Butterfly2

□vol.2 Mirrors
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「何も……ッ」


冷静に言うつもりだったにも拘わらず思いの外声が上擦り、レインはそれを吐き出して後、息が振動する音だけを響かせた。

ロ―に悟られまいとすぐに横を向くが、そんな自分の不甲斐無さに追い討ちをかけるように、顔が熱を持つのがわかる。


「なんだ……普通の女みたいな顔をするな」

「はッ……」


その言葉に顔を背けたまま笑いそうになったのは、まさしくその通りだと、妙に納得させられたからだった。

ロ―の声は幾分柔らかくなっていて、もうこちらが答える事も尋ねる事もできないのを理解して気遣っているように思えた。


「――傷を、見せろ」


今度は素直に従おうと、レインは黙って背を向け髪を横に流してから、服の隙間から右肩を出した。

剥き出しになったそこにロ―の指と視線が滑る。


「これの処置は一通り終わっている……ただ単に安静にしてないから治りが遅いだけだ」

「……そうか」


レインはそれだけ聞くとすぐに肩をしまい込もうとしたが、ロ―の指は依然張り付いたままでそれをやんわりと阻止した。


「他にもあるな、見せろ」


やはり医者の目は誤魔化せないと観念し、レインは小さく息をつくとボタンを外しシャツを背の中程まで滑り落とした。


「なんだ、これは……!?」


レインの背にはあの時受けた傷がまだ生々しく残っていたのだ。


「――別に。ただの戦闘で受けた傷だ」

「戦闘だと……? お前がか。後ろから……こんなに無防備に、か?」


嘘をつくな、とばかりのロ―の口調にレインはまた笑いが込み上げた。

しかし、今度は自嘲するような笑いだった。


「引くだろ? 他にもあるぞ……」


レインの脳裏に居座っている、先ほどの女の背中が思い出される。

陽に一度も当たった事がないのかと訊きたくなるほど白いその背は、骨や筋肉の造形を表す浅い窪みが月光を浴びて更に美しい陰影を作り出していた。

表面が陶磁器のように滑らかで薄っすらと光を纏う肌には勿論、傷など一切見当たるはずもない。

元来、女という生き物はそういうものなのかもしれないな、とレインは思った。

傷など、一つも無いに越した事はないのだ。

しっかりと抱き締めていたゾロの腕から伝った汗がその背をゆっくりと滑っていって、息を呑むほど綺麗だった――。

レインは目を固く閉じた。

痛み続ける箇所を、痛むのがわかっていながらぎゅっと押して、予想通りの痛みに苦しむ。

見たものは消せない。

一旦記憶したものは忘れられないのに。

それでも消したい、忘れたいと思う心に反して、くっきりと詳細な映像は甚振るように流され続けていた。


「多いな……」


中途半端に落ちていたシャツをぐいと引き上げられ、隠れていた肌までがロ―の目に晒される。

ロ―の指は皮膚の上をとても優しく滑っていて、それがなんだかやるせなかった。

どんな風に付けられた傷なのか、きっと見ただけでわかるのだろう。

ロ―の指が微かに震えた直後、それを気付かせまいとするかのようにすっと離された。

重苦しく吐き出されたロ―の息を背中が感じ取ったと思った瞬間、肌に生温かい感触を味わい、頭を支配して止まなかった映像は突如遮断された。


「……ッ」

「この程度の傷ならすぐに消える……望むなら今すぐ消してやってもいいが?」


そう言いながら、ロ―の舌は傷跡の上を奔り続けた。

生温かく濡らされた先から、空気に触れてひやりとしていく肌が妙に心地良くて、すぐに堪らない罪悪感に襲われる。


「ヤ……ッ やめろ……、ロ―……ッ!」


いつの間にか後ろから両腕を押さえられ、抵抗しようとした際に反動で壁に軽く衝突する。


「抱くな、こんな女……ッ!!」


口をついて出た言葉に驚いたのは、自分だった。

この傷は、誇りだったはずだ。

子供達を、延いてはあの男を助けた際に引き換えにもらった勲章だとさえ、自負していたというのに。

いつからこんなに、自分自身を卑下するような見方をしていたのだろう。

戸惑いのあまり体を強張らせたレインとは対照的に、ロ―の方はというとまるで平然としたもので、押さえていた腕を引くと壁から自分の方へとゆっくり反転させた。


「どんな女だ……見せろ」


目を閉じ顔は背けたままだったが、頬に何か伝う感覚に目を開けると、その拍子に落ちたものが床を濡らし、レインは自分が泣いている事に初めて気が付いた。


「見るな……」

「……普通の女みたいな事を言うな」


ロ―は頬にある涙の道まで舌で舐め取ると、そのまま唇を合わせてきた。

久し振りに味わうゾロ以外の男の口付けをどこか虚ろなまま受けながら、レインは先ほど自分の口から吐き出された言葉について紐解いた。

自分自身に妙な劣等感を抱いていたわけではない、と。

誇りを打ち砕くほど、真っ当な思考が簡単に歪むほど、自分の存在が惨めでちっぽけになってしまうほど――。

ゾロを、この上なく愛していただけだ、と。


「……ッロ―……私は……」

「俺が何者か知ってるか」


ロ―はレインをベッドに放ると、一も二も無く覆い被さった。


「――欲しいものがあれば奪う、ただそれだけの事だ」


黙って奪われろ、と、ロ―は更に深く口付けてきた。


「ぅ……ン……!」


しっかりとベッドに縫い付けられた両手首は痛くはないものの、抵抗を許さない圧倒的な力が込められている。

もがけばもがくほどロ―の舌は深く入り込んで、好きに口腔を犯し続けた。

荒々しく舌を弄ってきたかと思えば、傷でも癒すようにそっと付け根を擽ってきて、そのままじっとりと下顎を這い回った挙句、有無を言わさずまた舌を掬い上げられる。

自己に対する嫌悪感と相反して、一枚一枚丁寧に薄皮を剥かれるように、抗う力は奪われていく。

自分は今どんな顔をしているだろうと想像してすぐに覆い隠したい衝動に駆られるが、依然手は拘束されたままシーツから僅かに浮かせる事すらできそうもない。

どうにか逃れようと後頭部を擦り付けて顎を捩ると、ロ―は慌てる様子もなく両手首を一括りにして片手で押さえ、唇を離さないままもう一方の手で顎を掴むという作業を、難なくこなしてみせた。

手首の圧迫が増して血を滞らせ、指先が痺れるように冷えていく感覚に、ロ―の本気を思い知らされる。

あの時もそうだった。

淡々と言い渡す台詞とは裏腹に、その唇はやけに温度が高くて、自ずと熱を移されていた――。

だが、今そんな風に流されるのは絶対に違う気がした。

なすがままにされながらこの拘束から逃れる策を練っていると、ふと、顎を掴んでいた手が喉に滑った。

それは首筋を撫で、鎖骨の窪みをなぞると、流れるような自然な動作で胸の膨らみを捕らえた。


「んン……ッ」


ずくり、と体内を疼かせる熱が、性的な本能を迷わず引きずり出そうとした事に驚いて、レインは目を見開いた。

ロ―と寝るのは初めてじゃない。

でもあの時とは違う。自分を取り巻く環境も、ロ―に渦巻く感情も、まるで違う。

レインは堪らず、貪欲に這い回り続ける舌を噛んだ。


「ッ、」


ロ―が咄嗟に顔を離した反動で力が緩み、レインは手首に血が通うのを感じながら素早く拘束から脱した。

そのまま片手で剣を引き抜き振り上げようとした瞬間、目にしたものにハッとさせられる。

ロ―が笑っていた。

その怒っているような嗤っているような顔に、目が惹きつけられて離せない。


――お前に俺は斬れねェ――


食えない笑みが示唆した通り、剣はロ―の頚動脈に沿ってぴたりと止められた。

ロ―が防いだわけじゃない。

自分の手が、その動作を諦めた。

白刃に映る、ほらな、とばかりのロ―の表情に黙って歯噛みする事しかできない。

ほんの少し、後僅かばかり横に動かせばこの首の皮は切れ、血が吹き出すのだと思うと途端に恐ろしくなって、柄を握る力が緩む。

押す事も引く事もできなくて、剣を差し出した腕は血の通わないただの物のように、その位置で固定されていた。


「来たんだろう……? ゾロはあの場所に……」


細かく震える刃を面白そうに見ていたロ―の顔からさっと笑みが引いて、いつもの冷たい表情を形作った。


「……だから、なんだ。あの男に何をそんなに求めてる――?」

「違う……! 求めたのは――、いつも求めてくれたのはゾロだった! 私を追い、救って……全てを受け入れてくれたのは――……」


チ、と舌打ちする音がして、弾き飛ばされた剣がサイドテーブルに衝突した拍子にびくっと身体が跳ねる。

酒瓶と一緒に置いてあったグラスがごろりと転がって、床に触れたと同時に派手に砕け散った。


「しっかり殺してくるべきだったな……」


目を伏せたロ―から発されたその言葉は聞いた事がないほど低く、ゾッとするような薄ら暗い不穏な響きを含ませていた。


「レイン……」


名を呼ぶ声も、すっと頬を撫でる手もとても穏やかで優しいのに、見下ろす視線に感じるのは明らかな威圧で、首でも絞められているように息を深く吸い込む事が出来ない。

レインが無意識に頬にある手をどかそうとすると、逆にその手を取られてぐっと掴まれ、ゆっくりと、だが、屈服させるような力でベッドに沈められた。

感情が表に出ていたと思った瞳には今は何も浮かんではいない。

自分の愚かさを嘆く女をただ淡々と映しているだけだ。

そう。こんな状態でロ―に会うべきではなかった。

瞳の奥に揺れる炎の存在を認めた時に、きっぱりと撥ね付けるべきだったのだ。

きっと自分は何も変わっちゃいない。

だからこそゾロの気持ちを、迷わせた――。


「ロ―……」

「奴はもうお前を追えねェ」


抵抗してみせろよ、と揶揄かうように柔らかく掴まれたもう一つの手も、押し沈められる頃にはしっかりとした力が込められていた。


「ゾロは必ず来る……」


再び一つに纏められた手首の骨同士が干渉して、みしっと音を立て、筋が圧迫されて指が勝手に折れ曲がっていく。

恐らく痣になるであろうそこの痛みに眉が寄って、呼吸が更に浅くなる。


「こんな事……っ無意味だ……」


ロ―は喉奥でくくっと笑い、息を吐き出すついでに、どうかなァと呟くと唇を耳元に近付けてきた。


「お前の身体なら――……知ってる」


たっぷりと時間をかけて髪を梳いた後、軽く耳朶に口付けると、潤った声の中に乾いた欲を隠しもせず、そう囁いた。
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