euphoria

□微睡
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無から有を生み出す神と、生み出された人間との狭間に落された子はどう見ても見た目だけは生まれたばかりの人間で、神と呼べるような能力はなかった
守る者がいなければ、すぐに息絶えてしまう無防備な存在に神は手を差し伸べてしまった
その子は幸か不幸かすくすくと生暖かい仮初めの繭の中で育った


「ミス・クーア」


形式上所属しているに過ぎない名門女学校に久しぶりに姿を現した赤の大きい人の闊歩するのを呼び止めたのは知らない顔だった
政財界でのパーティーなどで顔見知りになることが多いので、この余り通わない学校でもジャスミンが知り合いが少ないわけではない
しかし、小柄な少女はどう見ても自分が知り合いになったことがない種類の人間だった


「何か?」

「落としましたよ」


普段は危険な軍に身を置いていたり命を狙われることもあったりするので、ジャスミン自身注意力散漫なわけではない
しかし、どうも平和惚けしたような学校の中では気も緩んでしまったらしかった


「ありがとう」


彼女はジャスミンにそれ以上何も言わずに生徒手帳を渡した
何事もなかったかのように、生徒の波に呑まれていく後ろ姿はやはり一般生徒と比べても小さく、しばらくは目で追っていたがいつの間にか消えてしまった
少女にはここに通う女学生にしては気取った感じがなく、逆に気怠い無気力さすら感じた
珍しい人間もいるものだと、自分のことは棚に上げてジャスミンは息苦しいはずの学校で少しだけ微笑んだ
一方、彼女の方は久しぶりの会話だったなと暢気なことを考えながら目的地へと足を進めていた
彼女がジャスミンに声をかけたのは本当に偶然だった
偶然にもジャスミンの物が彼女の目の前で落ち、目の前にして放っておくのも気が引けたので、中を素早く確認して呼び止めた
赤毛の大きい人を見るのは初めてのことで怖さがなかったと言えば嘘になるが、不思議と躊躇う気持ちにはなれなかった
エクセルシオール女学校は御嬢様学校であるからか、蝶よ花よと育てられた彼女でも随分と息苦しい
羨むわけではないが、政財界に名を馳せている両親、家族、親戚を持つ者が多い
彼女は幼くして両親を亡くし、親戚の旧名家に引き取られた
生活に苦労したことはないが、日常にパーティーなどの言葉が蔓延る世界に生きているわけでもない
ここは彼女の日常とは違う日常を持つ者が普通を自分達の価値観に肯定し、生きている場所だった
彼女もそんな世界があること自体は認めていたが、それを当然とするには違和感があった
だからこうして独りでいることが入学しても多くなった
これでは前に家で家庭教師と勉強していた方が、訪ねてくる友人や親戚と会話する機会が多かったのではなかろうかとわざわざここを探して入学させてくれた今の両親には悪いが思ってしまう


「ミス・クルー」


お気に入りの図書館裏の長椅子に陽だまりが集まって、彼女は座ってしまったら本を片手に心地良く寝てしまっていた
教師にでもそんなはしたない行為が見つかれば注意されてしまうような学校だからこそ、名前を呼ばれた途端に彼女は体を起こした


「気持ち良さそうに寝ていたのに、すまない。本が落ちてしまいそうだったから」

「え?……ああ」


間一髪、彼女の手から離れずに納まった本はすぐに閉じられた
目の前にいる人物の顔が覚醒していく頭で浮かんでくる
先刻、彼女が拾い物をした持ち主、赤い大きな人だった


「隣、よろしいか?」

「……ええ、どうぞ」


傍から見れば不思議な光景だっただろう
大きい赤いのと小さい黒いのが並んで座っている


「ミス・クーアはやっぱりクーア財閥の方?」


彼女も無知ではない
重力波エンジン搭載の船の製造、物流、医療、金融と幅広く事業を展開しているクーアの一人娘が同じ年頃に当たることぐらいの一般常識はあった
体が弱く、女学校にもほとんど姿を現さないという噂も聞いていた
しかし、彼女の横に座る体躯の人は制服で幾分かその鍛えられた体を隠しているものの、到底か弱そうには見えない
目には見えなくても、重大な欠損がある人間もいるので一概には言えないが、横にいる赤い人が彼女よりも早く死んでしまうようには思えなかった
となると、別人という線があるのだがジャスミンはその線を見事にぶった切る



「はい。滅多に学校には出られないのですが」

「ご病気、そんなに悪いの?そんな風には見えないけれども」

「ミス・クルーは随分とはっきりとものを言う方ですね」

「気分を害されたなら、謝ります」

「いや、ミス・クルーの見立ては正しいですよ。私は思ったより世間では重病人らしいですから」


ジャスミンが寂しそうに笑うものだから、彼女は言いわけのように口走る


「大財閥の一人娘ですもの。脚色が多少あっても可笑しくはないわ」

「失礼だが、前からエクセルシオールにいた方でしたか?」


この女学校はそれほど巨大なわけではない
入学できる人数も限られており、門前払いされる者も多い
見たことのない顔がいることは至極当たり前ではなく、逆に珍しかった
珍しがられることにも慣れてしまっていたので、彼女は指摘されたことを認めるしかなかった


「いいえ。この間、転入学したばかり」

「だと思いました。良い意味で、この学校には馴染んでおられない」

「その言葉、そっくりそのままお返しします」

「ほう」

「例えるなら、飼いならされた上品な猫の中に虎が息を潜めて混じっているような」

「私が虎?」

「何となく空気で分かるの」


初対面の相手にこんな失礼なこと言うつもりではなかったと、彼女は口を噤んだ
ジャスミンを仰ぎ見ると口元が嘲笑ではない笑みを浮かべていた


「ほう、それは興味深い話ですね」


彼女が二度目に見たジャスミンはもう笑ってはいなかった
二人が座って話しこんでいる様子を通りすがりに見た生徒たちは少し離れてから固まって話し出す


「ねえ、あれ見て頂戴」

「あら」

「いつの間に仲良くなったのかしら」

「でも、凄く馴染んでいる気がしませんこと?」

「それもそうですわね」

「仲良くなられたなら結構なことですわ。二人とも、ねえ……色んな意味で浮いていますから」

「まあ」

「失礼ですわよ。仮にもクーアやクルーの御令嬢なのですから」


誰かと話しているだけで、いつもより騒がしい周囲に彼女は嫌気が差したかのように立ち上がって、ジャスミンに向かい合った


「貴女のような話の分かる人と今日は話せて良かった。授業があるので、私は失礼します」

「ジャスミンだ」

「はい?」

「私はミス・クーアや貴女と呼ばれたくないのでね」

「そう。では、ジャスミン。御機嫌よう」


彼女は素早くジャスミンの話を理解し切り返す
クーアという名を聞くだけで、長々と話を続けたがる他の者たちとは一線を画した存在は珍しく、余計にジャスミンはその余所余所しい態度すらも気に入ることになってしまった


「レイラ・クルー、か」


クーアと敵対しているような家柄ではない
かと言って、決して協力的でもなく、あくまで持ちつ持たれつの中立を築いているらしい
その実態は謎に包まれている
しかし、ジャスミンは彼女の背を見送りながらこれ以上何かを知ろうとは思わなかった
また縁があれば会うこともあるし、なければそれでも一期一会の縁であっただけなのだろうと納得してその場から立ち去った



「……ジャスミン?」


少しだけ懐かしい鼓膜に優しい響き


「……失礼、どこかでお会いしたかな?」


連邦軍の同僚たちはその名で自分を呼ばない
しかし、目の前にいる黒髪の美女と言っても過言ではない人間は声と同様で懐かしさを覚えるだけ


「あら、本当に忘れたのかしら」


からからと鈴を鳴らすように笑う美女は、帽子を取って軍の規定できつく縛り上げている髪を解いた
数年前の記憶にある素気ないお気に入りだった少女と目の前で笑う人物が重なった


「……驚いた。ミス・クルーなのか、本当に」

「それを言うなら、私だってジャスミンがこんな場所で連邦の兵士をしているなんて、俄かには信じ難いわね」


まだ少女の面影の残る、少し髪の伸びた彼女は随分と社交的になっており、横にいた同僚であろう男に先に行くように言葉を交わしてジャスミンの近くにやって来る


「卒業して、連邦軍に入ったのか?」

「ついこの間よ。卒業して、大学に数年通って、今は連邦の看護兵ってわけ」


医療分野特有の軍服を着ているものの、彼女は本当に一兵卒にしか見えなかった
しかし、その胸には入軍したばかりの一部の兵士にしか与えられない金バッチが輝いている


「一介のお嬢様とは思えない行動だ」

「ジャスミンも人のことを言えないでしょう?軍服の様子だと、もしかして在学中からここにいたのかしら」

「どうして、だ?」

「それだけ立派な勲章が貼りついているのだから、分かるわ」

「いや、そうじゃない。他に何でもミス・クルーの器量ならこなせただろうに、連邦軍の兵卒に志願する理由が」


理解できない
彼女が他の何かを差し置いて、軍という特殊な場所に立っていることが信じられなかった


「理由、か」


彼女は悩むように胸の前で腕を組んだ


「言わなきゃ、駄目?」

「言いたくないのか?」

「だって、笑われそうだもの」

「笑わない」

「約束ね」

「それで?」

「微温湯から抜け出したかったの。守られているだけで、何もできない自分がとても嫌いだった。軍なら怪我をした兵士に無条件に必要とされる。私が誰であろうと関係なく、等しく」


クーアの名は大きすぎる
ジャスミンの処遇に上の者が困りきっているのをジャスミン自身も知っていた
クルーであっても、軍に関係者がいないわけではないから、新たな頭痛の種を抱え込んだに過ぎないだろうが、彼女は知っているのか知らないのか青紫の綺麗な瞳を輝かせていた


「そうか」


それ以上、ジャスミンが今の彼女に言えることなどなく、再会を喜ぶ彼女とは対照的に嬉しいような不安であるような微妙な感情を抱くしかなかった
彼女が抜け出したはずの温室は実はもっともっと広く、結局はどこにも逃げ場所などないのだと知るのはこの再会から少し後のことである






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