触れる手、交わす言葉、繋ぐ心

□7月  -ハプニング-
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日向先生との話が終わってからAクラスを訪ねると、七海さん、音也くん、那月くんはいたのだが真斗くんの姿が見当たらない。

今日はレコーディングテストのみで、授業はないから先に帰ったのかもしれない。そう思ったんだけど、彼ら曰く、教室へと戻る途中で寄りたいところがあるからと言って別れたらしい。

真斗くんが行きそうな場所なんて私にはそう多くは思いつかないんだけど、とりあえず購買、さおとメートへ向かってみた。


(あ、この匂いは…またメロンパン焼きあがったんだな)


学園長も少し前までレコーディングルームにいたはずなんだけど、と心の中で呟く。まったく精力的な人だ。

真斗くんの大好物だし、もしかしたらなんて思ったけれどそこに彼の姿はなかった。でもせっかくだからメロンパンを購入することにした。彼と会えたら、一緒に食べるのもいいなと思ったからだ。

それからも当てもなく学園内を歩いてみたんだけど、一向に真斗くんが見つからない。途中で教室にも戻ってみたけれど、鞄はそのまま置きっぱなしだったから確実にまだ校内にいるはずだ。

再び当てもなく彷徨っていた時、かすかにピアノの音が聞こえた。防音設備の行き届いている教室ばかりなのに、聞こえるなんておかしい。そう思って音を辿っていく。

真斗くんもピアノを弾くから、私が記憶している限りのそれが設置されてある教室は一通りすでに見回っていた。だけど音はそれらがある方向とは、まったく別の方から聞こえる。用事がない限りあまり来ないだろう学園の奥の奥、そこから音は聞こえていた。しかも教室というよりは、


(物置?)


カラリと開けると少し薄暗い。いろんなものがたくさん置かれていているが、それなりに整頓されている。その窓際にグランドピアノが一台あり、そこで真斗くんがこちらに気付きもせず聞いたことのない曲を弾いていた。

彼は趣味程度だと言うが、その腕前はかなりのものだと思う。綺麗で澄んでいて、でもどこか激しく、そして儚い。

その音色に誘われるように私はいつの間にか歌っていた。
集中していた真斗くんは私が入ってきたことなど知らないから、突然聞こえた歌声にビクリと反応するも手を止めることなく弾き続け、そして私の声に合わせて一緒に歌ってくれた。視線だけで私を傍に呼んでくれたので、それに従って彼のところへと歩み寄る。

清らかな川の様な歌声。淀みない、誠実な声は真斗くんの性格そのままに、聞いていると心が癒されるような、ほっこりするような優しい気持ちになれる。


「こんなところにピアノがあったんですね」


最後の一小節まで丁寧に弾かれたその音が、空気に溶けて消えたと同時に話しかける。


「ああ。入学したての頃、その…少し道に迷ってな。その時に偶然この部屋の前に辿り着き、気になって覗いてみたのだ。この様に立派なピアノが何故ここに放置されているのかはわからぬが、調律はきちんとされていた。
それ以来、いつの間にか一人になりたい時にはここに来るようになっていたのだ」


一人になりたい時、通常のレッスンルームでも予約さえ入れておけば完璧な一人にはなれる。だけどそれを使わずにこんな人目につかないような場所に来る理由。一切人の気配を感じ取ることのないここで、真斗くんは何を考えていたんだろう。


「お前の歌はすごいな。俺はこの曲に歌詞をつけようなどとは思ったことはないのだが、サクが歌いだした途端、この曲に命が宿ったように感じた。俺さえも釣られて歌ってしまった」

「すごいのはこの曲だと思いますよ。僕は音色に誘われて歌っただけです。きっと真斗くんの作ったこの曲が歌いたがったのかもしれませんね」


いつか七海さんの曲を聞いた時もそうだった。想いのこめられた曲は、それ自体に強い力があると思う。その溢れ出る想いを歌に、私はただそうしただけだ。

ポロン、ポロンとか細い音で鍵盤に指を滑らせる。周りと切り離されたこの空間でひどく物悲しいその音が、真斗くんの心を表しているようにも聞こえた。


「俺は…すべてを父に決められた人生を歩んでいた。それを重荷に感じ、このままでいいのかと悩んでいた時、一人の少女に会ったのだ」


話をしなければ、そう思って真斗くんを探してはいたけれど、実際にこうやって見つけた今、どうやって切り出せばいいのか私は正直考えあぐねていた。

だからピアノを弾く手を止め話し始めた真斗くんの言葉に、じっと耳を傾けることにした。彼が自分の家のことを自ら語ってくれたことは今までなかったから。


「自作の曲だったのだろうな、けれどとてもいい曲だった。雪が降る中、誰にも見向きもされずキーボードを引き続け、それでも満足そうに曲を奏でる。
好きなことをやっている者はこんなに輝いているのかと正直、愕然とした。言われるがまま、ただ父の望む通りに生きてきた自分の今まではなんだったのかと、情けなくも思った」


彼から直接は聞いたことはないけれど、レンくんからは少しだけ聞いたことがある。大財閥の嫡男ともなれば、生まれた時からきっと道はひとつしか用意されていなかったのだろう。

跡を継ぐことになんの疑問もなく、自らその道を望めれば、なんら問題はなかったんだろうに、真斗くんは疑問に思ってしまった。名のある家の者としてはおかしいのかもしれないけど、一般的に考えれば、誰かに押し付けられた道を進みたいと思う人は少ないと思う。


「やがてひとり、ふたりと道を行く者の歩みが止まり、静かに耳を傾ける。音楽には人の心を動かすものがあるのだと、目の前で思い知らされた。その時の俺の目にはその光景が輝いて見えた。
もともと音楽は好きでな、ピアノもじいに教わった。歌も……妹が、俺が歌うと喜んでくれた。だが俺には決められた道があったから、その光景を目の当たりにしてさえも、それを目指すことなど到底無理だと思っていた」


誰だって夢を持つ。あれになりたい、これになりたい。ああしたい、こうしたい。

そのすべてを抑制されて生きてきた彼の中で、音楽とはまさに心の拠り所だったに違いない。与えられたものだけで構成されている彼の中で、たったひとつ、彼自身が生み出せたもの。


「どうも悩むと誰もいないところに行きたくなる癖があるみたいなのだ。その日もその音楽にいろいろ考えさせられ、無意識のうちに人のいないところへと足が向いていた。
場所はどこだったか忘れたが、この部屋のように誰も近付かず、誰からも忘れ去られたようなそんな不思議な場所だった。


声が……聞こえたのだ」







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