蒼焔群情-soul's crossing-〔本編〕

□prologue of Shen-yao side.【前編】
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「夏侯惇」

 王城の廊下に凛然とした声が響く。
 振り返ったのは、ひとりの長身の将。

「…孟徳」

 天下に恐れられる隻眼将軍・夏侯惇。しかし、その厳然たる声には覇気が無い。
 その理由を知る人物の内のひとりである魏王・曹操は、静かな眼差しのまま夏侯惇に歩み寄る。

「晟瑶はどうしておる」

 奥深くに青き焔を宿す瞳が、夏侯惇の右目を見上げた。
 夏侯惇は小さく溜め息をつく。

「どうもこうも、変わりは無い。落ち着いてはきているようだが…未だ目が離せんな」

 曹操は低く唸る。

「慎窈の無念は、いかばかりだったか…」

 滅多に己の弱さを晒す事の無い曹操だが、今はその目に悼みの陰を落としている。
 一月程前、魏の領地である辺境の街を、黄巾党の残党が襲撃した。そこには曹操や夏侯惇の遠縁の親族が暮らしていたのだが、救援がわずかに間に合わなかった。
 蹂躙の最中、駆け付けた夏侯惇が目にしたのは、かつて師父と仰いだ楊恪(字・慎窈)の亡骸だった。
 その傍らで泣き続けていた一人娘の姿は、未だそのまま夏侯惇の脳裏に焼き付いている。

「…だが、晟瑶は生きている。我が子を守って死ねたのなら本望だったろう」

 楊恪が、どれ程娘を愛していたかは良く知っている。
 曹操はもう一度顔を上げた。

「痛みを背負いながら、尚も生きろというのはあまりに酷かもしれぬ。だが…それでも儂は、晟瑶に生きてほしいのだ」

 夏侯惇は、人知れず流した主の涙を見ていた。

「彼奴が愛した娘は、儂にとっても我が子同然だ。失う訳にはゆかぬ」

「分かっている。後など追わせたら、俺があいつに呪い殺されるわ」

 ふんと鼻を鳴らす。

「彼奴なら…やるだろうな」

 戯れ言に、曹操はかすかに表情を緩めた。

「喪が明けたら、挨拶に連れて来る」

「うむ」

 喪という言葉を口に、或いは耳にし、改めて大切な人の死を思い知る。




 魏国・洛陽の冬は寒い。
 雪の舞う夏侯惇邸の中庭に、ひとりの美しい少女の姿があった。
 赤みを帯びた焦茶の長い髪は腰に届き、陶器のような肌は降りしきる雪の如く白い。瞳を上げると、長い睫毛に載った雪の欠片がはらりと落ちる。

「お父様…」

 かすかに呟いた声は、白い息と共に溶けて消えた。
 返っては来ない返事に、じわりと目に涙が滲む。
 今でも鮮烈に脳裏に焼き付いているのは、舞う雪の白い色と流れた血の赤い色。そして、そこに横たわる父の姿。
 涸れる程泣いても尚、涙は次から次へと溢れてくる。

「お父様ぁ…!」

 雪の積もった地面に崩れ落ちる。痛い程の冷たさなど、どうでも良かった。

「晟瑶様!」

 初老の家令が慌てて飛んで来る。

「晟瑶様、風邪を召されますぞ!」
 
晟瑶は、仲冬の戸外に寝間着一枚で佇んでいた。
 家令は毛布で晟瑶の体を包み、半ば引き摺るようにして屋根の下へと入れる。
 奥から他の使用人達も現れ、湯や暖の支度が出来ていると促す。
 しかし、今の晟瑶に自ら動こうとする気力など無かった。
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