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□《8月29日》
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ふたりで砂をかき分けて、イヤリングを探して少しの時間が経過した。
でも…現実はそう甘くなかった。
『…あ、もう、沈んじゃうね…』
彼女の声に反応して、俺も顔を上げた。
『…ごめん、みつからなかった』
『ううん…いいの』
ふたりして砂まみれになった手を砂から引いて、俺たちはイヤリングを探すことをやめた。
あの時の俺たちはあまりにも子供で、まだ幼すぎた。お互い初対面で、女の子は迷子で、俺は母さんに言われた通り此処にいただけ。
不甲斐ないとか情けないとか…そんな大それた感情は抱けなかったけど、それでも見つけてあげたかった…と、少しの後悔みたいなものが胸の奥に過ぎった。
…でも、
『…きれい!』
『…え?』
感動を表情に乗せたように、まるで真夏の大輪が似合うような笑顔が花開く。
女の子が目をキラキラさせながら、燃えるようなオレンジを瞳いっぱいに映していた。ずっと遠くの地平線に沈んでいく太陽は…ただただ、綺麗だった。
いくら幼くても、子供でも。
純粋に綺麗な風景には心が奪われる。
ドキドキして、ワクワクするような、そしてやっぱり少し切ないような…。
そんな景色を彼女とふたりじめしている。見慣れた夕焼けの景色が、とても特別なものだと思えて…少しの杞憂なんて吹き飛ばしてくれた。
砂浜に座り込んでいた女の子は、
顔も髪も服も靴も砂まみれで灰色だった。
でも、彼女を通り越して、どれくらい先にあるのかわからない程遠くに輝く太陽は…灰色を輝くオレンジに塗り替えた。
今でも俺の記憶に残るあの瞬間は…どこかで見たことある様な、まるでポートレートの様な…。
あの景色は、海でも夕焼けでも無く…、ピントは小さな彼女に向けられていたに違いない。
それから程なくして、女の子のお母さんがやってきた。走って名前を呼ばれた瞬間に、砂浜を掛けていく女の子。
抱きしめられて、抱きしめて。
お母さんと女の子は、ふたりして砂まみれになってた。
その後ろで満面の笑みを浮かべている母さんが、本当に嬉しそうに笑って…、
『伸一、かっこいいぞ!』
って言ってくれたから、どこかむず痒く、でも誇らしく、温かな感情が胸いっぱいに広がった。
…その後、女の子のお母さんは、俺と母さんに何度も頭を下げて、『ありがとうこざいました』と言っていた。俺にも沢山お礼を言ってくれて、やっぱりむず痒くて、誇らしくて。ちょっと頬なんて赤くなっていたかもしれない。
リョウくんちのホテルまで送ると、そこには女の子のお父さんもいた。
女の子が居なくなって、お父さんはホテルで待ち、お母さんが外に探しに出たらしい。俺の母さんが、ホテルに向かう途中、明らかに誰かを探している風の女の人を見つけて…話しかけたら、やっぱり女の子のお母さんだったみたいだ。そのまま、俺が女の子と待っていた場所まで案内したらしい。
ホッとして泣きそうになっているお父さん。嬉しそうに、胸に飛び込んだ女の子。ごめんね、よかった、心配した、ごめんね、って、たくさんの溢れる思いを聞いた。
オレンジから藍色に染まりつつあるグラデーション。星が輝き出し、秋を連れて来ようとしている、少しだけ湿度を下げた風。
リョウくんちから家まで帰る道のりを母さんと手を繋ぎ歩き、『…こうやって、いつの間にか大人になるんだよね、伸一も』って嬉しそうに、でも少し寂しそう笑う母さんの横顔に何だか涙が出そうになった。
そして…次の日。
日曜日で、朝から家族でビーチクリーン活動に参加していた。不定期に開催される海岸のごみ拾い活動は、当時の俺にとっても定番だった。海のすぐ傍で育ち、海が好きだから当たり前のものだったし、同級生や近所の大人たちも沢山いたから、むしろ楽しいイベントでもあった。
それに…、昨日の女の子が探していたイヤリングが、もしかしたら見つかるかも…と思っていた。もし見つかったら、まだホテルにいるかもしれないから届けてあげられる。そう思ったら宝探しの様な気がして、ゴミ拾いもいつも以上に楽しく感じられた。
でも、無情にも時間だけが過ぎていく。
やっぱり現実は甘くない。
残暑の太陽は夏の終わりを惜しむように日差しを降り注ぎ、波風も砂浜も、ぐんぐん温度を上げていた。
(…あつい…)
もうそろそろ終わりの時間かな…と、タオルで汗を拭いスポーツドリンクをごくごくと喉に流し込んだ時だった。
ザク、ザクと、足音を背中に感じたと同時に、控えめに声をかけられた。
『あの…』
振り向けば、そこには一人の女の子がいた。真っ白のワンピースに麦わら帽子。眩しくて、目を細めた視線の先の顔は一瞬誰かわからなかったけど…。すぐに昨日の女の子だって気が付いた。
『…あ!昨日の…こ、だよね?』
『うん!…おはよう』
途端に全身が緊張して胸が落ち着かなくなった。そこに居たのは昨日の女の子なのに、すべてが違っていたからだ。
昨日はTシャツに短パン、ビーチサンダル…。髪も顔も砂まみれだったけど、今日はまるで別人だった。
砂浜と青空によく映える真っ白のワンピース、麦わら帽子。髪の毛は、昨日はポニーテールだったけど、今日は降ろされていて潮風に揺られてサラサラと輝いていた。
(わぁ…かわいい)
…それが、挨拶を交わしまず初めに抱いた感情だった。昨日少しの時間を過ごしただけの殆ど知らない子で、女子に対して今までそんなことを思ったことは無かったけど…。初めて、女の子を見て胸が高鳴った瞬間だった。
…でも、女の子との時間は…もうきっとこれで終わる。幼いながらに、切なさみたいなものを瞬時に感じ取った。
『…帰るの?』
『うん、最後にね、バイバイって言いに来たの』
『そっか…。あれ、一人なの?』
『ううん、お父さんとお母さんは、しんいちくんのお父さんとお母さんと喋ってるよ』
ほら、あそこ!と指差しの先を見たけれど…俺の心はそっちには向かなかった。初めて女の子が“しんいちくん”と、俺の名前を読んでくれたのが…とても嬉しかった。
『…昨日、ありがとう。もう一回、言おうと思ったの』
『うん…。お父さんとお母さんに、会えてよかったね』
『しんいちくんのおかげだから!ありがとう、しんいちくん!』
パッと咲いた笑顔に、俺はまた緊張した。夏は終わるのに、夏の象徴のヒマワリみたいな明るい笑顔。
“魅せられる”って、言うんだろう。
思わず言葉が出てこなくなる様な、小さな衝撃。それが何かわからないままでいると、不意に揺れるピンクが視界に入り込んだ。
『…あ、それ』
キラリと太陽に反射して光るもの。それは女の子の耳元で揺れる桜貝のイヤリングだった。
『かたほう、無くしちゃったけど…いいの。お母さんにもう一つ買ってあげるって言われたけど、いらないって言った』
『どうして?』
『よくわからないけど…いいの。新しいのは、いらない。お父さんが、それもいいきねん…?になるな!って言ってたから、そーいうこと?』
『…そうなんだ』
『…うん。げんきでね。…また…ね?』
それが彼女と交わした最後の会話だった。俺と父さんと母さんに何度も頭を下げて、しっかりと手をつないで帰っていく3人の背中。
「本当にありがとうごさいました。お元気で!伸一くんも、ありがとうね!」
どんどん遠くなっていく白いワンピースを、俺は眺めていた。
(…また、会えるのかな…)
女の子が最後に言った、『また…ね?』が頭の中に余韻を残していた。
俺は何も言えなかった。だって、『またね』は、また会える人に言うものだ。
でも、女の子はここからずっと遠いところに住んでいて、小学校に行っても中学校に行ってもきっと会うことは無い…。
きっと、もう二度と。
でも、でも。
“また”が、あるのなら、
“また、会えたらいい”と思った。
『また…!元気でね!』
潮風に思いを乗せて大声で叫べば、気づいた麦わら帽子が揺れる。
大きく降ってくれた手。
抜けるような青空と、揺れる白いワンピース。
真夏より少し和らいだ日差し、潮の匂い。
波が打ち付ける音、波が海へ帰っていく音。
そして、少しだけ痛い左胸。
海に、波に願ってみようと思ったんだ。海は、願いを叶えてくれる…、そう信じていたから。
(また、会えますように)
…それが、あの夏の記憶だ。
…ピピピピ、ピピピピ、
すんなりと入り込んできた電子音。ちょうど瞼を持ち上げたタイミングでアラーム時計のボタンを押した。
時計が示す時刻は6時半。
もうすっかり朝を連れてきた外の明かりが、カーテンの隙間から入り込んでくる。
…夢を見ていた。
それは夢では無く記憶だ。
やけに鮮明に残っているのは不思議だった。それに、こうやって夢に見ることは初めてだった。
どうして今、こんなにも昔の記憶を夢で見ていたのか…寝起きの頭で少し考えはしたけど、考えてたってわかりっこない。
だったら考えるだけ無駄か?
そういう気持ちにはどうしてもなれない。
それは…俺にとっては、胸の奥底にずっと閉まっておきたいような宝物みたいな記憶で、たまに思い出して淡い想いに浸りたい…、そう思わせてくれるようなものだからだ。
…だから、あの時の記憶を夢で見られてとても嬉しかった。
そんなこと、何となく気恥ずかしくて誰にも打ち明けられないのだけども。
軽く顔を洗って、マグカップに淹れたインスタントコーヒーを片手に部屋に戻ってくる。今日も練習があるから家を出るのは8時。俺が余裕を持って早く起きるのは、朝のこの時間が好きだからだ。
窓を開けて、波の音を聞きながら苦いブラックコーヒーを飲む。もう何年も続いている俺の習慣だ。
海が近いこの辺りは基本的に風が強いけど、朝は比較的微風だ。香る潮風を胸いっぱいに吸い込んで深呼吸をすれば、徐々に身体が目覚めていく。
朝が得意な俺からしたら、この時間が一番幸せかもしれない。
コーヒーを飲み終えて、いつもならランニングか近くのバスケットゴールがある広場に向かうけど…、今日は散歩したい気分だ。すぐ近くの海岸を、風を感じて、走らずゆっくりと…。
そう思うのは、言わずもがな見たばかりの夢のせいだ。
別にいいじゃないか、たまには…な?
Tシャツとハーパンに着替え、準備万端というところで、壁にあるコルクボードに目をやった。
練習試合や公式試合の日程が書いてあるプリント、NBA選手のポストカード、部活のチームメイトたちと撮った集合写真。
その角に刺された画鋲に、引っ掛けてあるピンク色を手に取った。
金具は少し曇ってしまったけど、淡い色はあの頃と変わらないままの…、桜貝のイヤリング。
たぶん、あの子の落とした片割れ。
(…元気、してるのかな)
カレンダーの日付は、8月29日。
運命の歯車みたいなものがあるとして、それがゆっくりと噛み合おうとしていることを…、この時の俺は、まだ知らない。
《8月29日》
END
20210124一條燐子