蒼焔群情-soul's crossing-〔本編〕
□蒼焔 【前編】
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薤上の露 何ぞ晞き易き
露晞けば 明朝 更に復た落つ
人死して 一度去れば 何れの時にか帰らん
楊恪の遺骨を携えて洛陽へ戻ったあの日の晩、夏侯惇邸に届けられた一通の文。そこに認(したた)められていたのは、漢代の葬送歌"薤露の歌"だった。
夜が明けて間も無い好天の朝、晟瑶は墓地の一画にいた。
「お父様…そちらでの生活は如何ですか?」
目の前の墓碑に手を合わせ、そっと語り掛ける。
「曹操様が書いて下さった詩文…ちゃんと届いたでしょうか…」
凛と澄みきった空気に、零した声が白い吐息と共に溶けていく。
楊恪と曹操が、実際にどれ程親しかったのかは知らない。しかし、あの日の文を目にした時、二人の間にあった絆の深さを知った。
竹面を走る筆は震えを記し、ところどころに転々と滲むのは涙の跡だった。
それを見た夏侯惇が、「あの孟徳が」と言葉を呑んだのを憶えている。
出来る事なら、楊恪と曹操のやり取りを見てみたかった。楊恪の傍らで、曹操という人と対面したかった。
込み上げてくる後悔は尽きる事を知らず、ただ胸を締め付け自らを苦しめる。
「…もっと、親孝行したかったです」
最大の後悔は二度と叶う事の無い願い。
零れそうになる涙を、手の甲で拭う。
「今日は、曹操様にお呼ばれしているんです。お行儀良く、してきますね…」
そう言葉を掛け、すっくと立ち上がる。
楊恪を亡くしたばかりの頃は、喪失感という悲しみしか無かった。しかし、それからしばらく経った今は、悲しみよりも悔しさに襲われる事の方が多い。
「また来ますね」と一礼し、晟瑶はその場を後にした。
「うわぁー…」
数刻後のすっかり太陽が昇った頃、夏侯惇邸に曹操の使いがやって来た。
しかし、その数は一人二人ではない。十数名の人間がせわし無く出入りし、大きな寝台を運び込もうとしている。
その様子を、晟瑶は四媛と共に目を輝かせながら眺めていた。
「立派な寝台…」
慎重に晟瑶の部屋に運び込まれたそれは、蓮の花の美しい彫金が施された寝台だった。室内に運び込まれると、すぐに透かし模様の入った紗の天蓋が取り付けられる。
「わぁぁ、布団もふかふか」
早速、設置された寝台に触れてみる。
真新しい匂いのする寝具は、まるで雲を敷き詰めたようにふんわりと柔らかい。
「まぁまぁ、ここだけはまるで天界ですわね。良い夢が見られそうですわね」
傍らでは、四媛が晟瑶同様にその手触りを確かめている。
「入るぞ」
ふと、背後から声が掛かった。
「…これはまた、随分手の込んだ寝台を誂えたものだ」
天蓋や幄を取り付けた夜具一式を見、入口に立つ夏侯惇は感嘆とも呆れともつかない溜め息を零した。
晟瑶は寝台の傍にしゃがみ込んだまま、夏侯惇を見上げる。
「小父様、こんなに高価そうなもの、本当に頂いてもいいんでしょうか?」
全ては、曹操が晟瑶のためにと誂えてくれたもの。しかし、親族とは言え魏王からの賜り物に、少しばかり心苦しい気がした。
「あいつが好きでやっている事だ、気にするな。まぁ、少々甘やかし過ぎな気もするが」
晟瑶の迷いを一蹴しつつ、夏侯惇は抱えていた直方体の箱を差し出す。
「これもお前に、だそうだ」
「え?これも、ですか」
更なる贈り物の存在に、晟瑶は目を丸くする。
夏侯惇の両手に載せられたままの美しい木の箱を、そっと開けてみる。
「あっ、桃色の衣装です!」
途端に、その表情が輝いた。
箱の中に入っていたのは、以前曹操から贈られた衣装の色違い。青や紫ではなく、淡い桃色のそれだった。
「可愛いーー」
箱から引き出してみると、まるでキラキラと光が零れるようだった。
「小父様、今日はこれを着て曹操様に謁見しますっ」
「ああ、そうしてやれ」
晟瑶のはしゃぎ様にか、それとも曹操の甘やかし様にか、夏侯惇は呆れ気味な笑みを浮かべる。
昼下がり、王城を訪れた晟瑶は曹操の従僕に連れられ、その人のもとへ向かっていた。
心なしか、擦れ違う文官・武官の多くが振り返るような気がする。しかし、その理由は分からず、晟瑶は胸の内で首を傾げる。
前を行く従僕が、ぴたりと足を止めた。
気付けば、城の奥まった場所まで来ていた。
「…殿、晟瑶様をお連れ致しました」
間を置かずに、扉の向こうから「入れ」という返事が返ってくる。
ゆっくりと開かれる扉の向こうに、その人はいた。
「おお、待ち兼ねたぞ」
書机にて走らせる筆を止め、曹操が顔を上げる。
晟瑶をその目に捉え笑みを浮かべた曹操は、初めて謁見した時とは違う光を纏っていた。
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