あの彼方の籠

□再始動と罠
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雨音の中。
水溜まりの先でこちらに背を向けたまま佇む少女に向け、青年は意を決して歩を進める。
そうすべきでないことなど、青年自身も俺も重々分かっていた。
今は何一つ行動を起こさないことこそが、最も正しい『やさしさ』の形なのだと。
余計なお節介は、何より彼女自身が喜びはしないと。
ちゃんと分かっていて、それでも目の前の青年……昴は、そのずぶ濡れになった後ろ姿を黙って見過ごすという、毅然とした振る舞いを為すことができなかったのだ。


「……せめて、最後にこれを」


いくらかの距離を残して立ち止まり、べたりと張り付いたシャツが肌を滲ませている小さな背から目を逸らしながら、右手を差し出す。
そんな昴と一心に前を向き続ける彼女の姿を、俺は後ろから何をするわけでもなくただ見守り続ける。


「…………ありがとうございます。でも今は、前だけを見ていたいんです。……気持ちが揺らいでしまうのが、怖いから」


しかし少女はこちらを一瞥するのみですぐ目線を戻し、柔らかな声色に強い意志を織り込んで、昴との間に見えない壁を築き上げてしまった。
言わんとすることは、痛いほどに理解できた。それに何より俺たちが、今さら彼女の意に反するような干渉に打って出るなど、もはや卑怯の領域であるような気もする。

だけど。


「ごめん、無理だ」

「ちょっと待っててね」

「……あっ」


衝動を堪えきれず、後ろから駆け寄って彼女の前へ回り込んで柔らかな細腕を片方ずつひじから手に指先にかけて撫で付けるように拭き流して、ようやくその冷えきった華奢な両腕を解き放つ。


「……っ」


そこまで一連の過程において、少女は肩を強張らせつつ無言。


「よし、と。悪かったな、邪魔して。もし眼に雨水が入ったら大変だと思ってさ。せっかくタオルもあるんだし、吹いておいた方が良いだろうって。……ん。それじゃ、いっておいで。泣いても笑っても………………………………これが最後のシュートだ」

「集中を切らせてごめんね。いくら雨とはいっても濡れたせいで手もとが狂ってミスしちゃったらそれは実力とはいえないかなって。……うん、後は自分との闘いだよ。自身を持って打っておいで。どんな結果になったとしても、これが最後のシュートだよ」




思えば今日が日曜日であることは、ある意味幸運で、またある意味では最大の不幸だったのかもしれない。少なくとも、俺たちはそう思う。
これが平日ならば。お互いがこのあと学校へと向かわなくてはならない立場であったならば。急激に悪化した天候のせいで、たとえ無理矢理にでも挑戦は一時中断せざるをうなかっただろう。
度重なる記録更新は同時に早朝の限られた時間を刻々と消費し、登校までのリミットは目前。冷えきった体をシャワーで温め直しているような余裕はきっと無く、かといっておざなりに雨水を拭ってやった程度で送り出し、風邪を引かせてしまうわけにもいかない。
だからそうなる前に、雨の音が確かなものとして聞こえ始めたあたりで、この奇跡みたいな連続ゴールは一旦お預けになっていたに違いないのだ。
そしてそんな無粋な中断によって、結末がどれほど大きく左右されるかなど、彼女と同族の人間にとっては想像に難くないだろう。
しかし今日に限ってはそんな心配など無用。同時にその事実こそが、この日朝も早くからこの昴の家の庭先に三匹の濡れ鼠が誕生してしまった他ならぬ理由でもあった。
もうかれこれ三十分近くになろうか。俺たちはその十一歳の少女が、雨に濡れるのもお構いなしでバスケットリングに向け黙々とフリースローを打ち続ける様を、少し後ろからただじっと見つめ続けていた。……ついさっき、とうとう耐えきれなくなってバスタオルを取りに軒下へ移動してしまったことは例外として。
その間もちろん二人だけ傘をさすような気になどなるはずもなく、タオルと一緒に雨宿りする事すら躊躇われて、こちらもまた彼女同様、既にずぶ濡れである。

──少女の名は、湊 智花。

とある邂逅から俺たちの前に現れたその才能はこの日、相変わらずの美しいフォームで、実に49本ものシュートを連続してゴールに収めてみせた。
そして、次の50本目が最後になる。入っても、外れても。
フリースローを、連続で50本決められるかどうか。
それがちょうど十日前、俺たちに持ちかけられた賭けの内容だった。


「──昴さん、周二さん」

「ん?」

「なに?」


不意に。顔はゴールに向けたまま、智花が俺たちの名を呼んだ。


「……外れて、欲しいですか?」


少し、迷いを秘めたような響き。
もし、最後のシュートが入れば。俺たちは賭けに負け、彼女との約束に従わなくてはならない。それはつまり、この身が向こう一年間、週に三回もの束縛を受けることを意味していた。
その事を、今更に、この期に及んで。
気にかけてしまったとでも言うのか、この子は。
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