO、そこは」
 「一番大事なところだ」

 肌にこびり付いた血の残滓を全て落とし切ったDIOが次に目指したのは、腹の真ん中。DIOにとって相変わらず慈しむ箇所であるらしい。

 「『君』から栄養を奪ってしまったな」

 何の影響もなければいいが、と憂う苦笑めいた表情に、嘘吐きの心は痛むのだった。



 「母との記憶はあるのか」

 いつの間にかタオルを置いて、直に腹筋をなぞり、臍をつつき、腹全体を大きく撫でるDIOは不意に顔を寄せてきた。吸血鬼でも湯に浸かったら頬は上気するのだなと思いつつ、承太郎は首を傾げる。どういう意味だ、と。

 「なに、ホリィ・ジョースター……空条ホリィとのこうした思い出はあるのかと、思って」

 石鹸を纏うDIOの手にぬるぬると愛でられながら、承太郎は沈黙する。あるかなしかで答えるのなら、ある。幼い頃はもちろん、あの通り過保護気味の母は世話好きで、一人で入れるようになってからも構いたがった。ちゃんと洗えているか、滑って転んだりしていないか、そわそわと様子を見に来て、終いには「仕上げはママにさせて」と髪や体を洗われた。こそばゆい思い出だ。人に話したい内容ではない。

 「黙秘する」
 「答えたも同然ではないか……まあよかろう」

 明るく笑う今のDIOは、その時の母よりもよほど緩やかな手つきで承太郎を洗っている。

 「このDIOにはあるぞ。あの女、湯を張る金すらなかったから、まさにこうして体を拭かれた」

 粗末な布の感触が屈辱だったし、この暮らしに甘んじている母を蔑んだ。だが母は、きれいな子、と呼びかけてきた。こんなにきれいな子は他にはいない、と繰り返し紡いでは子供の体を毎日清めた。

 「手は、ちょうど、こんな……こんな感じに」
 「くすぐってぇ」
 「ん。そうそう、いつもくすぐったくってなァ」

 DIOの肌は透き通るほど白く美しい。吸血鬼の持つ魅了の力、それもあるのだろうけれど、きっと、ディオの頃から綺麗だったのではないか、貧困の中でも武器となり得る端正な容姿を、母親の手によって守られていたのではないか。

 「ジョナサン・ジョースターは」

 DIOが過去を語る時、承太郎はDIOの中に『人間』を垣間見る。人を超越してもなお人として生きている男を。

 「奴には母親との記憶がない。おれが奴に勝っているとはっきり言える唯一の点はそこだな」
 「ずい分と謙虚じゃあねえか」
 「いいやこいつは純粋な敬意だよ……もっとも、ジョナサンはエリナ・ペンドルトンから手の温もりを得ていたのだろう……承太郎」

 DIOの意識が過去から現在、承太郎へと戻る。

 「わたしに母性を感じるか?」

 DIOの手は母の手より優しくこの身を辿っている。けれどそうされて得るものは、そんなに生易しくない。優しくされればされるほど胸が苦しいのは、偽りのままごとの代償。切っ掛けを作ったのは自分だから、苦しくてもDIOの手を受け入れているけれど、本当ならすぐにでも振り払い、嘘を嘘と告げて偽りを壊さなければならない、のに。

 承太郎は座り直し、DIOと対面する。真正面から言い返してやった。

 「ちっとも」
 「残念だ」
 「残念なのか」
 「子供には母親が必要だからな。お前はその柄じゃあないし」
 「母親がいなくても育つもんは育つ」

 愛する人がいてくれれば。ジョナサンがそうだった。立派な紳士だったと聞く。ディオという男も、人道を踏み外したとはいえ野望を実現するまでには成長した。ジョナサンの父親、ジョースター卿の見守る愛があったからだと承太郎は思う。それに、今のDIOを生かしているのもある意味ジョナサンからディオへの、一握りの情だ。

 「だからてめえもこんなにでかくなったんだろう」

 DIOが昔語りの中で振り返る人々は皆、DIOの一部となってDIOを形づくっている。心にも変化を与えてきた。承太郎はDIOの髪を梳き、そのまま頬を撫でる。首の繋ぎ目、鎖骨、胸元、順に触れる。お前におれは何を残すのか、何かを残せるのだろうか、と。ぺたぺた触り過ぎたのだろうか、珍しくもDIOが首を竦めた。くすぐったがっている。少し、きゅん、ときた。

 「ふふ……承太郎、今のお前からはちょっとだけ、感じるぞ」
 「母性を、なんて言ったらブチのめす」
 「愛情を、だよ」

 くさいことを言ったか、と呟き、肩口へ顔を埋めてくるDIO。

 「おい、この、甘えため」

 かなり、きゅん、ときた。



 DIOの髪を梳き続けていたら、つい、聞いていた。

 「おれがあれを言わなくてもこんな仲になっていたと思うか」

 決定的なことを。DIOからはぴくりとした反応がある。『あれ』が指す出来事を汲んだDIOが顔を上げる。

 「無意味なことよ。今に至るまでの過程や方法なぞどうでもいい。現に今宵のわたし達があるのだから」

 あまりにもきっぱりと断言するので、逆に、承太郎はますます苦しくなってしまった。そうだろうか。本当に? 疑う自分の狭量が嫌だった。もう、言ってしまおうか。一度決めれば、ぐるぐると渦巻いていた感情が落ち着いてくる。今だ。今しかない。言っちまえ。くだらない嘘なんだと。お前を傷付ける嘘を吐いたと。言おう。承太郎は最後の逡巡を飲み下す。ここまで築いたDIOとの関係を終わらせる覚悟で。

 「なあ承太郎」
 「あのなDIO」

 被る声。完全に同時。今夜はつくづく運が悪い。互いに目を見開いてから、相手を促す。

 「なんだ」
 「てめぇがなんだ」

 お前が先に言え、てめぇが先だ、と言い合いをするうち、白熱して、顔の距離が少しずつ詰められていく。熱気のせいか、香のせいか、素肌と共に露わになったものがあるのか、吐息が混ざるほど近付いた時。やがて、どちらともなく顔を傾けた。DIOが赤い舌を見せ、誘う。誘われて、それに乗るのは普段だったら、癪だけれど。終わらせる覚悟があったのに、でも、だったらこの一回ぐらいは、と承太郎は目蓋を下ろしていく。視界が閉じるのに合わせ、DIOがもう一度囁く、考え過ぎるな、と承太郎を眼差しだけで深く包む。そうして、唇と唇が触れる寸前、割って入ったのは盛大な咳払いだった。DIOと二人して扉の方、脱衣所を見やると、見知った影が見える。ちょおっと長湯過ぎるんじゃあないか、と言いたげに、オホンオホンオッホン! と響く咳。表面上は冷静な澄まし顔を保ちつつ。無言でシャワーを手に取り栓を開いた承太郎は再び頭から冷水を浴び、その巻き添えをくらうDIOは小さな悲鳴を上げた。



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