蒼焔群情-soul's crossing-〔本編〕

□蒼焔 【中編】
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 見上げて見た楊恪の表情に、それまでの笑みは無かった。

「これまでは、お前にどの女を奪られようと文句を言う以上の事はしなかった。だが、今回は違う。私は、お前と敵対してもあの人を…鄒氏を手に入れたい。今回ばかりは譲れない」

 強く真っ直ぐな瞳には、一分の迷いも無い。
 楊恪のこのような表情を見るのはいつ以来だったかと、心のどこかで感慨深く思う自分がいる。同時に、楊恪にこうも想わせる鄒氏に嫉妬に似た感情を抱いた。

「それは…それはこちらも同じだ。今からでも、鄒氏を俺に振り向かせて見せる」

 恐らく、この恋の結末は分かってしまっているのだが。
 楊恪は、曹操の心境を全て見透かしたかのように、可笑しそうにくっくと笑う。

「………何が可笑しい」

「いや、"未だに視線を交わした事すら無いのに"…か?」

「うるさい!これからだ!」

 完全に足元を見ている楊恪に、悔しさと腹立たしさが込み上げてくる。

「お前にも落とせない女がいるんだな」

「うるさいと言ってるだろうが!まだ落ちないと決まった訳ではないわ!」
 その場を去ろうとする曹操の後に続き、楊恪は尚も楽しそうに曹操の胸の小さな傷をじわじわとつつく。
 鬱陶しいと思いつつ、曹操はそれを居心地が悪いと思った事は無かった。この関係がいつまでも続くのだと思っていた。


 それから一年も経たずして、楊恪と鄒氏が婚姻を結ぶという報せが舞い込んできた。

「今、何と言った?」

 美しい三日月が浮かぶ夜空を眺めながら、曹操は傍らの楊恪と共に盃を傾けていた。

「だから、婚礼の儀が済んだら都を離れようと思っている」

 優雅に盃を傾けている楊恪は、信じられない事を淡々と口にする。

「上にも向こうの両親にも了承は得ている。私は…」

 言葉の先を遮るように、がしゃんと盃を置いた。
 夜空を見上げていた瞳が、静かに曹操の方を向く。

「孟徳?」

 楊恪は、小さく首を傾げる。

「何故だ…?」

 ただ一言が口から零れ落ちた。
 やはり、と心が呟く。やはり、この男には感情を隠す事が出来ない。
 これまでずっと共に過ごしてきた半身が、傍らから消えようとしている。それは一体何故。共にこの争いの世を変えていこうと誓ったのに。いつか天下を掴む曹操の傍で、ずっと支えると言ってくれたのに。
 弟のように見ていた男の裏切りのような言葉に、曹操は困惑し次の言葉を見付ける事が出来ないでいた。

「孟徳、誤解しないでくれ」

 全て察したと言いたげな落ち着いた声音が、曹操を我に返らせる。
 顔を上げると、澄んだ強い意思を映す瞳が、真っ直ぐに曹操を見ていた。

「私は、辺境の要所を守ろうと思う。…周辺の守備がしっかりしていれば、お前は安心して、ただ前だけを見て戦えるだろう?」

 一瞬、何を言っているのか分からなかった。
 楊恪は、ふわりと微笑む。

「取るんだろ?天下。分かってる、ちゃんと最後まで付き合うさ。私はお前の弟兼女房役だからな」

 そして、曹操の肩をポンと叩く。
 ほんのわずかでも、楊恪の思いを疑った自分を恥じた。
 曹操は、決まりが悪そうに顔を背ける。

「…お前が守る要所は、決して陥とさぬと誓えるんだろうな」

「ああ、誓う」

「本当だな?」

「ああ。孟徳、お前に約束する」

 澱み無く答え続ける楊恪。その表情にも瞳にも、迷いは無かった。

「…分かった」

 観念したように頷いて盃を掲げると、楊恪もまた応えるように盃を掲げる。

「子が産まれたら、必ず連れて来いよ」
「当たり前だ。お前も、早く嫁さん貰えるといいな」

「うるさい!」

 いつの間にか、そこにはいつもと変わらない笑顔があった。穏やかな時間が流れていた。

「…また、こうして月を見ながら酒が呑みたいな」

 夜空を見上げたその横顔は、以前よりも力強く見えた。
 曹操は、盃の酒に月を映し、それを呑み干す。

「俺がさっさと天下を取って、お前などすぐに都に連れ戻してやる。そうしたら、毎日飽きる程月見酒を呑ませてやるぞ」

 空いた盃を差し出すと、楊恪は苦笑を浮かべて酌をする。

「毎日お前と、っていうのもなぁ」

「俺はいずれ王になる男だぞ。至上の喜びであろうが」

「あぁ、はいはい」

 ニヤリと笑む曹操に、楊恪は苦笑を浮かべたまま肩を竦めた。
 約束と名の付かない約束。それが、とても大切で尊いものに思えた。



 
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