Stalk
□2.そして、真実へ
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「う……」
あたしは手首の硬く冷たい感触に目を覚ました。
薄暗くじめじめとした部屋に、小さく金属音が響く。
「気が付いたか……?」
「!」
暗がりから聞こえるものは、つい先程まで愛しいとさえ感じていた声だった。
「ゼ……ル……!」
あたしは咄嗟に身を捩じらそうとして、鳩尾の辺りに鈍い痛みを感じる。
どうやらあの後、豹変したゼルに気絶させられたようだった。
あの冷たい笑みを垣間見た後の記憶が曖昧だ。
手首のひやりとした感触はもちろん、錠か何かだろう。
あたしは一番踏み込んではならなかった男の手によって、監禁されたに違いない。
ゼルはあたしに背を向けたまま、門番のように部屋の隅に立ち尽くしている。
「どうして……」
やっと出た自分の言葉に、馬鹿馬鹿しさを感じた。
それはゼルも同様だったようで、呆れたように吹き出すと、やっと顔をこちらに向けた。
「どうして? だと……」
あたしの視界ぎりぎりに映るその顔自体は以前と変わらないようにも見えた。
しかし、それにいつもの爽快な笑顔は勿論ない。
「くく……どうして殺したのか……なんて、聞くなよ? あれは、ただの解剖だ」
「なに、言って……」
「医学の向上の為には仕方ない事さ。……お前も医者の端くれならわかるだろう?」
「……」
気持ちが悪くなるような胃の痛みを堪えながら、あたしは先程から鼻をつく匂いの正体を考えていた。
「見様見真似でやっても追いつけないんだ……。どうしても、あの人には……」
ゼルはどこか残念そうに、それでいてうっとりと陶酔するように、目を閉じた。
あたしは必死に顔をゼルの方に向けるが、自分の拘束されている腕が邪魔で、肩から上の辺りを視界に捉えるのが精一杯だった。
「あの人は……キャプテンはそんな事しない……!」
「……」
あたしの懸命な訴えは、彼の神経を逆撫でするのに打ってつけだったようだ。
ゼルは目を見開くと、表情を一変させ、体ごとあたしに向き直った。
「なぜ、そんな事が言える? お前は知ってるのか……あの人の『死の外科医』たる由縁を……」
「あなたは、医者なんかじゃない……!!」
「!」
ゼルがゆらりとこちらに近づいてくるのが見え、同時に今まで彼が立っていた床に、何かが転がっているのが見えた。
徐々に近づいてくるゼルから発せられるものによって、あたしの嗅覚に染み付いた記憶が脳を刺激する。
「はっ……!」
転がっているのは、先程すれ違った女だった。
ローと船から出てきた、あの女だ。
その芳しい匂いは、すでに目の前まで近づいてきた男から発せられている。
「……殺したの!?」
ゼルはちらりと後ろを振り返り、例の笑みを見せた。
「ふっ……そうだ。解剖はまだだがな……。まぁ、あの女はついでだ。後でゆっくり全てを取り出してやる……」
「!?」
気が付くと、彼の手には注射器らしきものが握られている。
「俺がずっと殺したかったのは……お前だよ、ルー」
「なっ……!」
ゼルは血の気をすっかり失ったであろうあたしの頬にそっと触れ微笑んだ。
あたしはその感触に込み上げてくるような吐き気を覚え、身を硬くする。
こんな人間の手さえ、温かいのだ。
信じ難い事だが、血が通っているのだ。
「なぜ……」
「ふん……また質問か? ……まぁいい。俺は、俺が崇めた神といつしか同等に、いや、それ以上になりたいと切望するようになった」
「……」
「しかし、何を量りにかけても、追い越すどころか、決して超えられないと無力感に打ちのめされるのみだ……。だから、お前に近づいた」
「え……?」
「気づいていないのか。あの人がどれだけお前を大切に想っているのかを……」
「そんな……」
「お前みたいな女の何がいいのかは知らん。だが、大事に想い過ぎて手も出せないときてる……」
「……」
あたしの脳裏に、数々のローの不可解な行動が思い出される。
あれは気紛れか、もしくは単純にあたしをからかっているだけだと思っていた。
「だから俺が奪おうと思ったんだ! あの人の大事なものを! そして、奪った挙句に滅茶苦茶に壊してやろうと!!」
「!!」
「まぁ……少し予定は早まったがなぁ……。仕方ない。お前は、自ら死への階段を駆け上がったんだ!」
「うっ……!」
その時、拘束されている腕に刺すような痛みが走る。
「何を……」
「安心しろ。これは麻酔だ……。気持ちよく眠っている間に、お前は人で無くなる……」
「……い……やっ……!」
自分でも今さら無駄な事はわかりきっているが、やはりあたしは抵抗せざるを得なかった。
冷たく痛む手首から、悲しい金属音だけが鳴り響く。
「せめてもの愛情だ……痛みなく殺される事に感謝しろよ」
「くっ……」
あたしは、すぐに無くすであろう意識を懸命に奮い立たせた。
しかし、嘲笑うかのようにじんわりとぼやけてくる視界の端には、ゼルの手に握られているメスの、鈍い光があたしを照らす。
どうやら、意識を失ったと同時に、彼曰くの『解剖』が行われるようだ。
あたしは次第に狭くなる視界に代わり、忍び寄る暗い絶望の影をひしひしと感じていた。
何度か感じたことのあるこの感覚は、今度という今度は必死に抗っても無駄なんだ、と自分に知らしめる。
きっと、あたしはここで死ぬのだろう。
しかし、今まであたしのやってきた事は一体何だったのか。
深い後悔の念と、自分の浅はかさが感覚の抜けていく胸に染みる。
今までと同じように、信じていればよかったのだ。
愛していればよかったのだ、あの人を。
あたしは目を開けているのも億劫になり、ゆっくりと閉じようとした。
その時、あたしが奏でるのとはまた違う金属音が響き、途端にゼルが嬉しそうに顔を歪めるのが薄っすらと見えた。
「ここか……」
あたしの耳に、呆れるような小さな溜息と共に懐かしくさえ感じられる声が届いた。
「よく辿り着いたな、キャプテン……」
「ふん……勘違いするな。俺が、お前を、つけてたんだ」
トラファルガー・ローは二人の女を交互に見ると、その瞳に暗い力を宿したまま笑った。
「なかなか尻尾を掴ませなかったが……医者ごっこは終わりか?」
「あぁ……後は、あんたの大事な女をヤルだけさ……」
「……」
あたしはもう目を開く事も唇を動かす事もできない。
二人の声も半ば途切れがちに聞こえる。
しかし、あたしは安心していた。
あたしがもしいなくなったとしても、あの人はきっと大丈夫だと。
「随分、楽しかったようだな……」
ローが静かに刀を抜く音が聞こえる。
「何を言ってる……俺は、あんたのやりたい事を代行したまでさ……」
ゼルも同様に、剣を抜いた。
「……メスを返してもらおう」
静かに渦巻く二人の殺気を子守唄のように感じながら、あたしの意識は、そこで完全に途切れた。