NOVEL2

□愛しいものへ 番外編2
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「あ、忍君だ」
「は、初めまして――――」
「初めてじゃないし、前に、何度か会ってるから。変わってないなー、背伸びた?」
「少し」


 改札を出たなり、腕を引っ張った相手は、自分の母親よりも少し若く見えた。同じ年だと聞いていたから、4年程の前の記憶から想像をしていたけど、それは簡単に掻き消された。その人は、あのホテルの宴会場で会った時から、何も変わっていなかった。もっとも、自分も凝視していたわけじゃないから、おぼろげな記憶だったのだけど。


「疲れた?」
「いえ、乗り物、そんなに嫌いじゃないし」
「車で来ると結構かかるけどね、お昼、食べた?」
「電車の中で、サンドイッチ」
「ほんと?ガリガリじゃない、この腕。女子?」


 まるで、昔から自分を知っている近所の人みたいに。まさか不倫の挙句に別れた元嫁の弟とは思えない態度に、正直驚いた。姉貴と宮城の離婚の原因になっていたのが自分であるならともなく、その結婚期間に海外にいた自分には、まったく関係がなかったのは間違いのない話だけれど、ある程度の不信感や距離を置かれても仕方がないと思っていた。それはやはり、母親同士が懇意にしているというからなんだろう。話もいろいろ聞いているんだろうか。


「あの、―――俺」
「うちは人の出入りが多いわ、小さな店やってるから、業者も来るし、電話も多い。やることはたくさんあるから、ちょっと無理する程度に頑張って」
「え?あ?」
「基本朝は早い、夜も遅い、食事はちゃんと3回出る、ちゃんと食べること、あ、でも日中は、やることあるんでしょ、夕方には帰ってきて。基本遠慮はしないこと、言いたいことは言うこと、身体具合が悪い時はすぐに言うこと。あと、食べ物の好き嫌いはアレルギー以外は無視します」


 『立て板に水』とは、こういうことを言うんだろう、関西にいる叔母もこんな感じで、いつ息継ぎするんだろうという速さで喋るけど、もしかして関西出身なのだろうか。でも父さんはもともと関西の生まれだと言っていたけど、全然喋らないし。


「庸の部屋で、いい?」
「あ、はい」
「何もないけどね、とりあえず、きれいになってるから。本もあるし、テレビもついてるから」
「――――はい」
「忍君」
「はい」
「庸、とりあえず、大丈夫そうだから。私も一応親だし、いろいろ主治医と話もしてきた。昔は切ったり縫ったり、いろいろ面倒な病気だったけど、今は医学も馬鹿みたいに進歩してるし、ただ、日帰り手術、ってわけにはいかないから」
「……よかった」


 まとまった着替えなどの荷物が、先に宅急便で届いていた。勿論、両親からの東京の土産や手紙も、別便で届いていたらしい。8畳ほどの和室は、宮城が高校生まで使っていた部屋だという。殆ど何もなくて、置かれたままの本棚には、古めかしい高校の教科書や、参考書が残っていた。あとは、陽に焼けてしまった全集が、うすらと埃をかぶっていた。宮城の、気配が残っている。でも、それは俺が知らない宮城だ。高校時代、あの人を想っていた宮城がいた場所だ。


「………高校時代、親を親とも思わないような態度で、、何にでも反抗するしかしなかったあの子が、やっと何かに没頭するかと思ったら、毎日病院に詰めかけて、帰ってくれば思いつめた顔して。苦しかったんだろうと思う、結局、その時も、あの子は助けてほしいとか、言わなくて。病院って、病気や怪我を治す本人もエネルギーいるけど、そのそばにいる人間も同じくらいのエネルギーがいるの。自分の心も極限まで膨らませるから、それがしぼんだ時の、空間の大きさに戸惑って。逃げるみたいに、大学を受けて、そして、出て行った。自分の子供なのにね、なかなか向き合えなかった。こんな時に、やっと、親なんだって、向き合うことになるなんてね」
「……でも宮城は、ここを選んで、戻ってきただろうし。やっぱ、ここが、落ち着いたんじゃ」
「逃げる先はそんなになかったのよ、そして、こんな時だけは、親に親らしいことを求めたのかもしれない。どうしようもないくらいに、寂しくて、そして、八つ当たりする場所が、欲しかったのかもしれない」
「一緒に住んでたのに、――――ごめんなさい」


 俺が本当は、早く気が付くべきだった宮城の不調。どこかで感じながら、核心に触れないでいた。俺がガキだから、話してくれなかったんだろうか。俺に相談したところで、何にもならないからだろうか。それでも、痩せ方とか、食べ方とか、もっと気が付けたはずだったのだ。


「違う、あの子が、謝らないといけない。一緒に暮らすには、ルールがあるから。あの子は、一旦停止無視した挙句にスピード違反で信号無視、そんな感じ。で、今、自損事故」
「ああ」
「だから、病院で服役中なんでしょ」


 笑いながら、『お茶のみに、下に来なさい』と、襖を閉めていく。襖は、少しだけ黄色く褪せていた。たまにここに戻った時も、煙草を吸っていたんだろう。でも、宮城はいない。宮城がいた記憶をこの部屋は持っているだろうけれど、気配は残してくれていない。


「宮城――――」 


 こんなに近くにいても、わからないことだらけだ。宮城の心は、ここには残されていない。でも、少しでもいい、近くにいたい。宮城の傍にいたい、宮城と自分を―――繋いでいたい。
 今、何を考えているんだろうか。今、身体は辛くないだろうか、宮城、俺には、会いたくないんだろうか。あの言葉は、嘘だと信じていいだろうか。


「宮城………」

 



「忍」
「み、―――みや――――」


 宮城の体は、俺よりもずっと大きくて、当たり前なんだろうけど、俺の体はきっとまだ、成長途中で、宮城に相応しいとは、思っていなかった。いつも、不安げに、心もとなさそうに、宮城が自分を抱いていたのは、わかっていた。無理をすれば、壊れてしまうんじゃないかと。なにか、薄いガラス細工を扱うようにしてくれていたのが、情けなくて。悲しくて。もっと思い切り、抱いてほしくて。


「宮城―――」


 もっと強く、抱きしめてもいい。もっと、乱暴に求めてくれてもいい。気遣わなくていい、不安になる。求められているのか、惰性で求めてくれているのか、わからなくなる。わかるように、抱きしめてほしい。もっと、強く。もっと、確かに――――俺を、抱いて、抱きしめて。


「みやぎ――――」


 そこは、小さな豆電球の明かりだけが照らしている薄暗い部屋で、見慣れない天井で、慣れない枕で、真新しい糊の匂いがする布団だ。多分、宮城が使ったものではないだろう。でも、宮城が10数年使っていただろう部屋で初めて眠ったその日、宮城に抱かれる夢を見た。
 でも、宮城はいない。どこにもいない。俺の、記憶の中にしかいない。


 宮城の傍にいたい。宮城の声が聞きたい。宮城に…触れたい。今日だけは泣くことを自分に許そうと思った。次に宮城と向き合うまでは、泣かないでおこう。それまで頑張るために、今日だけは泣いていいことにしよう。明日から、ちゃんと立って歩いて、走れるように。


 今は、泣いておこう。




「忍君、もう行くの?」
「はい、行ってきます」
「頑張れ」
「……はい」


 宮城の傍に、少し遠い傍に、いるために――――さぁ、行こう。

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