カタルシス
□1.溺欲
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「おいコラ……なんでてめぇがそこから降りてくるんだ?」
下に降りた途端にゾロは一番面倒な男と出くわした。
そして、今一番会いたくない男でもある。
無視して通り過ぎようとしたが、どうも、そうはさせてくれないらしい。
納得いく答えを聞かないと通させないとでも言わんばかりに道を塞いでいる。
「……てめぇこそ、なんでこんなとこにいるんだ?」
「うるっせぇ! 俺は愛しいナミさんの声が聞こえた気がしたから来たんだよっ!! こっちの質問に答えやがれっ!!」
「関係ねぇ……」
ゾロは強引にサンジの横を通ろうとしたが、即座に肩を掴まれる。
「てめぇ……まさか、ナミさんに何か……!?」
「……」
普段野獣と言われている自分に対して、それと同等の殺気を放ち出したサンジと目を合わせないまま、ゾロはその手を振り解いた。
「終わった事だ」
「!?」
そのゾロの言葉に、サンジは身動きが取れなくなった。
吐き捨てるようなその呟きは、一切の感情が読み取れないようであり、それでいてどこか悲哀めいたものがこもっているようにも聞こえたからだ。
それはまるで、ゾロの方が傷つけられたというような。
真逆の事を考えていた自分にとっては、思いがけない、衝撃的な言葉であった。
そのまま去っていくゾロの背中をただ見つめながら、サンジは今朝のナミの様子を思い返していた。
ナミが甲板に出ると、ここからでも聞こえるような鼾が響いていた。
「……」
まぁ、いつもの事だ。
ナミはやれやれ、と言うかわりに大きく息を落とすと、見張り台まで手早く登った。
「ちょっと! 起きなさいよっ!!」
「んが……?」
その犯人は予想通り、大口を開けて脱力しきった顔を晒していた。
「ふあ〜っ! ……朝か。おう、ナミ。どうだった? 海の様子は……」
「あんたがそれを見張るんでしょうがっ!!」
「ははっ! 悪ぃっ! 寝ちまった!!」
「……まったく」
ナミは苦々しい顔をしながらも、その屈託のないルフィの笑顔に心が軽くなるような気持ちだった。
この場所には心地よい風が吹いており、朝の新鮮な空気が全身を洗ってくれている。
もう一度欠伸をしているルフィを見ながら、ナミはいつものように笑っていられる自分にほっとした。
「なぁ、飯まだか?」
「……あんたはホントにそればっかね」
「あ! お〜いっ!! サンジーっ!! 飯ーっ!!!」
「え……?」
ナミは一瞬どきっとして下を見た。
サンジがちょうど出てきた所のようだった。
視線が交差しただけで、なんだかくすぐったい気持ちになる。
しかし、サンジはすぐにそれを逸らし、目を伏せた。
「……できてるぞ。中に入れ」
「よーっしっ!! 飯だ! 飯!!」
「……」
大喜びで下に降りていくルフィを追いかけながら、ナミはサンジの態度に少々違和感を感じていた。
「はい、ナミさん」
「ありがとう……」
食事の間はサンジはナミにいつもと変わりない態度で接していた。
「なぁ、ゾロは?」
「どうせまた修行か寝てるかだろ?」
「……」
ナミの心がちくりと痛む。
自分が楽になりたくて縋ったというのに、結果を見れば、ただ闇雲にゾロを振り回して傷つけたのだ。
部屋を立ち去る前のゾロの言葉が頭を過ぎる。
自分が求めているのは一体何なのだろう。
それがわかれば、また心から笑えるようになるのだろうか。
夜の闇に、怯えずに済むのだろうか。
「はぁ〜っ釣れねぇな〜。おい、ウソップ! 場所変わってくれよ!!」
「やなこった! 大体お前、場所変えたって釣れねぇもんは釣れねぇぞ! 要は腕よ! 腕!!」
いつものように和やかな二人を見つめながら、ナミは、いっそ自分も男だったらよかったのに、と考えていた。
そうすればその弱さに付け入られる事もない。
そして、人を傷つける事も。
「……」
その時、まだ眠そうなゾロが出てくるのが見え、ナミは小さく息をのんだ。
しかし、今朝言えなかった謝罪や感謝の気持ちを、きちんと言葉で伝えておきたかった。
ナミは、少し重たく感じる足を進ませ、ゾロにゆっくりと歩み寄ろうとした。
「おいコラ! てめぇか!? 連日酒瓶空にしてやがんのはっ!?」
その時、サンジが物凄い剣幕で中から飛び出してきた。
「あぁ?」
ゾロは未だ呆としている頭をかきながら、サンジの方を面倒臭そうに振り返る。
その時少し強い風が吹き、甘い匂いが鼻先を掠めた。
それは、その匂いよりも甘い記憶を、瞬時に沸き立たせた。
「……」
少し離れた所にいるナミが、何か言いたげにこちらを見ている事に気付く。
ゾロはそれを確認すると、未だ文句を連ねているコックの方に視線を戻した。
「ケチケチすんじゃねぇ。……てめぇは主婦か」
「な・ん・だ・と・コラーっ!! てめぇは朝からコトコト煮込んでスープにすんぞっ!! コラァ!!」
「……」
ゾロは、いつもと変わりないように、自分を庇ってくれた。
ナミは二人のやり取りを遠くに聞きながら、一層増す胸の痛みを感じずにはいられなかった。
サンジがぶつぶつ毒づきながらその場を離れていった後、ナミはゾロにそろりと近づいた。
「ゾロ……あたし……」
「覚えてねぇ」
ゾロは、ナミに背を向けたまま、いつもと変わりない口調で言った。
「……え?」
「もう忘れたっつってんだ。……だから、てめぇも忘れろ」
「ゾロ……」
ゾロの表情は見えないままだったが、その声音はいつもと変わりない、優しさを含んでいた。
→2.優欲