蒼焔群情-soul's crossing-〔本編〕
□蒼焔 【中編】
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「お主は優しい娘だな。そのような悲しい顔をするな」
宥めるような声で、曹操は卓子の上に並べられたお菓子を晟瑶の前へと押しやる。
「儂とて、旧友を手に掛けた事はある。しかし…彼奴は…慎窈ばかりは、例え我が敵に回ったとしても、斬る事は出来なかったであろうな」
曹操もまた、仮定に悲しげな目をする。
完璧に思える一国の王も、こうした感情の動きにひとりの人間であるのだと実感させられる。
「慎窈は、争いや対立を好まぬ男だった」
確かにと、晟瑶は納得する。
何かと言えば、街の中の諍いの仲裁に駆り出されていたのは、いつも楊恪だった。
「そんな彼奴も、一度だけ儂と敵対した事があるのだ」
曹操の口元に笑みが浮かぶ。
「一度だけ…?」
それがいかに貴重な事であるのかは、良く分かっていた。
ふふと思い出し笑いを零す曹操は「知りたいか?」と勿体を付ける。
相当面白い事、或いは大変な事だったのだろうと、興味津々の晟瑶は身を乗り出して何度も頷いた。
「…お主の母、鄒氏は美貌であっただろう?」
「はい、確かに…って、え…?あの、それは…まさか…?」
察しの良い晟瑶に感心するように、曹操は大きく頷いて見せた。
「そうだ。昔、儂と慎窈は鄒氏を巡って争った事があるのだ」
一瞬、晟瑶の思考が停止する。
「…え、え、えぇぇぇえ!?」
穏やかで思慮深く常に理知的だった楊恪。晟瑶の知る父の顔からは想像の出来ない過去に、ただただ絶句する。
曹操は茶器を置き、茶席からさらに窓際の席へと晟瑶を誘う。そこには、碁盤が用意されていた。
窓の外は快晴ながら、柔らかい粉雪がふわりふわりと舞っている。
「まるで昨日の事のようよな…」
外を眺める曹操の瞳は、過ぎ去った時間を見詰めている。
晟瑶は静かに、そして尚も興味深げにその言葉の先を待った。
曹操は碁石をひとつ掴み、それを碁盤に置く。
「あれは、二十歳を少し過ぎた頃だったか…」
「慎窈!慎窈!!」
宮中の廊下で、曹操は前を行く長身の男を呼び止める。
赤味を帯びた焦茶の髪を靡かせ、その男は優雅に振り返った。
「…そんなに大声で呼ばなくとも聞こえている」
一見すれば女かと思う程の美貌に気怠さを浮かべた楊恪は、曹操の姿を見るなり溜め息をついた。
しかし、曹操は構う事無くがっしと楊恪の肩を掴む。
「…夕べ、女と逢っていたというのは本当か…!?」
「本当だが?」
「…それが鄒家の令嬢だというのは本当か…!?」
「本当だが?」
一瞬の沈黙。
曹操を見下ろしていた楊恪の口元に、ニヤリと不敵な笑みが浮かんだ。
その表情に大方の事情を察し、頭の中が真っ白になる。
「なっ…ななな何故だ…!?俺など、視線を交わした事すら未だに無いと言うのにっ…この俺が…!この俺が!」
楊恪の肩を掴む手がカタカタと震える。
以前、宴の席で偶然見掛けたひとりの娘に、曹操と楊恪は一目で恋に落ちた。
年下でありながら媚びる事の無い気高き美貌は、若い二人の心を掴んで離さなかった。
どちらが先に逢瀬をするかで競い、争っていた矢先だったのだが。
「ぐずぐずしているからだぞ、孟徳」
涼しい顔で、楊恪は曹操の手を振り解いた。
「お前にしては珍しいじゃないか。人妻だろうが名家の令嬢だろうが、美女とあらば迷わず手を出してきた癖に」
呆然としていた曹操ははっと我に返り、悔しげに唇を噛む。
「……………っ!」
「ん?何だって?」
押し出した言葉は、思った以上に小さな声に乗っていたらしい。
珍しいものでも見るように、楊恪が耳に手を添えて訊き返す。
曹操はぐっと両手を握り、既に呑み込んだ言葉を再び押し出した。
「…本気なのだ!」
それ以外に、口にする言葉が見付からなかった。
愚かしい程に短絡的な感情の吐露、この男の前ではいつもこうなのだ。
ふ、と目の前の男が笑う。
「だと思ったよ」
からかうような笑みは、どこか嬉しそうだった。
「何だか、いつもと立場が逆転しているな」
「…誰のせいだと思っている」
これまでは、楊恪が惚れた女はその大体を横取りしてきた。その度に喰って掛かる楊恪を、曹操は軽くあしらってきたのだ。
それが今は、横取りされた訳ではないにしろ、立場が全く逆になっている。
「悪いが、今回は私も本気なんだ」
ふと掛けられた声は、いつに無く低く真剣な声音だった。
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