蒼焔群情-soul's crossing-〔本編〕

□Joker 【前編】
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 子曰く、仁に里るを美しと為す。
 択びて仁に処らず、焉んぞ知たるを得ん。



「何?」

 未だ冬の半ばの夕暮れ時、仕事を終えて帰宅した夏侯惇の私室を訪ねる。
 普段の戦衣から室内着に着替えを済ませた夏侯惇は、目を丸くして動きを止める。
 私室の入口に立つ晟瑶は、両手に山程の竹簡を抱えていた。

「え?ですから、この間貸して頂いた書、返しに来ました。ありがとうございました」

 きょとんとしたまま、先に言った言葉を繰り返す。
 しかし、夏侯惇はますます不審な顔をする。

「この間と言っても、つい2、3日前の事だぞ。それなのに、もう読み終えたと言うのか?」

 山程の竹簡を受け取りながら、晟瑶の顔とそれとを交互に見比べる。
 晟瑶は少し得意気に笑みを浮かべた。

「本当ですよ。孫子の兵法書も孔子や孟子の儒学書も、楽府詩集もちゃんと読みましたよ。彼を知り己を知らば、百戦して殆うからず…ですよね。憶えちゃいました」

 ぽかんと口を開けたまま停止している夏侯惇をよそに、晟瑶はさらに続ける。

「で、小父様、諸子百家の書や他の歴史書も読んでみたいのですが。…小父様?」
 
 一向に反応を見せない夏侯惇に、首を傾げる。
 夏侯惇はようやく我に返り、

「あ、ああ。…元より聡明な娘だとは思っていたが、さすが学問の師を父に持つだけはあるな。大したものだ」

 書机に竹簡を置くと、空いた手で晟瑶の頭を撫でた。 夏侯惇からこのような扱いを受ける事は滅多に無いため、照れに言葉を無くす。
 夏侯惇は「しかし」と顎に手を当てる。

「俺が持っている書物は、粗方貸し尽くしたぞ」

 武人でありながら学問にも長じる夏侯惇ならばと思ったのだが、どうやら彼の蔵書は読み尽くしてしまったらしい。

「そうなんですか…」

 晟瑶は、がっかりと肩を落とす。
 時間が出来れば書を読み耽っていた最近を思えば、無理は無いのだが。

「書を読み漁るのもいいが、学びたい事があるなら、それの専門家に直に話を聞いた方が実になると思うぞ」

 夏侯惇は「俺の経験上な」と付け加えた。
 夏侯惇が武勇のみの将ではないのは、学問の師たる楊恪がいたからだ。
 魏の武人であり、現在は蜀に移った姜維が麒麟児と呼ばれるようになったのも、諸葛亮という逸材に師事してからだ。

「それの専門家…ですか」

「儒学を学びたいなら荀イク。法や政治なら陳羣、刑法なら満寵、戦術・策略の類いなら郭嘉。あと万能なのは孟徳だな。…どいつもこいつも癖のある連中ばかりだが」

 夏侯惇の口から出てくるのは、宮廷の外にいる人間にも名が知られている大器。そして、曹操の腹心達だった。
 しかし、どれも皆今ひとつピンとこない。

「曹操様に聞かせて頂きたいのは、学問云々より恋のお話だし……」

「成程。あいつの場合、そっちの方が専門かもしれんな」

 小声で呟いたつもりだったのだが、聞こえてしまったらしい。
 夏侯惇は、喉の奥でくっくと笑う。

「まぁ、孟徳以外で言えば、荀イクや陳羣辺りが話しやすいと思うが」

 どうする?と、その隻眼が問う。
 話を聞きに行くだけなら、名で選り好みをする程ではない。
 晟瑶は迷わず頷いた。

「じゃあ…荀イク様か陳羣様のお話を聞きに行きたいです」

 実際に会ってみたら、印象も変わるかもしれない。
 



 翌日の昼下がり、王城の廊下を歩きながら、晟瑶はふぅと息を吐いた。
 たった今、荀イクと陳羣それぞれの講義を終えたところだった。
 荀イクは穏やかであり陳羣は誠実であり、文官独特の近寄り難さは無かった。講義も実のある話ばかりでとても有意義だったのだが、何と無く気分が晴れない。
 荀イクも陳羣も、生前の楊恪と関わりのある人物だった。二人共心から楊恪を敬していて、それは娘としてとても誇らしかった。しかし、二人は晟瑶を"楊恪の娘"としてしか見てくれていない。
 これまでは、父の名が引き合いに出される事は喜ばしい事なのだと思っていた。しかし、何をどう頑張っても晟瑶自身が認められる事は無く、楊恪の子であれば当然と思われるのなら、それは悔しい。

「お父様って偉大だったんだなぁ…」

 都に来てからは、それを痛感する事が多い。
 もしも楊恪が生きていたら、恨み言を言ってやりたい気分だった。
 二度目の溜め息をついた時、廊下の角から現れた人物とぶつかってしまった。その人物が抱えていた竹簡の山から、数巻きの竹簡が転がり落ちる。

 
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