Butterfly
□6.死の外科医
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ジュ―ドはある王国に生まれた。
国の跡目を継ぐ者として何不自由ない暮らしをしていたが、幼いジュ―ドが幸せを感じる事は少なかった。
横暴で、贅の限りを尽くす父は民に慕われておらず、もちろんジュ―ドもそんな父を嫌悪していた。
母は世間知らずのお嬢様で、国の政治には一切関わらず、とにかく父に愛を注ぐ事でしか生き甲斐はないように感じられた。
父も母も子供に関心が薄く、広い城内でジュ―ドは常に、孤独に苛まれていた。
母は美しく、長年父のお気に入りだったが、強欲な父は他に何人もの妻を召し抱えていた。
一心に愛情を注いできた母が年老いたという理由で父に相手にされなくなった頃からだろうか。
いつも美しく微笑んでいた母の表情が、まるで氷の彫刻のように冷たく無機質なものになっていったのは。
しかし、ジュ―ドはそれでも美しい母が好きだった。
もう一度自分に笑いかけて欲しいと、常に思っていた。
そんな時、父が他国へ行く用事があり、数日間ほど城を留守にした。
ジュ―ドは母のお供で、ある日行った事がない城へと連れていかれた。
久し振りに母と出掛けられる事で、ジュ―ドの心は躍るように弾んでいた。
心なしか母はいつもより機嫌が良く、時に以前と変わらない微笑みでジュ―ドを見下ろした。
年老いたといっても、未だ母は若く美しい。
その微笑みは実の子であるジュ―ドが見惚れるほどであった。
しかし、今日の母の格好はとても王妃とは思えない、黒一色の質素なドレスだった。
顔から垂れ下がるベ―ルは、まるで葬儀の時のように、哀しみをそっと覆い隠しているように見える。
見たこともないような美しい城に着くと、母は一人の男に案内され、なぜか広間ではなく地下へ地下へと降りていった。
薄暗く長い廊下は、それだけでも幼いジュ―ドを不安に締め付けさせた。
その男も母も一言も喋らず、靴音だけが暗く冷たい空間にコツコツと反響し、恐怖に耐えられず母の顔を何度も見るが、そこにあの微笑みは一切消え失せていた。
一つの檻の前に着くと、母は奥に繋がれている男を見詰め囁くように話しかけた。
あなたのような人間が必要だ、と。
そして、近い内に必ずここから出すと約束し、その地下牢を後にした。
ジュ―ドは何が何だかわからなかったが、その男と話す母の顔は背筋がゾッとするほど恐ろしいものだった。
城に戻った後は何事もなかったように、母は日頃と同じく淡々として過ごした。
ジュ―ドも父が帰ってくる頃には、あの地下牢での出来事はあまり気にならなくなっていた。
しかし、その日はなぜか自分の部屋ではなく離れで眠るように、と母から言い付けられた。
ジュ―ドは何の疑問も持たなかった訳ではないが、優しく微笑んだ母に心底嬉しくなり、素直に従う事にした。
その夜、眠っていたジュ―ドは変な声を聞いた気がして目を覚ました。
父がまた酔っぱらっているのだろうか。
すぐにまたウトウトとしていると、今度ははっきりと悲鳴が聞こえ、それきり辺りはまた静かになった。
独りきりのジュ―ドは急に恐ろしくなり、とてももう一度眠ろうという気にはなれなかった。
母の部屋へ行こうと、静かで長い渡り廊下を歩く。
先程の悲鳴が聞き間違いかと思うほど、辺りはしんとした静寂に包まれている。
幼いジュ―ドの足では、母の部屋までの道のりは遠かった。
恐怖と心細さで押し潰されそうになりながらも、時折母の微笑みを思い出し、自分を励ましながらなんとか歩き続けた。
しかし、やっと辿り着いた部屋には誰もおらず、ここで母を待とうとも思ったが、もう薄暗い部屋に一人でいるのには耐えられそうもない。
ジュ―ドは仕方なく下へ降りることにした。
大広間の扉が少し開いており、そのせいで廊下が明るく照らされている。
そこに近づくと母の笑い声が聞こえ、ジュ―ドは少し安心して、隙間から顔を覗かせた。
そこには、珍しく高笑いする母が見えた。
しかし見慣れているはずのその広い空間は、全てが赤かった。
父も、他の王妃達も、使用人も、兵士も、皆床に転がっている。
五体で一人、ではなく、各パ―ツはそれぞれ別の人間のものが乱雑に積まれていた。
笑い続ける母ともう一人を除いて、生きている人間はもうここにはいなかった。
見渡す限り赤にまみれ、むせ返る様な血の臭いがジュ―ドの鼻を強烈につき、思わず声を出しそうになって慌てて両手で口を覆う。
少し笑いを収めると、母は、よくやったわ、ともう一人に声をかけた。
その男は、頭から夥しい血を被っていた。
しかし、その目は母を捉えてはおらず、宙を彷徨っているようだ。
男は目の見えない魔物のような、不確かな足取りでゆっくりと母に近づいた。
ジュ―ドの視界に大きく入ってきたその男は、以前地下牢で見た男だった。
よく見ると、その体は小柄で痩せており、まだ大人にはなりきっていない少年のように映った。
血にまみれた剣をぶら下げ、母の目の前まで行くとその足取りはぴたりと止まった。
もうあなたは自由よ、と母が満足気に微笑んだ瞬間、母の首は、血を撒き散らして宙を舞った。
ごろごろと転がった母の首は、偶然ジュ―ドの方を向き細かく揺れながらも止まった。
その首は、ジュ―ドが求めて止まなかった美しい微笑みを刻んだまま、静止していた。
男は新たな返り血を舐めまわし、未だ死体の山を彷徨いながら、ふとジュ―ドが覗く扉の方へ近づいてきた。
このままでは自分も殺されるかもしれないというのに、ジュードは金縛りにあったように一歩も動けず、それどころか息を吸っているのか、吐いているのかさえもわからないほど混乱していた。
わかるのは、目の前の母の微笑みが、今まで見た中で一番美しいという事だけだった。
その男は突然歩くのを止めると、ゆっくりと剣を掲げた。
ジュ―ドは思わず身を固くしたが、男は躊躇う事無く、目にも止まらぬ速さで自分の喉を掻っ切った。
ジュ―ドの目の前で、噴水のように血を吹き出しながら、やがて男の体は倒れた。
小さなジュ―ドを、恐ろしいほどの静寂がこれでもか、と包みこんだ。
自分の息遣い、立てる物音にいちいちビクつきながらなんとか立ち上がると、赤黒い液体を流し続ける男の体をそっと見下ろした。
禍々しく光る剣を握る男の手には手袋がはめてあり、返り血をはじいて幾つもの小さな血の玉を作っていた。
倒れた瞬間にそれは少しずれたらしく、皮膚が薄っすら覗いている。
しかし、そこも普通の肌の色ではなかった。
他の瑞々しく光る血とは違い、乾いている古い血の染みがこびり付いているかのように、赤黒くなっている。
しかし、それは血の染みではなくその男の腕を呑み込んだ、痣だったのだ。