絶望の淵に立つことが何も悪いことではない 最低最悪を知っているからこそ、人は輝く何かを手に入れることができるのかもしれない 彼女は独りではなく、一人だった もしくは人ですらなかっただなんて陳腐な御伽噺のような出来事を理解するのに、ほんの少し時間が欲しかった 何を恐れていいのかも分からなくなって、今の今まで幸せに騙されていた自分が落ちていく感覚を絶望と考えた 「天使か?」 ここを訪れる者がいるなど予想してはいなかった 何しろ人が立ち入ることができない幽霊星だと案内してくれたガイアからは聞かされていたのだ 「……違う、な」 彼女は摘んでいた花を片手に茫然と立ち上がった 視点がようやくその人物に定まって、目を細める 久々に声を発しようと試み、掠れるようなか細い声しか出ない自分に彼女は苦笑した こんなにも人と接しない仙人のような掛け離れた生活をしているだなんて信じたくはなかった 「声が出ないのか?」 「……っ」 慌てて首を思いっきり横に振る彼女に、その人物は話しかけながらゆっくりと近づいた 「ケリー・クーアだ」 「!」 どこかで目にした見覚えのある顔だと彼女が思ったはずだった その人物は愛嬌のある顔で、テレビでもよく目にする 何よりも彼女の友人、ジャスミンの旦那だった人だ 過去にしてしまうのは失礼な気がしたが、ジャスミンは少し前にこの世を去ったらしい 訃報を聞いて、すぐにこの地に来てしまったから最後に会うことすらも叶わなかった 直接、話をする機会などなかったが、ジャスミンから電話をもらったときに彼のことが話題になることが多々あったので覚えている 「ジャスミンが選んだ人だもの。会わなくても、こうやってテレビで見たり貴女から聞いたりすれば分かるわ」 「そうか?いや、でもやはり今度きちんと紹介する」 「縁があれば、会うこともあるから。それを楽しみにしたいのよ、私」 そんな戯言を吐いていた少し前の彼女を今の彼女は笑ってやりたくなった 会っておけば良かったのに、会わなかった 軍を退いたジャスミンと顔を合わせる機会など、ぐんと減って擦れ違っていたのは気づいていた 会えるいつかをただ楽しみにしていた 「……レイラよ」 クルーと名乗るのは止めた 自分が何者なのかはもう一度探し求めている最中なのだ 「レイラ。ここにいるってことは……」 「ただの人間じゃない。でも、神でもない」 「何者だ?」 「狭間を生きる者。私がここで会う人間も初めてよ、人間がここに来ることができるだなんて知らなかった」 「俺も自分で吃驚だ。今でも夢じゃないかと疑っている」 ジャスミンと同じ匂いがする さっぱりとした人間、けれども獣を隠し持つ者の香り 「天使とガイアが言っていたのは、お穣さんのことか」 「?」 「妙だな。俺もお穣さんが普通の人間だとは思えない。きっと、人間の中に混じっていても馴染まない。何故かはよく分からないが、そんな気がする」 「……夫婦で同じこと言うのね」 「何か言ったか?」 「いいえ。勘の鋭い人っていうのはどこにでもいるものね」 かつてのジャスミンも彼女に失礼ながらも同じことを初対面で言い放った その頃はただの失礼な表現でかつ正論だと思った 今、考えてみるとジャスミンは本能の奥の方で、彼女でも分からない彼女の存在の違和感に気づいていたのかもしれない 「何か悩みでもあって、ここにいるのか?」 「悩み?」 「それとも、元々ここにいるのか?」 「ここに来たのは、最近のはず」 「はず?」 「詳しい時間の流れはここでは意味がないし、分からないの」 「綺麗な星だな、ここは」 「花は綺麗よ。可笑しなことに、ずっと同じ花が咲いている」 「奇妙な話だ」 「お茶でもいかが?このハーブは香りも味も良いの」 手に摘んだ花を愛しそうに見つめる彼女をケリーはやはり天使だと感じた しかし、随分と人間味のある天使で、もう一人の天使とは種類が違う 隠された者のように話には聞いていたが、彼女にそのような印象を周りに与えるような要因は少ない気がした 「うまい」 「でしょう?ここのところ、ずっとこんな調子で一人で試していたら美味しくなった」 「嫌われているのか?」 「うーん。ちょっと違うかしら。きっと怖いのよ、私の存在」 「俺には人畜無害な存在にしか見えないが」 「実際、そうよ。勝手にあちらが思っているだけ。私が仲良くしようとしないから。かと言って、物凄く憎むわけでもないから」 彼女の黒髪が軽く風に浮いた 太陽がその青紫の特異な瞳に光を与える 「ねえ」 「何だ?」 「……私を攫って。ここから出ないと、私はいつか私ではなくなってしまう。空っぽに入れ替えられて、ずっとこのまま」 「俺はガイアに連れて来られたんだ。お穣さんを連れて帰ったら、怒られないのか?」 「ガイアは、私が何とか誤魔化すから」 お願いと小さな体に縋られてしまっては、ケリーもなすすべなく降参した 彼女は小さな天使で、何に恐怖を感じているのか触れる体は小刻みに震えていた そこには何も彼女を傷つけるものなどないはずなのに、与えられた何もないことを彼女は一番怖がっていた |