カタルシス

□1.溺欲
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時折、無性に体が疼く。

そんな自分に吐き気を催しながらも、完全に否定する事はできない。

だって、わかっている。

こんな醜い自分も、本当の自分であるという事を。


「……!」


月明かりが差し込むだけの静かな空間で、ナミは飛び起きた。


「はぁ……はぁ……」


次第に目が慣れ、広がる視界はいつもと同じ風景だ。

それを確認した途端、安堵の溜息を大きく吐き出す。

いつもより肌寒いというのに、汗がぐっしょりと滲み、体に衣服が張り付いていて不快だ。

呼吸を整える為、再度大きく息を吐き出すと、ナミは髪を掻きあげようとして、頭皮も濡れているのに気付く。


「……」


そのまま髪をぐしゃりと掴むと、半ば面倒臭そうにベッドから足を投げ出した。

ゆらゆらと脳が揺れるのを無視しながら、足元の方は慎重に力を入れ、ゆっくりと立ち上がる。

そこらにあるタオルなどを適当に腕に引っ掛けながら、ナミは不快感を拭い去る為にシャワールームに向かうことにした。




もう、終わったというのに。

未だに体は覚えている。

あの終わりの見えなかった恐怖と絶望を。

断続的に聞こえる水音の中、ナミは過去の暗闇の中から未だ抜け切れていない自分を心底歯痒く思っていた。


「ふぅ……」


しかしシャワーを止め、髪の毛を乾かす頃には、心地よい温かさのお陰で、変な熱は冷め、ナミは少し気分が良くなった。

甲板に出て風に当たれば、一層気分が晴れるかもしれない。

そんな思いから、静かな夜の海へと導く扉に手を掛ける。


「ナミ! お前何やってんだ?」

「!」


突如声をかけられ驚きつつも、ナミはほっとした。

そこには、一番安心できる人物がいたからだ。


「ルフィ……。起きてたの?」

「いんや! ウソップから見張りしろって今叩き起こされた」


そう言うと、ルフィは盛大に欠伸をしてみせる。

心底力の抜けきったその顔は、ナミを蝕んでいるものからいつものようにほんの少しだけ救い上げてくれた。


「……」


ナミはその顔から視線を逸らす事ができず、つい同じ方向に歩を進めた。

外はやはり肌寒く、心地よかった熱をみるみる奪い去る。


「おい、ナミ。ここになんか用事あんのか?」

「え……」


気付くと既にメインマストの下に辿り着いていた。


「あ! もしかして見張り、代わってくれるのか!?」


ルフィは途端に期待を込めた笑みを向けてくる。


「……」


屈託のないキラキラとした笑顔だ。

それには見え透いた計算も、邪心も一切ないのがわかる。

この笑顔を自分だけの物にしたい、という御しがたい思いが胸の奥から込み上げそうになり、慌てて目を伏せた。

自分はというと、ある程度意識して笑顔を作ってきた。

いつでも笑顔を忘れないように、というのは亡くなった養母の教えでもあるからだ。

そして、それのお陰で乗り越えられたものも、確かにある。

しかし、それは諸刃の剣であるかのように、ナミの心を悪戯に追い立てる時もあった。


「なぁ、どうなんだよ?」


ルフィは相変わらずにこにことしたままだ。

ナミはそれを直視しないように、いつもと変わらない声音を作った。


「……代わんないわよ」

「ちぇ! やっぱダメか!」


少し拗ねたような、残念な顔をしてみせると、ルフィは見張り台まで腕を長く伸ばした。


「あ! 待って、ルフィ!」

「んあ?」


今にも飛んで行きそうなルフィの肩を、ナミは思わず掴んだ。


「なんだよ! やっぱり代わって……」

「あんたには感謝してるの!」


突然のナミの言葉に、期待を込めていた瞳は一瞬で丸くなった。


「村の事も……あたしの事も……救ってくれた……」

「……」

「だから……!」


掴んでいた手に自然と力がこもり、声が思わず震えそうになるのを、ナミは辛うじて堪えていた。

いつも虚勢を張っている自分とはまるで別人のようなそれが、自分で滑稽に見えた。

まるで純真可憐な少女のようだ。

自分はそれとはまさに、対極の位置にいるというのに。

その時、ルフィの虚を突かれたような顔がまた晴れやかな笑顔へと変わった。


「なんだ、そんなの! 当たり前だろ? 仲間なんだから!」

「……!」


何よりも嬉しく、何よりも辛いその言葉に、ナミは掴んでいた手をつい放した。


「……」

「そんだけか?」

「……うん」


ルフィはナミの様子を気に留めることもなく、じゃあな、とだけ言って一気に見張り台まで飛び上がっていった。






仲間。

自分はきっと、それ以上でも以下でもないのだ。


「ふっ……」


自嘲するような笑いが誰もいないラウンジにひっそりと響く。

わかっていた事だ。

また、これ以上を望むのは贅沢なのかもしれない。

あの悪夢のような状況から這い出せただけでも、奇跡と言えるほどだ。

しかし、それだけではだめだ。

現実に起こっていたものは消え失せ、もう忘れられる、と思った瞬間にあの夢は現れる。

何度も、何度も。

まるで、忘れるのを許さないかのように。


「くっ……!」


ナミは水でも飲むように何度も酒を喉に流した。

しかし、熱くなるのは体ばかりで、頭の芯は麻痺したように冷え切ったままだ。

それでも、味わう事無く酒を嚥下する事を止める事はできない。

一度でいい。

酒に溺れてみたかった。

そうすれば、ぐっすりと眠れるかもしれない。

すぐに空になった酒瓶を忌々しく置くと、キッチンからまとめて何本か酒を持って来ることにした。


「……」


その時、ナミはカウンターの中をちらと確認した。

食器などは綺麗に片付けられている。

サンジがしたのだろう。

という事はもう、朝まで彼がここを訪れる事はない。

少し残念な気持ちで椅子に座りなおすと、新たにグラスに酒を注いだ。

こんな気分の時は、あの軽口にさえ癒されるというのに。

サンジはどんな時もナミにありったけの優しさを注いでくれる。

ラウンジに来たのは、その優しさに触れれば少しは気が紛れるかと思っての事だった。

それほどに、今のナミには余裕がないのだ。

新たに注いだ酒を煽ろうと勢い良くグラスを持ち上げたが、それは口に届く事はなかった。


「やめろ。……酒が勿体ねぇ」

「! ……ゾロ」


その剣士はいつものようにどこか不機嫌そうな表情で、グラスを置きなおした。

まだ自分を警戒しているのだろうか。

この一味を裏切る事は、もうないというのに。

しかし、その時触れた手は、はっとするほど優しく、一瞬だけ気遣うような視線を投げかけてきたのがナミにはわかった。

冷えた頭が熱くなるのを感じながら、ナミは何か言わずにはいられなかった。


「ねぇ……」


すぐにその場を立ち去ろうとするゾロに、ナミは背を向けたまま問いかける。


「酒に、溺れた事はある?」

「……」


その問いに、ゾロは立ち止まると、ナミをしっかり見据えていった。


「ねぇな。……俺は酒に逃げねぇ」

「……!」


痛い所を突かれた、という表情を、悔しさから無理に押し込め、ナミは乱暴に立ち上がった。


「じゃあ……女に溺れた事は?」

「あ?」


今度はナミがゾロを見据えて言った。

少し戸惑うような、それでいて面倒臭そうな顔で、ゾロが小さく息を落とすのが見える。


「……何が言いたい?」

「それはこっちの台詞よ! ……本当は気付いてるんでしょ?」


ナミはまるで喧嘩を吹っかけるような剣幕でゾロに迫った。


「人間を忌み嫌う魚人の中に女が一人でいて……あたしが何をされていたのかっ!」

「おい……」

「あたしが何年もの間、あいつらの……魚人の慰み者になっていたって!!」

「……!」


ナミの目からは自然と涙が溢れていた。


「助けてって言いそうになる度、何度も唇を噛んだわ! ……だって、助けなんか来るはずない……!」

「ナミ……」


ふと見上げると、先程まで迷惑そうにさえ映っていたその顔が真摯なものに変わっている事に気付く。

ナミはゾロを見つめ、ゾロはナミを見つめていた。


「ゾロ……お願い……」


ナミは流れる涙を拭うこともせず、ゾロの首に腕を回した。


「溺れさせて……」
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