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□《daydream》
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「…あれ?」
午前中は研修会の出張で空けていた保健室に、どうやらすでに先客があるみたい。ま、誰かしら転がってるだろうな、とは思ってたけど。
三つあるベッドの一番奥のカーテンだけが閉められていて、その中からは人の気配。下には脱ぎっぱなしにされた上靴が無造作に転がっている。
応急処置用の消毒や包帯は手を付けられた形跡は無いし、ごみ箱も空のままだから怪我人じゃ無いことがわかってホッと胸を撫で下ろした。
息を潜めて耳を澄ませると、何とも気持ち良さそうな寝息が聞こえる。
まぁ恐らくサボりの生徒だろうと予想して、閉じられたカーテンへと手を伸ばした。
3年のあの子か2年のあの子か…。保健室の常連達を思い浮かべてそっとベッドを覗く。
堂々と横たわる大きな体。黒いズボン、学ラン…男子生徒だ。
その顔を確かめるべく視線を向けた。
(……あ)
閉じられた瞼に掛かるサラサラの黒い髪、長い睫毛。スッと通った鼻筋に形の良い小さな唇。
きっと老若男女関係なく、思わず見惚れてしまう程の綺麗な男の子。
(…流川くんだ)
1年10組、流川楓。
富ヶ丘中出身のバスケ部。
プロフィールは名簿から覚えたんじゃなくて、ごく自然に耳に入ってきたもの。彼が入学して来てまだ数ヶ月だけど、その名前を聞かない日は無いってくらい有名人だ。
187センチの長身にこの完璧な顔立ち。そして更にバスケも相当上手いらしくて、ルーキーにしてスーパースター。
まぁ、そんな感じでこんなイイ男を女子が放っておくワケが無く、すでに親衛隊が出来るほど人気なのは言うまでも無い。
実はこの流川くん、常連とまでは言わないけれど、入学してまだ数ヶ月の割には此処にそこそこ来てる方だと思う。
こんなキレーな顔してわりと喧嘩っ早いみたいなんだよね。入学してすぐの放課後、あの桜木くんとやり合ったみたいで、頭から血を流してフラフラしてる流川くんを、半ば無理矢理ここに連れ込んだのが初めてだった。
あんまり大きな声じゃ言えないけど、この前のバスケ部の揉め事…あの場に居た殆どの子が怪我をしてて、流川くんは大したこと無さそうな顔してたけど、診たらあっちこっち傷だらけだったし…。
(…問題児、よね。こんなキレーな顔してるのにな)
眠る彼からは、普段の無感情の中の鋭さは微塵にも感じられない。無防備過ぎる寝顔は、バスケ部のスーパースターにも、喧嘩っ早い問題児にも見えない。
ただの15才の…高校1年生の男の子だよね。
もう傷はいいのか、私が巻いた包帯や絆創膏は無くなっていた。
でも本当に完治しているのか怪しいところ。診せに来いって言って来るタイプじゃないし、ちょっと良くなったら邪魔だからって取っちゃいそうだし。
一瞬迷ったけど、私、“保健室の先生”だし。姿勢を屈ませて流川くんに近付き、サラサラの髪に指を差し込んで止血したあたりを探す。
(うん、良かった本当に治ってる)
ついでに顔の傷も確認しようと視線を下げていく。自分の髪が流川くんの頬に落ちてしまいそうで咄嗟に片手で押さえた。
怪我を診た時に二度、近くで見てるけど…寝顔をこんなに至近距離で見るのは勿論今が初めて。
治療の時は全然意識しなかったのに、今日はなんだか違う。流川くんの視線が無いからなのか、顔をまじまじと見つめてしまう。
(お肌も髪もツルツルだぁー…。若いって羨ましいなぁ)
なんて、おばさん臭いことを胸の中で呟きながら視線は外せない。傷痕が無いことを確認しても、まだ見ていたいって思った。もう完全に見惚れてるんだよね。
長い睫毛。スッと通った鼻筋に形の良い小さな唇。
そのすべてが作り物みたいに端正で、息をしているのが不思議なくらいに思えてしまう。
このクールビューティーで、一体どれくらいの女の子を虜にしてるんだろう。
それでいて、当の本人はバスケ以外に興味無さそうだし。でも…ファンの子達からしたら、それがまた魅力なんだって言うんだろうな。
(ホント…罪な子)
この綺麗な寝顔をいつまでも見ていたいと思う半面、女の私なんかより、ずーっと綺麗なパーツを持つ彼に、小さな嫉妬と羨望の感情が沸く。
サボって堂々と寝てるし…起こしてやる!
ちょっとした悪戯心が芽生えて、ツルツルな綺麗な頬をむにっとつねった。
しかし、流川くんに起きる気配は全く無く、気持ち良さそうな寝息が引き続き聞こえて来るだけだった。
「おーい、流川くーん」
「………」
「流川くん?」
「………」
「るーかわくーん」
「………」
「起きろー!流川ー!」
角度を変えて頬を摘んだり軽くデコピンを試みるけど、やっぱり反応は無い。
この子に彼女が居るって話は聞いたことは無いけど、彼女になる子は大変だ。起こすだけで一苦労で、デートするのは夕方からかも。
一日中二人でベッドの中ってのも悪くないけど、やっぱ高校生は健全に昼間デートしなきゃね!
(うん!そうだよね)
流川くんからしたら余計なお世話だろうし脱線気味になって来たけど、そんなのお構い無し。
私はこの流川くん…手強い架空彼氏を、一発で尚且つすんなり起こす方法を考えてみる。
(…そうだ。もし私が彼女なら)
ふっと頭に浮かんだ光景に、口角が上がった。
それを再現するべく、私は少し高いベッドに脚を下ろした状態で座り、腰をひねって流川くんへと体を向ける。彼を覆う様に布団に付いた片腕で体を支えて、ゆっくりと学ランに影を重ねていく。
黒い髪から覗く耳元に、そっと唇を近付けた。はらりと流れた自分の髪が、彼のワイシャツから覗く鎖骨に掛かった。
「…楓」
「………、」
出来るだけ優しく彼の耳元で囁けば、ぴくりと眉毛が動く。
例えばこんな状況。
流川くんが彼氏で私が彼女で、気怠い朝方。気怠いのは勿論昨夜の所為。寝顔を眺めるのも悪くないけど、やっぱりその瞳に私を映して、その唇で私を呼んで欲しいから。
そんな仮想の愛を、吐息に込めて。
「ねぇ楓…起きて」
「…ん…」
勝負あり…かな。
今まで起床のきの字も随分遠かった流川くんの頭が小さく動いて、瞼がゆっくりと持ち上がった。
すぐ近くにある私の視線を捕らえると、寝ぼけ眼で見つめられる。
状況が把握出来なくて考えているのか、まだ意識が睡眠から抜け切れていないのか…私をちゃんと認識してるかどうかも疑わしいところだ。
「おはよう。よく眠れた?」
「んー…」
「私、わかる?」
その問いに、流川くんはゆっくり体を起こすと長めの髪をわしわし解いて辺りを見回した。
「…先生」
「そう。保健室の先生」
「…ゆめ…?先生…俺…、の?」
「は?」
寝起きの掠れた声で、意味不明なことを私に訊く。
先生、俺の…?
一体何のことなんだろう。
「えーと、寝ぼけてる?」
「ここ…保健室…?」
「今更?そうだよ保健室」
若干噛み合わない会話はもう慣れてるけど、どうやら本格的に寝ぼけているらしい。そんな流川くんが可笑しくて、小さな笑いがこぼれる。
でも、頭で色々整理する内に徐々に意識がハッキリして来たのか、キリッと上向きなクールな目元と、完璧な無表情がいつもの流川くんを形成する。
「夢…見てた、たぶん」
「だろーね。どんな夢だったの?」
ベッドに左半分だけ座る形で彼に向き直り、尋ね返す。
だけど彼は言葉を発するのを辞め、私をじっと見つめた後に手を伸ばした。
(……?)
一瞬浮かんだハテナマークは、すぐに衝撃にくだけて消えた。
まっすぐ伸ばされた手の平は私の髪に触れ、長い指先が下へ降りて毛先を掬い上げる。
それはまるで、毛糸に興味を示す猫の様で、恋人に対する愛しい仕種の様にも見えた。
「え、と…流川くん?」
普段の流川くんからは全く想像できない行動。それに、突然過ぎて反応に戸惑ってしまうのは当然。それでも流川くんは私の反応を気にするでも無く、淡々と続けた。
「…俺のだった」
「え?」
「先生が」
「…私?」
えーと。今のを並べて整理すると、キーワードは“夢“、“俺の”、“先生”の三つ。この単語たちが繋ぐのは…。
「私、流川くんの彼女だったの?夢の中で?」
訊くと、こくりと頷く。
うーん。偶然にしちゃ出来すぎ?もしかして…私がさっき変に起こしたりしたから、夢と混同しちゃってるとか…?
(さすがに生徒に対してマズかったかなー…)
なんて、今更なことを考えていると、また意外な展開が私に降り懸かった。
「…まだ夢の中ってことにして」
「…え?」
「もーちょい、このまま」
流川くんの顔が近付いたあと、視界から消える。ふいに触れた黒くて柔らかい髪は私の首筋に。くすぐったくて、変に声が出てしまいそうになった。
「…っ」
肩に感じる暖かな重さ。
ずっとずっと近くで聞こえる呼吸、寝起きの高い体温が、彼に触れているところから伝わって来る。
(…あったかい)
高校生とか、新入生とか、バスケ部ルーキーとか…生徒とか。言い方を変えても彼をの後ろに付いてまわる肩書は、この瞬間、私には見えなかった。
だから、「いけない」とか「ダメ」なんて思わなかった。不思議と。
言い訳なんて無い。
ただ、こうしたかったから…、私は彼の髪に触れて、そっと目を閉じ自分の頭を寄せて応えた。
「…3分だけね」
夢の中でも、こうしてたのかな?
それは、甘えてきた猫をあやす様で、恋人に対する愛しさの様で…。
何百人も居るこの校舎、保健室の片隅にあるカーテンの中で、私達は夢と現実の狭間に居た。
3分後、タイミング良く鳴ったチャイムの音に、私達は夢と現実の狭間から引っ張り出された。
自分で「3分だけね」って言ったクセに、1分、2分と過ぎるうちに、どんどん抜け出せなくなる気がしてた。
流川くんが私の肩に頭を乗せて、私がそれを受け入れて…。あの空間は、あまりにも居心地が良かった。
だから、チャイムが鳴って良かったの。あのまま流川くんと居たら、私は…。
この時、思い掛けて振り払った漠然とした想い。
それは、この直後いとも簡単に連れ戻されてしまうんだ。
「ちゃんと次の授業は出なさいよ?」
「ん」
教員らしいその忠告に、短い返事をした流川くんが扉へ手を掛けた。
広い背中を見送ろうとしたけど、扉は開かずに彼が私へと振り向いた。
「先生」
「…ん?」
呼ばれて訊き返せば、斜め上で視線が交わる。
少しだけ間を置きながら私を見つめ、やがて微かな微笑に変わる。
「マジで俺のにするって言ったらどーする」
「は?」
「年の差とか気にしねーから」
「……」
「覚えといて」
そんな言葉たちを残して、私の返事は聞かないまま扉は閉められた。
初めて見せてくれた微笑みは…勝ち気で生意気なそんな宣戦布告だった。
流川くんのその宣戦布告が、本気なのか冗談なのか、私は知る術を持たない。
でも、本気なのか冗談なのかなんて、私にはどっちでも良かった。
どっちでも、この私の鼓動の速さだけがリアル。どんなに言い訳しようとも、覆されない証拠。
胸が痛い。甘い針で刺されて、付けられたばかりの傷が甘く疼く。
「あー…冗談でしょ」
今更赤くなる頬、上昇する熱。思わず漏れた独り言は間違いなく私のものだった。
これから先のことを考えると、先が思いやられるやら、とてつもなく楽しみの様な…。いや、色んな意味で怖い。
仕掛けたのは私?それとも流川くん?
あまり遠くはなさそうな未来に、私は泣くのか笑うのか…。
ねえ、私、どうなっちゃうんだろう。
(…ホント、罪な子)
取り敢えず、暫く頭から離れてくれそうに無い面影を胸に想いながら、タバコケースを片手に屋上に向かうのだった。
《daydream》
20131226一條燐子
流川視点の出会いの話も、ちゃっかり考えてあるので書きたいな。