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□《a little happiness》 /《a little unhappy》
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千載一遇のチャンスだ。
それはある日突然、なんの前触れもなく訪れる。
憧れの先輩、現在進行形で絶賛憧れ中の牧さんが、今私の目の前にいる。
《a little happiness》
五時間目と六時間目の合間の休み時間。
五時間目の中盤からとてつも無い眠気に襲われ、まだ残ってる六時間目は睡魔と戦わなきいけないから、チャイムと同時にダッシュで自販機までコーヒーを買いに来たところだ。
そ、こ、で。
私より早く自販機の前に先客があることに気付いた。
まさかまさかの、それはいつも目で追っている背中だった。追い慣れてるから、視界に入った瞬間に心臓が大きく揺れて、どんどん心拍数を上げていく。
(まままま牧さんだ!)
五時間目は体育だったらしい牧さんは、体操着にジャージ姿。動いたばかりで暑いのか、上着は着ずに肩に置いた手に持たれていた。 いつもは制服かバスケ部のユニホームか練習着だから、レアな姿を見られて興奮が抑えられない私。鼻息なんてめちゃくちゃ荒くなってる。うん、もう変態って言われてもいい。
(ジャージ姿もカッコイイ……)
後ろ姿だけで、すでにドキドキが止まらない私。
コーヒー買いたい。でも牧さんが居る!どうしようこれ以上近付いたら私緊張で倒れるかも。でもコーヒー買いたい。や、でもコーヒーを買うって正当な理由があるから正々堂々と近づけるじゃん!いけいけ私!
眠気を吹き飛ばしたテンション高めな心の声が、私を急かしつつ背中を押した。ぎゅっと小銭を握り締めて深呼吸をひとつ。
たかがコーヒー一本買うだけで大袈裟だって思われそうだけど、彼は言うまでもなく校内一の有名人だ。校内どころじゃなく、他校は当たり前、神奈川を飛び越えて全国にファンがいるって言っても過言じゃ無い帝王、牧伸一さんだ。そんな彼がこんなに近くに居る状況じゃ、一般人の私がこうなるのも仕方がない。
どうして彼がそこまで有名かなんてのは説明するまでも無いだろうから省くけど、私は、そんな誰もが憧れる牧さんのファンの一人だ。
勿論話したことは無くて、牧さんは私のことなんか知らないだろうけどね。
でもね、それでいいんだ。牧さんは皆の憧れ。男子でも女子でも憧れずにいられないスーパースターだから、そんな彼と特別な関係になりたいだなんて大それた願い、思ったことも無い。
同じ校内に居られるだけで超ラッキー。
部活を見学したり、本当にたまにだけど校内ですれ違ったり、遠目からでもバスケをしてる時以外の“普通の高校生”の牧さんを見られたりするだけでもう最高に嬉しい。
そうそう。だから、こんなに近くに牧さんが居るなんて滅多に無いチャンスなんだ!話し掛けるなんて出来ないから、チラッとだけ顔を見られればそれでいい。
(…よし)
すっと牧さんの後ろに並ぶ。こうやって近くまで来ると、本当に背が高くて体格が大きい。
広い背中を見上げて、全然収まらない鼓動を抱えながら平常心を保つのに必死だ。
牧さんはジャージのポケットから小銭を取り出すと自販機に入れた。小銭がチャリンと落ちる音が聞こえて、長い指がボタンを押した。
その瞬間だった。
「あっ」
ボタンの電子音が速かったか牧さんの一言が速かったか…。ほぼ同時だった。すぐに、ガタンと商品が落ちる音が聞こえて、牧さんは腰を屈めると取り出し口から缶を取り出した。
「…………」
取り出した缶を開けるでも無く持ち帰るでも無く、牧さんはただ缶を眺めていた。
牧さんの大きな手のひらの中には、150CCの小さな缶。牧さんが握っているとやけに小さく見えるそれには、小豆色と茶色を背景に、デカデカと“おしるこ”と書かれていた。
おしるこ……。
お汁粉!?
あまりにも牧さんには不釣り合い!?
いや逆に似合いすぎる!?
まさかお汁粉を手にするとは思わなかった私は、思わず目を見開いて牧さんの横顔と手の中のお汁粉を交互に見てしまった。
そこですぐにピンと来る。
(…ああ、そうか)
牧さんたぶん、押し間違えたんだ。
牧さんは体育の授業の後だし、ボタンを押した瞬間に『あっ』って言ったし、取り出したお汁粉とにらめっこしてるし…。この三拍子が揃えば自然と予想は出来た。「お汁粉なんて飲みたくないだろう」って。
たぶんね、スポーツドリンクを飲みたかったんだと思うんだよね。スポーツドリンクとお汁粉の並びは離れてるんだけど…。何か考え事でもしてたのかな…。
私の予想がほぼ正解だってことは、牧さんがお汁粉を眺めながら小さく吐いた溜め息で確信した。
そして突然、閃きは降りてきた。
(ちょっと待って…これって…!)
チャンス!めちゃくちゃチャンス!まさかそんなことは考えても無かったけど、これって話し掛ける絶好のチャンスじゃない!?
私がコーヒーを買うつもりで持ってきた小銭を渡して、牧さんの持ってるお汁粉と交換すれば良いんじゃない!?余計に小銭は持ってきてないからコーヒーは買えなくなるけどいい。全く問題ない。むしろコーヒーなんか要らない。そのお汁粉めっちゃ欲しい。
ごちゃごちゃ考えてる時間は無く、即座に勇気を振り絞り牧さんに声を掛けた。勿論、初めて。
「あ、あの…」
「あぁ悪い…。待ってたのか」
「いえ、その…間違えました…?」
初めて成立した会話にすかさず舞い上がってしまうけど、自販機を譲ってくれようとした牧さんを制して、大きな手のなかのお汁粉を指差した。私とお汁粉の間を行き来した牧さんの目線が再び私へと向き、牧さんは困ったような恥ずかしそうな微笑で答えた。
「はは…見られてたのか」
「すみません、バッチリ見ちゃいました」
(っていうか!!!笑顔!ヤバい可愛すぎる素敵すぎる!!!)
牧さん笑ったぁぁぁぁぁぁあ!!
話したのも初めて、そして私に向けて笑ったのも勿論初めてで、もうそれだけで光が射して天にも昇りそうな勢いだ。いやマジで。
興奮のあまり鼻血が出ていないか然り気無く確認して、とにかく平然を装うのに必死な私。
周りの人たちはどーでもいいけど、牧さんにだけは変態だと思われたくない!そんなこと思われたら死んじゃう私。
でも興奮しまくってる場合じゃない。早く牧さんに切り出さないと、飲みたくない(だろう)お汁粉を片手に教室戻っちゃう!
(よし!いけ!私!)
小さく決意をして、頭で用意してあった言葉たちを押し出した。
「あのっ!良かったら私の小銭使ってください!」
「え?」
「私まだ買ってないですし…、ちょうどお汁粉を買おうと思ってたんです!」
「ありがたいけど…いいのか?」
「はい!どうぞ!」
精一杯の笑顔で、手のひらの上に乗せた小銭を高く差し出した。
牧さんは申し訳なさそうに「じゃあ……」と言って受け取ると、変わりに私の手のひらにお汁粉を乗せてくれた。
「ありがとうな」
二回目の笑顔。でもそれはさっきの恥ずかしそうな笑顔とは違う、初めての笑顔。
(あぁ……ヤバい)
触れた指先。たったそれだけで心臓がギュッと締め付けられて、痛いほどの余韻を残す。
まだ温かさを残すお汁粉を握り締めて、自然と溢れてしまった満面の笑みで応えていた。
「こちらこそ!ありがとうございます!」
あまりに突然であまりに嬉しかったから、少し声は震えたし思いの外大きい声になっちゃったけど、ほんの些細なことでも牧さんのお役に立てたことと、初めての会話、初めての笑顔、初めて触れた指先…。それだけで胸がいっぱいだった。
(あー、このお汁粉絶対飲めない)
「部屋に飾って宝物にするのでサイン書いてください」って口から出かかったけど、さすがに牧さん引くだろって脳内に突っ込みが走ったので辞めておいた。
早速牧さんは小銭を自販機に入れて何かを買っていたけど、それは何かはわからなかった。これ以上ここに留まって、牧さんに変な奴だな、って思われるのも嫌だったし、勢いのまま引き際を誤ると後悔する様な気がしたから。
現実味が無くてぽーっとする頭で踵を返し、夢見心地で教室へ向かったんだ。
(…あー)
結局、コーヒーを飲めずに迎えた六時間目。
授業なんかさっぱり頭に入らず頬杖を付いて、机の上に置いたお汁粉の缶をただただ眺めていた。
(あぁ…なんか幸せな気分)
まだまだ夢見心地から抜け出せる気なんかしなくて、現実味が無くてフワフワしている。本当、他人からしたから“たったそれだけのこと”だけど、それを特別な出来事にしてしまうのが恋の力なんだよね。
目を閉じれば、二回貰った牧さんの笑顔がキラキラと頭のなかで輝く。
もうなんか、間違ってボタン押しちゃう牧さんが可愛いし、それに間違ったのがお汁粉ってだけで更に可愛い。
「ふふっ…」
思わず思い出し笑いをしてしまって、声に出てたらしい。隣の席の男子が、「なんだコイツ」的な視線を送ってくるけど果てしなくどうでもいい。
「…おい、お前大丈夫か?」
尚且つ声も掛けてきたけど果てしなくどうでもいい。取り敢えずシカトを決め込んで、声かけんなオーラをバンバンに出し、お汁粉をそっと握って机に伏した。もう授業をしている先生の声も隣の席の男子の声も耳に入ってこない。
牧さんのお陰であの瞬間は一気に目が覚めたけど、こうやってまた授業に戻ってくると、とてつも無い眠気が再び襲ってくる。眠気覚ましのカフェインも補給できなかったしね。
もーいーや。この授業、欠席扱いになってもいい。
今なら、すごく幸せな夢が見られる様な気がするんだ。
窓から差し込む午後の暖かな日差しを背中に受け、まだ微かな温かさを残すお汁粉を握り締めると、私は完全に睡魔からの誘いに身を委ねた。
でも、私はこの時知らなかったんだ。
この、宝物にしようと決めたお汁粉の寿命が、長くないことを……。
それを知るのは、眠りから覚めた放課後のこと。
《a little unhappy》
「……ってえ」
始まった部活の時間。牧さんの集合がかかり、監督から今日の練習メニューを一通り聞き、ストレッチをしている最中だ。
つい数十分前に付けられた頬の傷が疼く。猫にでも引っ掛かれたような、二本の線になっている派手な傷だ。
そこで、ずっと気になっていたらしい、隣でストレッチをしていた牧さんが俺に訊いて来た。
「清田、どうしたんだ?その顔」
「それ、俺も気になってた」
牧さんに続き、牧さんの隣に居た神さんも話に乗っかってきた。そりゃそうだろう。さっき部室に来てから顔を合わせる部員全員に訊かれたし、それほど酷い傷だってことだ。
「隣の席の奴に付けられたッス」
「なんでまた…」
少々呆れ気味な神さんの声に、見るも無惨な引っ掻き傷に触れるとまだヒリヒリ痛む。この海南ゴールデンルーキーの顔に傷を付けやがった奴を思い浮かべながら、ついさっきの出来事をふたりに話した。
「なんか隣の席のやつ、五時間目の休み時間にコーヒー買いに行くっつって出ていったと思ったら、ボーッとしながら戻って来て何故か缶のお汁粉持ってて…。六時間目はそのお汁粉握り締めてニヤニヤしつつ、そんでそいつ、そのまま寝ちゃったんスよ。授業終わったから起こしたんスけど、そいつ起きなくて。お汁粉、飲まないみたいで勿体無いから、俺飲んでやったんスよ。そしたらそいつガバッて起きて、俺がそのお汁粉飲んだことにブチ切れしてきて…そんで引っ掻かれたんス」
「……」
一通り説明すると、ストレッチをしていた牧さんの動きがピタリと止まった。神さんはストレッチを続けながら、ため息混じりに俺にこう返した。
「それ、信長が悪いんじゃないの?」
まさかの指摘に、俺はすかさず神さんに抗議をした。
「マジスか?俺、ただお汁粉飲んだだけですよ?そりゃ、勝手に飲んじまったのは悪かったと思いますけど…。同じの買ってくるって言ってるのに、引っ掻かれる程怒るようなことスか?」
「だからそこなんだよ。清田にとってはただのお汁粉だけど、その子からしたら大事なものだったかも知れないだろ?」
「大事?缶のお汁粉ですよ?」
「例えばさ、好きな人に貰ったものだったとか…」
アイツの好きな人…?すぐさまに思い浮かんだのは一人しかいなかった。
「そりゃ無いッスね。アイツの好きな奴って、たぶん俺ッス」
「え?何で断言できるの?」
「だってアイツ、よくウチの部見学に来てますよ。俺を見に」
「……」
「ねぇ、それって本当に信長を見てるの?自意識過剰なんじゃない?ねぇ牧さん?」
「……」
「牧さん?」
神さんがピタリと動きを止めたままの牧さんを覗き込んで話しかけたが、何かを考えているようで返事は無かった。牧さんにしちゃ珍しい姿に、俺も神さんに続き声を掛ける。
「まきさーん!俺の話、聞いてました?」
「……」
「まきさーーーーん!」
「…清田のクラスの子だったのか…」
「え?」
俺に向かってじゃなく、こぼれ落ちた独り言のように呟いた牧さん。でも、俺にはその意味がさっぱりわからない。訊き返すと、牧さんは目を細めて口元に微笑を浮かべ言った。
「ありがとな、清田。学校中探す手間が省けた」
「…は?何のことスか?牧さん」
「いや、いい…。こっちの話だ」
それだけ言うと軽やかに立ち上がり、監督のもとへと走って行った牧さん。何故か機嫌が良さそうな足取りと横顔を目で追っても、訳はわからず小さな疑問だけが残った。
「なんなんスかね、神さん…」
「さぁ…。でも牧さんの機嫌が良いってことは、今日の牧さんはいつも以上に手強いんじゃないか?」
「げっ…相当ハードな練習になりそうッスね」
何処からか入り込んだ風が傷を掠め、痛みが通り抜けていく。取り敢えず怒らせちまったアイツを宥める策を練るのは、部活が終わってからの方が良さそうだ。
「っしゃあ!気合い入れるぞ!ーーーーって!痛ぇ!!!」
簡単に想像できるハードな練習に備えて無意識に頬を両手で叩いてしまい、再び頬に激痛が襲い涙目になる俺だった。
《a little happiness》
《a little unhappy》
END 20180220一條燐子