Stalk

□1.suspicion
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「キャプテン……」

「……」


目と口に交互に視線を這わす度に、睫毛がゆらゆらと動く。

片方だけ触れていた頬はいつの間にか両手で包まれ、あたしはその観察するような視線から逃れる事はできない。

次第に近づくその瞳には、困惑した表情の女が映り、あたしはそれから目が離せなかった。

しかし、唇が触れるか触れないかの所で、扉から無遠慮な音が部屋に響いた。


「おい、ルー! 大丈夫かぁ!?」

「!」


その扉はまたしても返答を待つ事なく、大きく開かれた。


「おい……って、うおっ!! キャプテン!!」

「あぁっ! 何やってんすか、あんた!!」

「……」


そこには数人の仲間が、なぜか酒の瓶を持って立ち尽くしていた。

慌てた一人がそれを思わず床に落としそうになる。

どうやら、皆酔っているようだ。


「……診察だ」


しかし、驚く皆に振り返るような事はせず、ローは相変わらずあたしから視線を外さない。

あたしは呼吸する事も叶わずに、ローの温かい息を何度も唇に感じた。

その時、頬を包む手が離れたのと同時に、あたしは縛り付けられていた視線からすっと解放された。


「……」


あたしは皆に聞こえないように少しずつ息を吐き出すと、ベッドから離れたローの背中を見た。

さすがに表情は見えなかったが、扉に向かって歩くその足音は、入ってきたときよりも大きく聞こえる。

その音を聞き、この人は本当にあたしの体を心配して来てくれたのかもしれないな、と思った。


「じゃあな……。明日、出航だ」

「え……」


ローはそれだけ言うと部屋の外に皆を押し出し、扉を閉めた。

静寂が戻った室内に取り残されたあたしは大きく息を吐き出したが、それでも、唇に残る熱だけは消せなかった。






出航の朝、町中は昨日の件が尾を引き、活気を取り戻せないままだった。

あたしはそんな人々の顔を眺めながら、また脳内を占めそうになる色を懸命に追い出す。

逃げるように船に乗り込むと、中に入った途端、誰かとぶつかりそうになり、慌てて顔を上げた。


「元気そうだな……」

「……キャプテン」


いつもと変わらず、あたしはどこか冷めたような瞳を見つめたが、それはすぐに興味がない、とでも言うように逸らされた。

去っていくローの背中に、昨夜の事は一体なんだったのか返答を求めたが、それは何の答えも見出せぬまま次第に遠くなっていく。

ただの気まぐれだろうか。

あたしはローの事は船長として尊敬している。

戦闘や医術の腕も認めている。

しかし、一人の男としては、どこか踏み込めずにいた。

しばらくあたしの心を占拠している不透明な思いは、いつも間にか、トラファルガー・ローという男を完全には受け入れられない枷となっていた。


「ルー! 具合悪かったんだって?」

「……ゼル」


表情が冴えないあたしに向かって、その男はいつも通りの晴れやかな笑顔を向けてくる。

ゼルは歳も近く、この海賊団の中では、あたしが心を許せる人間の一人だった。


「うん……。でももう大丈夫よ」

「ホントか? キツくなったらすぐ言えよ!」

「ありがと……」


ゼルの笑顔を見ていると、肺の中のじめじめとした空気がするりと抜けていくような気がする。

あたしはローとゼルの背中を見比べ、こんなに対照的な人間が存在するのかと、密かに感心した。





「なぁ、ルー! これ食ってみろよ!」

「……」


正直、まだ食が進む状態ではなかったが、ゼルがあまりにも屈託のない笑顔を向けたので、つい口を開いてみる。


「……おいしい」

「だろ? 俺が釣ったんだこれ!」

「……」


あたしの味覚を左右しているものは、目の前の魚ではなく、彼の笑顔に他ならない。


「こいつ、ルーが元気ねぇからうまい魚食わすんだって、張り切ってたからな!」

「あ! おい、言うなよっ!」


途端に慌てる彼を皆は一層冷やかした。

あたしも気づくと自然に笑っていて、久し振りに心に穏やかなものが広がっていくのを感じる。


「おいトゥルー、……酒」

「……あ、はい!」


そんな中、一人淡々と飲んでいたローの目の前の酒が空になっていた。

今度はあたしが慌てて酒を取りにいく。

その時、突如船が大きく揺らめいた。


「きゃっ……!」


一人立ち上がったあたしは大きく体勢を崩し、壁にしたたかに打ちつけられた。


「おい! なんだっ!?」

『悪ぃっ! 浮上した瞬間に海軍に会っちまった! 』

「なにぃっ!?」

『大丈夫だ、再度潜水するっ! 』


船は再びしばらく揺れると、また静かになった。


「なんだよ……びびったな」

「おい、ルー! 大丈夫かっ!?」

「う……」


座り込んだままのあたしを、ゼルが優しく抱き起こした。

美味な魚の味で満たされていたあたしの口腔に、薄っすらと血の味が混じる。

どうやら、唇を切ったらしい。


「大丈夫か……?」


心配そうに覗き込むゼルに、平気、と言おうとしたが、それは言葉になる前に掻き消された。

いつの間にかゼルを押し退けたローがあたしの頭を掴み、ぐいっと引き寄せる。


「あ……」

「!」


痛む唇に、熱を持ったローの舌が這う。

それはぐりぐりと執拗にその部分を責め立て、あたしは堪らず身を捩じらすが、しっかりと押さえつけられて逃げる事は叶わない。


「ん……んん……!」

「はぁぁっ! キャプテーンっ!!」


突然の事態に、先程船が揺れた時をも凌ぐ皆のざわめきが耳に届く。

皆の、ゼルの目の前でこんな恥辱を受け、あたしは頭から蒸気が出るほどの思いだった。

そんなあたしに構う事なく、ローの舌は唇の表面に留まらず、歯列を割って、口腔にまで侵入してくる。


「ん……!」


ローはあたしの口腔に広がる血を、一滴たりともそこに留まるのを許さないように、舌で丹念にすくい上げた。

これははっきり言って公然でキスしているようなものだ。

いや、キスそのものだ。

しかし、解放されてふと目を開けると、視界の中のローの瞳はいつもと変わらず、沈着とした色を携えている。

あたしは今された事よりも、そんなローの態度に大きく衝撃を受けた。


「何やってんだぁっ!? キャプテーン!!」

「……治療だ」

「って、またかよっ!」

「医者の特権だな!」


ローは最後に自分の口元の血をぺろりと舐めると、あたしの方は一度も振り返らずに席へとついた。


「……」


ゼルは半ば呆然と、あたしとローに視線を送る。

あたしはその視線にいた堪れなくなって、その場から走り去った。
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