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俺はある島に立ち寄っていた。

ここに上陸するのは予定には無い事で、予定外な行動を取るのは自分としては珍しく、思い当たる事といえばいつもより疲れていた。また、単に時間的な余裕があったせいもある。

一方的に指定された期日どおり仕事をこなさなければならないのも嫌なものなのに、今回に限ってはそれよりも早い。つまり、仕事にあてるはずだった時間が大いに余った状態で、このまま何もせず帰るのが癪だったわけだ。

疲れを散らすのと、子供じみた反抗心をほんの僅か満たす目的で、何気なく立ち寄った島だ。だから、特に何もする気はなかった。戻るまでに積荷は十分足りるだろうし、必要な器材も揃っている。

ある程度島内を回ってみたが、どこにでもあるような小さな町に興味を引くものも欲しいものも無く、延々とのどかな風景が広がっているのを見て、やはりこの島は気分転換には向かないと察した。あまりにもやる事が無い状態が続くと、考えなくてもいい事を考えて逆に疲れるからだ。

船に戻って本でも読むかと考える。

こんな時は読書に没頭すると気分が優れた。その内容が難解であればあるほど、理解できた時の爽快さは得も言われない。

疲弊している時ほど読書の虫になっている事実を知った人間から、よく不思議そうな顔を向けられるが、自分としては知識を深められて時間も潰せる合理的な方法だと自負している。


「――どうしたの?」


その時、聞き覚えの無い声が後方から発せられたのをきっかけに、俺は足を止めた。

聞き覚えが無いにも拘わらず足を止めたのは、それが自分に対して発せられたものだとすぐに気付いたからだ。振り向いた先にいた女は、一歩ほどの距離を開けて俺の肘あたりを指先で摘んでいた。

声を掛けてきたわりに俯いて目を合わそうとしない女の視線を辿れば、掴まれた服の裾から覗く自分の手首が見えた。そこからは血が一筋流れている。これは先の戦闘で受けた傷ではあるが、治療するまでも無いと判断して放置していた代物だ。実際痛みは感じない。


「痛そうね……」


そう言った女は心の底から憐れむような面持ちだが、その反面、未だ乾ききっていない生々しい傷を臆する事無く観察していた。時折眉は寄せられるものの、冷静な眼差しが傷をゆっくりと舐めていく。

俺は咄嗟に同類の匂いを嗅ぎつけて、不快さに顔を顰めた。


「放せ」


強く振り解かなくとも女の手はすぐに離れた。最初から軽い力で摘んでいたのは知っている。出血は服の中から流れているから、どこから続いているかわからない傷に万一障る事がないよう配慮したのだろう。

恐らく、この女は何らかの形で医療に関わっている。自分と同じ医師であるかもしれない人間にこの傷を見られたというだけで、俺に言いようの無い苛立ちが募った。

ゆっくり見上げてきた女に敵に向けるような厳しい視線を返したが、それを真っ向から受け止めた瞳は意外なほど穏やかである。こんなやり取りに慣れているのかどうかは知らないが、その落ち着き払った態度に俺はますます不愉快になった。


「放っといたら酷くなるわよ?」


厳しいものを崩そうとしない俺に対して、女は情に訴えるような言い方をしてきた。面倒臭さに息が漏れる。この手のしつこそうな女はシカトするのが最善だと、何か返答する事は避け、俺は背を向けてまた歩き始めた。

踏みしめた足に余分な力が入っているのを感じる。無意識に早足になっているのは、発散できない怒りがずっと渦巻いているせいだろうか。

見知らぬ他人に触れられた事に腹が立った。だが、無防備に触れさせてしまった事についてはもっと腹が立っていた。

自分の見てくれは大よそ一般人のそれではない。自らの背丈ほどもある刀を担ぎ、戦闘で浴びた返り血も特に拭う事はしなかった。つまり今の時代、誰が見ても海賊だと思える風貌を備えているにも拘わらず、こんな小さな島の若い女が容易く触れられるような隙を作ってしまった事に、無性に腹が立ったのだ。

そんな隙を生み出したのは恐らく疲れから来るもので、いつもより疲れているのは、やりたくない事を強いられたせいだ。

それはいつもの事といえばそうだったが、今回は任務遂行とは別に奴の思惑をひしひしと感じさせられたのが特に苦痛だった。やりたくない事を無理強いする行為自体が俺に対する嫌がらせであり、腹に抱える反抗心を捻じ伏せようという意図で下された命令だというのはわかりきっている。

そこまでわかっていながら結局は従わざるを得ない俺に、ドフラミンゴはさぞかし満足しただろう。航海中から奴の笑い声がしきりに頭の中を木霊していて、それが体力ならびに思考力を地味に奪っているのだ。

俺は決してあの男が怖いわけではない。だが、物事にはタイミングというものがある。今は反旗を翻す時期じゃないと思った。それだけだ。

だから、このままでは終わらない。俺は奴を利用するだけ利用していつか手酷く裏切ってやると、今回の事でより強く心に刻んでいた。


「……ついてくるな」


しつこくついてきては傷を見ようとする女を睨み付け、俺は再び背を向けた。やはり、こんな島に立ち寄るべきではなかった。疲れを散らすどころか、ますます疲れる一方だ。だが、こちらの思惑などお構いなしに、女は着かず離れずといった一定の距離を保ちつつ、絶えず声を掛けてくる。


「ねェ! もし小さな傷だったとしても、甘く見ない方がいいわよ? 化膿したら大変、」

「だったらなんだ? てめェに関係あるか」


重くなった気持ちを吐息に乗せ、軽く駆けたぐらいでは追いつく事ができないであろう速度で歩き始めると、女との距離はすぐに開いた。これは見た目の距離だけではなく、気持ちについてもそうなるだろうと踏んだ上での行動だったが、女は負けじと一気に駆け出すと、驚くべき事に飛び掛かるかのような勢いで俺の服を掴んできたのだ。


「――あるわよ!」

「ッ、」


僅か動揺させられた瞬間、その波立った心を覆い隠すようにして、仄暗い殺意が浮かび上がった。

人と喋る事自体億劫で、クルーとも別れて単独行動していたぐらいだ。普段なら女に手をあげようかなど考える事すら無いが、それ以外の方法でここから抜け出す術に疑問さえ感じ始める。理性的に考えるのは避け、原始的な本能にあっさり流されたくなるほど、この時の俺は苛立っていたというしかない。

こんな時、正常な思考は自然と潰れて平らになって、まるで最初から存在していなかったかのようになる。――人を殺す時はいつもこうだ。

俺は非常にゆっくりとした動作で向き直ると、初めて正面から女を捉えた。

年の頃は自分と同じかそれ以下だろうか。化粧気の無い顔は幼くも見えるが、意志の強そうな瞳の奥に冷静なものが鎮座しており、それがこの女を大人びて見せているようだった。

無言のまま手を伸ばすと、女の顔はぬうっとした黒い影に覆われた。変わらず俺を射抜いていた瞳が僅かに揺れる。自分からしてみれば随分と小さく、敵でもなければ武器も持っていないただの女が、確かな怯えを見せている。そんな、か弱いといえる人間に対して、自分が今から何をしようとしているのかはわからなかった。俺の思考はすでに無になりつつあったのだ。

だが、女が怯えを浮かべたのは一瞬だけで、凛とした表情を崩すまでには至らなかった。それどころか、女は服を掴む手にますます力を込め、声を一段と張り上げてきたのだ。


「関係……あるわっ!! 私は医者なのよ!? 怪我してる人をこのまま放っておけるわけ無いじゃない!!」

「なんだと……?」


やはり医者だったかと頷くよりまず、当然だというような女の物言いに、それ以上言葉が続かなかった。この女は、医者というものが誰にでも救いの手を差し伸べる、神のような存在だとでも言いたいのだろうか。

医者であると同時に海賊という肩書きがある自分には、そんな博愛的な考えは皆無だ。損得を念頭に置き、救うべき者は救い、消すべき者は消す。時に気紛れに行動する事もあるが、そういった場合でも多少なりの計算は捨てきらない。

自らに危害を加えてくるかもしれない海賊の、しかも、命にかかわらないような傷に固執するのは賢いとはいえず、損得で考えるなら明らかに損だ。リスクを背負ってまで誰かを助ける行為など、極めて無駄で愚かしいという考えの俺にとって、真摯に発された女の言葉は、まるで知らない言語のような響きをもって胸を冷たくすり抜けていくだけだった。

だが、浮かびかけた殺意を霧散させるにはうってつけだったようだ。


「ほら、行くわよ?」


医者と聞いて観念したとでも思ったのか、女は先ほどよりも無遠慮に服を引っ張り始めたが、俺はもう一度手を振り解く事や、否定的な言葉を発する事はしなかった。

殺意という名の靄が消し飛んだ自分の頭は、ようやく気付く事ができたのだ。自らの行いが正しいと信じて疑わない女に、抵抗したり言い返したりするのが、最も無駄で愚かしい行為であるという事に。











「ユヅキよ」


突如降ってきた言葉の意味を問う為に女を見上げる。


「私の名前。……嫌でしょ? 名前も知らない他人に治療されるのは」


名を知ったからって他人の領域から出る事にはならないがと思いつつ、とりあえず自分も名乗るべきかと考えた。 


「ローだ」

「ああ……。よろしくね、ロー」


俺が名乗った途端、ユヅキという女が嬉しそうに笑んだのを見て不可解な気持ちになりながら、それ以上深く考える事はしなかった。この女については、最初から理解しがたい事ばかりだ。

案内されたのはさほど歩かずに済む距離にあった女の家だった。この室内及び家屋には他の人間の気配は無く、しんとした静けさと手元から伝わる消毒液の匂いが、いかにも診療所といった雰囲気を醸し出している。

病院ではなく診療所だと思ったのは、入院が必要な患者を受け入れるべきベッドの数があまりにも足りないのを見て取ったからだ。自宅をそのまま診療所という名目で使用しているらしく、今居る部屋以外は一般的な住居のそれと変わらない。


「はい、おしまい」


ぽんと膝を叩かれ、室内を見渡していた目を自分の手元に戻す。もう少し時間がかかるだろうと予想していたが、腕にはすでに包帯が巻かれた後だった。

女の医者というのは大抵、男よりもどこか大雑把なものだが、迅速で細やかな配慮が十分行き渡った処置だと感じた。簡単に巻かれたように見えた包帯はきつくなく、それでいてずれる事は無い。固定する目的でしっかりと巻く場合もあるが、この程度の傷を覆うのはこれがベストだという絶妙な加減だ。簡単な処置だからこそ透けて見える手腕と人柄に感心して、俺は思ったままを簡潔に述べた。


「――うまいな」

「え……?」


そんな事を言われるとは思ってもいなかったのか、ユヅキは目を丸くして俺を見返した。


「どこで習った?」

「ああ……父よ」


そう言ってユヅキは棚の上に飾られた写真立てを見上げた。何年か前にこの家の前で撮影されたもののようで、今よりも少し幼いユヅキと肩を組んで微笑んでいる人物が父親らしい。よく見れば同様の写真が幾つか並んでいるが、どれも父と娘の二人しか写ってはいないようだった。


「母は……私が生まれてすぐに亡くなったの」


俺の思考を読み取ったらしいユヅキがぽつりと言った。


「元々身体が弱かったらしくて、私を産むのは無理だって言われてたみたいなんだけど……」


語る声の調子は今までと変わらず明るいままで、表情に寂しさや悲しさなどは浮かべていない。恐らく、この話を聞かされた時にみせる人間の反応にこの女は慣れっこなのだ。要するに、暗い雰囲気にならないように気遣っている。

だが、懐かしそうに微笑んだ顔から、かえってもの悲しげなものが感じられた。


「俺にそんな話をする必要はない」

「あ……、そうよね。ごめんなさい」

「……お前だけじゃねェ。今の時代、親兄弟がいない奴なんてごまんといる」


吐き捨てたように言った俺の言葉に、ユヅキは一瞬だけキョトンとした後、急に笑い出した。


「もしかして……慰めてくれてるの?」

「珍しい話じゃないと言っただけだ」

「ふふ……そう。あなたってやっぱり優しいのね」


ユヅキがそう言ってとても柔らかく笑んだので、俺はまた言葉を失った。だが、医者だから怪我人を放っておけないと主張された時とは、まったく違う形で俺の言葉は遮られていた。

ユヅキが見せたのは、親しい友人に多大なる感謝を示す時や、愛する者に対して溢れる気持ちを抑えられずつい出てしまったかのような、そんな情愛に富んだ笑みだったからだ。

なぜそのようなものを、俺という人間に対して躊躇無く差し出せるのか甚だ疑問ではあったが、それよりも解せない点が先に俺の頭を占めていた。
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