蒼焔群情-soul's crossing-〔本編〕

□蒼焔 【前編】
1ページ/3ページ

 薤上の露 何ぞ晞き易き
 露晞けば 明朝 更に復た落つ
 人死して 一度去れば 何れの時にか帰らん



 楊恪の遺骨を携えて洛陽へ戻ったあの日の晩、夏侯惇邸に届けられた一通の文。そこに認(したた)められていたのは、漢代の葬送歌"薤露の歌"だった。
 夜が明けて間も無い好天の朝、晟瑶は墓地の一画にいた。

「お父様…そちらでの生活は如何ですか?」

 目の前の墓碑に手を合わせ、そっと語り掛ける。

「曹操様が書いて下さった詩文…ちゃんと届いたでしょうか…」

 凛と澄みきった空気に、零した声が白い吐息と共に溶けていく。
 楊恪と曹操が、実際にどれ程親しかったのかは知らない。しかし、あの日の文を目にした時、二人の間にあった絆の深さを知った。
 竹面を走る筆は震えを記し、ところどころに転々と滲むのは涙の跡だった。
 それを見た夏侯惇が、「あの孟徳が」と言葉を呑んだのを憶えている。
 出来る事なら、楊恪と曹操のやり取りを見てみたかった。楊恪の傍らで、曹操という人と対面したかった。
 込み上げてくる後悔は尽きる事を知らず、ただ胸を締め付け自らを苦しめる。
­­
「…もっと、親孝行したかったです」

 最大の後悔は二度と叶う事の無い願い。
 零れそうになる涙を、手の甲で拭う。

「今日は、曹操様にお呼ばれしているんです。お行儀良く、してきますね…」

 そう言葉を掛け、すっくと立ち上がる。
 楊恪を亡くしたばかりの頃は、喪失感という悲しみしか無かった。しかし、それからしばらく経った今は、悲しみよりも悔しさに襲われる事の方が多い。
 「また来ますね」と一礼し、晟瑶はその場を後にした。





「うわぁー…」

 数刻後のすっかり太陽が昇った頃、夏侯惇邸に曹操の使いがやって来た。
 しかし、その数は一人二人ではない。十数名の人間がせわし無く出入りし、大きな寝台を運び込もうとしている。
 その様子を、晟瑶は四媛と共に目を輝かせながら眺めていた。

「立派な寝台…」

 慎重に晟瑶の部屋に運び込まれたそれは、蓮の花の美しい彫金が施された寝台だった。室内に運び込まれると、すぐに透かし模様の入った紗の天蓋が取り付けられる。

「わぁぁ、布団もふかふか」

 早速、設置された寝台に触れてみる。
 真新しい匂いのする寝具は、まるで雲を敷き詰めたようにふんわりと柔らかい。

「まぁまぁ、ここだけはまるで天界ですわね。良い夢が見られそうですわね」

 傍らでは、四媛が晟瑶同様にその手触りを確かめている。

「入るぞ」

 ふと、背後から声が掛かった。

「…これはまた、随分手の込んだ寝台を誂えたものだ」

 天蓋や幄を取り付けた夜具一式を見、入口に立つ夏侯惇は感嘆とも呆れともつかない溜め息を零した。
 晟瑶は寝台の傍にしゃがみ込んだまま、夏侯惇を見上げる。

「小父様、こんなに高価そうなもの、本当に頂いてもいいんでしょうか?」

 全ては、曹操が晟瑶のためにと誂えてくれたもの。しかし、親族とは言え魏王からの賜り物に、少しばかり心苦しい気がした。

「あいつが好きでやっている事だ、気にするな。まぁ、少々甘やかし過ぎな気もするが」

 晟瑶の迷いを一蹴しつつ、夏侯惇は抱えていた直方体の箱を差し出す。

「これもお前に、だそうだ」

「え?これも、ですか」

 更なる贈り物の存在に、晟瑶は目を丸くする。
 夏侯惇の両手に載せられたままの美しい木の箱を、そっと開けてみる。

「あっ、桃色の衣装です!」

 途端に、その表情が輝いた。
 箱の中に入っていたのは、以前曹操から贈られた衣装の色違い。青や紫ではなく、淡い桃色のそれだった。

「可愛いーー」

 箱から引き出してみると、まるでキラキラと光が零れるようだった。

「小父様、今日はこれを着て曹操様に謁見しますっ」

「ああ、そうしてやれ」

 晟瑶のはしゃぎ様にか、それとも曹操の甘やかし様にか、夏侯惇は呆れ気味な笑みを浮かべる。



 昼下がり、王城を訪れた晟瑶は曹操の従僕に連れられ、その人のもとへ向かっていた。
 心なしか、擦れ違う文官・武官の多くが振り返るような気がする。しかし、その理由は分からず、晟瑶は胸の内で首を傾げる。
 前を行く従僕が、ぴたりと足を止めた。
 気付けば、城の奥まった場所まで来ていた。


「…殿、晟瑶様をお連れ致しました」

 間を置かずに、扉の向こうから「入れ」という返事が返ってくる。
 ゆっくりと開かれる扉の向こうに、その人はいた。

「おお、待ち兼ねたぞ」

 書机にて走らせる筆を止め、曹操が顔を上げる。
 晟瑶をその目に捉え笑みを浮かべた曹操は、初めて謁見した時とは違う光を纏っていた。
次へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ