蒼焔群情-soul's crossing-〔本編〕
□Joker 【後編】
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翌日の午前、晟瑶は司馬懿の執務室へ呼ばれた。
しかし、当の本人は不在で、そのまま待つ事になってしばらく経つ。
手持ち無沙汰にしながら、肩から斜めに掛けたポシェットを手にとる。熊猫の顔のそれは、河から救出した子供の母親から貰ったものだった。
昨夜、夏侯惇邸に父親も伴い家族三人が礼に訪れた。その時に、母親の手作りだというこのポシェットを贈られた。
眺めていると、つい顔が綻んでしまう。
幼い頃に母を亡くしている晟瑶には、まるで実の母からの贈り物のようで嬉しくてならない。加えて、すっかり元気になっていた女の子の「ありがとう」の一言が胸を満たした。
大切な人を失う悲しみは良く知っている。それを、あの家族が味わわずに済み、本当に良かった。
父や母との思い出に浸っていると、突然執務室の扉が開いた。
びくんと肩を縮め、振り返る。
「…待たせたな」
「え……?」
目の前にいる人物は司馬懿だが、その口から漏れた声は司馬懿のものとは違っていた。低く掠れ、喋るのも辛そうな声。
「司馬懿様、その声…」
晟瑶の横を通り抱えていた竹簡をドサドサと書机に置くと、そのままばんと机上を叩く。
「何故、河に入ったお前がこのようにピンピンしていて…何故河に入っていない私が風邪を引かねばならんのだっ!!」
声を荒らげた直後、げっほげっほと盛大に咳き込む。それは、喉の炎症を告げるような、何とも痛々しい咳だった。
「お…お大事に」
苦笑を浮かべた晟瑶は、他に掛ける言葉が見付からなかった。
司馬懿は大きく息を吐き、椅子に腰を下ろす。
「…三皇五帝と夏の歴史書だ」
書机の上の竹間の中から、数巻の竹簡を晟瑶の方へ押しやる。
「えっ?…いいの、ですか?」
唐突過ぎて、受け取ろうとした手が躊躇う。
司馬懿は、再びその竹簡に手を伸ばした。
「必要無いなら別に構わんが?」
「いっ、いいいいえ!お借りします!」
晟瑶は、慌てて司馬懿より先に竹簡を掴んだ。
「ありがとうございます…」
受け取った竹簡を抱え、ちらと司馬懿を見ると、司馬懿はひょいと右眉を上げた。
「どういう風の吹き回しか…と、言いたげな顔だな」
「…察して頂けて助かります」
晟瑶が浮かべた笑みは、苦笑に近かった。
司馬懿は、書机の上で白く細い指を組み合わせる。
「少し…興味が湧いたのだ」
深遠の瞳は、真っ直ぐに晟瑶の瞳を仰いだ。
「虫も殺さぬような顔をして、人を喰ったような性格。ああ言えばこう言う、生意気な口」
げんなりしたような、溜め息混じりの口調。
相手は選ぶのだと言いたかった晟瑶だが、すんでのところで言葉を飲み込む。ここで言い返しては、司馬懿の分析を自ら肯定する事になる。
「…それに、不測の事態を前に失わぬ冷静さと、状況分析の出来る目。何より、胆が座っている。…昨日のあの場面を前に、私ならば河に飛び込むなど出来ん。恥ずかしい話だがな」
他人ばかりを分析するのではなく、自身をも省みる事の出来る司馬懿に、晟瑶の中にわずかに尊敬の意が芽生えた。
司馬懿は、一度伏していた瞳をもう一度上げる。
「その利発さ、冷静さ、探究心と勇敢さ…そして、父譲りであろう仁徳の心。私ならばお前を導いてやれる。我がもとで、軍略や政治、歴史…智を学ぶ気は無いか?」
真っ直ぐで真剣な瞳。
確信する。やはり、この人は晟瑶を"楊恪の娘"ではなく"晟瑶個人"として見てくれている。
そう思ったら、答える返事はひとつしか見付からなかった。
「はい、是非。司馬懿様に師事出来るなんて、願っても無い幸運です」
それは決して嘘ではない。しかし、
「でも…司馬懿様」
表情は笑っていても、その目から笑みが消える。
司馬懿は怪訝そうに首を傾げた。
「私は、司馬懿様の思い通りにはなりませんよ」
「…どういう意味だ?」
司馬懿の眉間に皺が刻まれる。
今度は、晟瑶が真っ直ぐにその瞳を見詰め返す。
「他の文官の方々とは違い、司馬懿様は何か大いなる野望を抱いているのではありませんか?そのために、私を使おうとしているのでは?」
司馬懿は目を眇めた。
「…何故、そう思う」
「なんとなく、です。貴方様の瞳の奥に、曹操様のそれに似た焔が揺らめいているのを見ました。それが何の焔であるのかは分かりませんけれど、ただ…曹操様は勿論、司馬懿様もこのまま朽ちゆく人ではないと思うのです」
晟瑶は、ニコリと微笑む。
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