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□《8月29日》
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夢を見ている。
夢では無く…それはたぶん記憶。
記憶の中で、たぶん一番の古いもの…なんだと思う。俺は今、その中にいる。


地元の海岸、潮風、ずっと遠く西の方へ沈むオレンジ色の夕焼け。

俺にとっては当たり前の風景だったけど、何度見ても飽きない気に入った風景だ。

もう10年以上前に、その風景の中で出会った女の子…。

一緒に過ごしたのはトータルしても一時間も無かった。覚えているのは、同い年だったこと、それと…。もう二度と会うことは無いだろうと思った切なさ。

胸が痛くて、泣きたくなるような、でも笑っていたいような…。

もしかしたら…それが初恋だったのかもしれない。










まだ随分と幼かった頃だ。
たぶん…小学校入学手前だったと思う。
幼稚園では無く保育園だったから、長い夏休みなんて無かった。近所の幼稚園の友達や小学生たちが、毎日一日中海に居られるのがとても羨ましかった。

あの日もいつもと同じように、地元の海岸へ散歩に来ていた。
父親が趣味でサーフィンをしていて、仕事が休みの日は朝から晩まで海に居るような人だった。
家はすぐ近くだったから、『そろそろ夕飯だから、お父さん迎えに行きがてらお散歩しようか』と、母と手を繋ぎ、砂浜をのんびりと歩いていた。

そこで…一人の小さな女の子を見つけた。その子は俺達から少し離れた岩陰でうずくまっていて、その顔には不安が溢れていた。

『ねぇ、かあさん…』すぐに異変を感じて、隣にいた母さんを見上げて指を差すと、母さんも同じ様に感じたのか足早に駆け寄り女の子に話しかけた。

『こんにちは、どうしたの?』

『………お父さんとお母さん…わらかなくなっちゃった』

『どこから来たの?この辺の…子じゃないよね?』

『…うん、りょこうで…きたの』

涙を何度も拭ったのか、女の子の頬は砂まみれになっていた。母さんはしゃがんで目線を合わせると、ポケットからハンカチを取り出し砂を優しく払っていた。

『そっか…どこに泊まっていたかわかる?泊まっていたところに、何か目印とかあったかな?』

『…うん、入り口に、大きなイルカのいぐるみがあるところ』

『あっ!おばちゃん、そこ知ってる!』


大きなイルカ…。それを聞いて、俺もピンときた。

『かあさん、リョウくんちのホテルじゃない?』

『うん、そうだと思う!』

この辺は有名な観光地からは少し距離があるけど、遠方から来るサーファーも多く、小さなホテルや旅館が数軒あった。
その中の、リョウくんっていう同級生の友達の家が経営しているホテル…。何回か遊びに行ったことがあって、イルカのぬいぐるみを見たことがあったから、すぐにそこだとわかったんだ。

『…おれ、ここでこの子と待ってるから、かあさん、リョウくんちまで走る?』

『…え?伸一、出来る?』

『できるよ。かあさんが一人で走るのが、たぶん一番早いでしょ?』

小学校入学手前の6歳とか…そんな年だったと思う。それでも、大人一人が、子供二人を連れて砂浜を歩くより、大人が一人で走ったほうがかなり時間を短縮できるのは理解できていたと思う。

俺の提案に少しびっくりしていた様な母さんだったけど、すぐに嬉しそうな笑みを浮かべて俺に大役を任せてくれた。

『伸一、よく言った!母さん、全力でリョウくんちまで行ってくるから!』

『うん、わかった』

“任せる”って言ってもらえて、嬉しかったんだ。この海岸はほぼ毎日来ているし、家までの道のりも、近所の店や友達の家もわかってる。少し遠くに見えるサーファーたちも父さんとその仲間だろうし。

母さんは女の子に向き直り、優しい声で訊ねた。

『お名前、聞いていい?もし分かれば、お父さんとお母さんの名前も』

『うん…わたしの名前は…、』

風向きが変わり、ザァっと波の音が潮風を乗せて強く吹き抜けた。彼女の名前は…俺には聞こえなかった。

『うん!名前がわかるなら、すぐお父さんとお母さん来るからね?うちの息子…“しんいち”って言うんだけど、一緒に居るから…大丈夫だからね?』

『…うん、おれがいるから大丈夫』

『ははっ!伸一、カッコいい!じゃ、ソッコーで行ってくるから!』

走って行く母さんの背中を見送って、俺は女の子に視線を戻した。母さんに良い所を見せたくて、『俺が居るから大丈夫』と言ったものの…、正直どうしていいかわからなかった。子どもだけで海に来たことなんて無いし、泣いてる女の子の涙の止め方なんて知らない。さっきまでの得意気はどこへやら…。途端に不安になったけど、この女の子の方が知らない場所で迷子なんだから、もっとずっと不安なのかもしれない…、幼いながら、そう思った。

だから俺は、“とっておき”のジンクスを女の子に教えた。


『…大丈夫だから。すぐ会える』

『うん…』

『…海にお願いごとをすると、かなえてくれるんだよ』

『…ほんとう?』

『うん。運動会で、リレーのアンカーになりたくて…。海にお願いしたら、かなったんだよ』

『じゃあ、おねがいする。お父さんとお母さんに、会えますように…』

取り敢えず少し安心してくれたのか、俺と一緒に待ってくれる様だった。まだ昼間の名残を残した温かい砂浜に座って、目の前に広がる海を見つめていた。俺は女の子が泣きやんでくれたのをうかがって、ホッとしたんだ。


女の子は俺の言葉を信じて、神様にお願いするみたいに手を合わせて目を閉じた。今となってはそんなの子供だましだって思うけど、小さいときは俺だってそう信じてた。

海は…いつだって雄大で、悩みも辛いことも受け止めてくれる気がする。気分転換に寄ってみた後、心がスッキリして考え方や思考を改められるから、物事が停滞や不穏から、好転することだってあった。そう考えたら…あの時俺が言ったことも、あながち間違っていないのかもしれない。


『…どこから来たの?』

『えっと…遠く…だと思う』

『かながわ?ここ、かながわだよ?』

『たぶん、ちがう。もっととおく。車でたくさん走ったもん。…お父さんがね、海、好きなの。私のところにも海あるけど…ちがう海も、はいりたいんだって。サーフィン、するの、お父さん』

両親から聞いていただろう会話を、彼女は拙いながらも俺に伝えてくれた。
遠くから来たんだと。旅行で来たんだと。

『あ、うちの父さんもサーフィンするんだ。今も海にいるよ』

『じゃあ…いっしょにいるのかな?』

『そうかも。近くにいるよ、きっと』

『…そっかぁ!』

途端に、一瞬で表情が変わった。
母さんがハンカチで払っていたとは言え、まだ無数に残る砂を貼り付けたままで弾けたその笑顔。砂の中には小さくて輝くものが含まれていて、沈んでいく西日に照らされてキラキラ反射するから…。
純粋に、単純に、そのままに…、女の子のその笑顔がキレイだと思った。

(泣くのやめて、良かった…。でも何を話せばいいんだろう…)

ホッとしてすぐに、別の疑問が胸を過ぎった。通っていた保育園では勿論女の子も沢山いたけど、“初対面の女の子といきなりふたりきり”なんて状況は初めてだった。ぼんやり思い出してみても、そんな場面はたぶんあの時が初めてだった。そんなの、今の俺だって多少は緊張する。


物心が着いたあたりだ。知っている子や友達は、みんないつが初対面で、どうして友達になったか何て覚えていない。だから、何を話したらいいかなんて全くわからなかった。


でも…そんな俺の心配を他所に、女の子はあまり人見知りしない方だっのか、明るく俺に話しかけてくれた。

『近くに、すんでるの?』

『あ…うん、すぐ近く』

『わたしの家もね、すぐ近くに海があるよ。同じ海なのかな?』

『海は繋がってるって…かあさんが言ってた。だから、同じ…なのかな』

『でも、私の家ずーっと遠いよ?やっぱり違うのかな』

『どうだろう…』

『ここの海も…きれいだね』

そう言った女の子からは、すっかり鼻をすする音は止んでいた。嬉しそうに波を眺めていて、少し乱れたポニーテールが印象的だった。

『どうして…はぐれちゃったの?』 

俺が訊くと、彼女はショートパンツのポケットをゴソゴソと探り、手のひらの上で光る何かを見せてくれた。

『…これ、探してたの』

『あ、これって…イヤリング…っていうんだよね?かあさんもつけてる』

『うん…。お母さんが昨日買ってくれて…今日つけてたんだけど、さっき海に来たときに落としちゃったみたい…なの』

それは…淡いピンク色のイヤリングだった。桜貝から作られているらしく、この辺では売っている店が多い。人気商品だって近所のおばちゃんが言っていたのを思い出した。観光の記念に…って、買ってくれる人が多いそうだ。

『プリンセスがつけてるのといっしょなの。わたし、気に入ってたのに…』

女の子はそう説明してくれた。
ホテルを抜け出して海岸に来れたけど、どの辺りで落としたのかは全く検討が付かず…。でも風景の記憶だけを頼りに、大体通った場所を絞って探してたらしい。
でも、広すぎる海岸、似たような風景、気付けば少し傾きかけてる太陽…。ハッと頭を上げたときには、どっちから来たのか、泊まっていたホテルがどこにあるかわからなくなってしまった…。

夕暮れ近くで人影もまばら、知らない土地…。途端に不安になり、疲れてお腹がすいて…岩陰に座り込んで泣いていたんだそうだ。

俺と母さんがたまたまここに来て、彼女を見付けられたのは偶然だったけど…本当に良かったと心の底から思った。 

『で、見つかったの?』

『ううん…。見つからない』

『そっか…。じゃあ、今から探そう!』

『…え?』

俺がそう提案すると、少し驚いたように大きな瞳が見開く。俺は先に立ち上がると、女の子に手を差し出した。

『太陽が沈むまで、まだ少しだけ時間あるし…、かあさんたちがくるまで!ふたりなら見つかるかも!』

流石にこの砂浜で探しものなんて、いくら何でも難しいと思う。でもそれは、今思えばの話。
やっぱり幼かった俺は、見つかるかもしれない、見つけてあげたいって思いの一心だった。

『…うん!』

彼女も、まだ諦めていなかった。
もしかしたら諦めていたのかもしれないけど…、本当は諦めたくなかったんだよな。だから、俺の手を取ってくれたんだ。

夕焼けを真横に受けて、伸びる影はふたりぶん。砂浜に夏の終わりを刻むように、どことなく切ない気持ちになるような…泣きたくなるようなオレンジ色に照らされて、もう少しだけ沈むのを待っていてと胸の中で呟いた。
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