NOVEL2

□慣性と耐性 前篇
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 新入生が入る時期だ。なんだかんだと、あっという間に時間が過ぎていく。短い春休みは、自分は新年度の準備やなんやかんやで、朝から夜は遅くまで大学に詰め込んでいて、正直眼を開けている忍の顔を見れるのは朝食の時間だけで、帰ってきた時には、待っていたのかもしれないけれど睡魔に負けて毛布にくるまっている姿がほとんどだ。
 放っておいたわけじゃない、放っておきたくもないけれど、仕事はおろそかにはできない。忍に学業をおろそかにしないようにと厳しく言っている分、自分が怠けるわけにはいかないのだ。


「今日も、遅い?」
「ああ、多分な。悪いな、夕食、ずっと一人だろ?」
「いい、別に。慣れてるし」


 食ったり食わなかったり、きっとそんな感じなんだろう。帰ってきて、食洗機の中の食器の移動がなかったり、ゴミ箱に外で買ってきた容器もない。外で一人で済ませるほど忍は外に出たがらないことも知っている。だから、どこか過信していたのだ。帰ってくれば、忍がいないことなど、あるわけがないと。

 そんな虫の知らせだっただろうか、何か嫌な感じを覚えて、仕事を早々に切り上げた。自分が研究室にいつまでも残っていれば、助教授もやはり気にしてか定時には戻らない。同居人が夜勤だという日は遅くまで残って仕事をしているが、夜勤明けで早くに戻ってくる日などは、やはり浮足立っているのがわかる。「すれ違うと、どこまでもずれたままの平行線なんです」と、仕事の鬼、鬼の助教授にも弱みはあると見えて、一緒に暮らすことの意義を、重さを、守るべきことを、やはり精一杯頑張ろうとしているのが、また何とも言えず甲斐甲斐しい。「教授も、安心の上に胡坐かいていると、酷い目に遭いますよ」という辛辣な忠告をもらったからじゃない。
 疲れもたまりにたまっていたし、早く帰って、忍にも触れたいし、話もしたい。ちゃんと沢山食えるように、寿司の出前でもいい、あいつ、寿司好きだし。


 なのに。帰ったマンションに明かりは灯っていなくて。部屋は整然と片づけられていたけれど、人のいる気配はなく、いつも必ず一足そろえて置かれている忍のスニーカーがない。


「忍?忍ちん、いないのか?」


 鍵を下駄箱の上に置くと、いつもはそこに置かれてある忍のキーホルダーがない。やはり、いないのだ。買い物か?こんな時間に?退屈で、本屋にでも行っている、気晴らしにコンビニにでも行った。だいたいが、いつもそんな理由だ。そのうち、「帰るなら帰るって、連絡しろよ」と、照れ隠しに怒って、忍ちんは入ってくるだろう。

 
 とりあえず、先に風呂に入るか。最近遅くて、シャワーばっかりだったから、ゆっくり湯船につかりたい。
 ネクタイを外してクローゼットを開いて、背広のポケットに入れたきりになっていた携帯を思い出す。そういえば、午後から一度も覗いていなかった。会議が続いていたから、サイレントモードにしていたんだった。それも虫の知らせだ、自分が携帯の存在を忘れている時に限って、大概着信履歴やメールがたまっていることが多い。嫌がらせ的だ。やはり、青い光が小さく点滅していて、何かしら受信していたことを知らせている。

『新入生歓迎コンパ呼ばれて、行ってきます』


「え?!」


 忍は2年になった。けど、1年の時の歓迎コンパや、同級生たちの合コンなどはことごとくすべて断り続けていた。こちらが「友達無くなるぞ、行ってこいよ?」と言っても「酒、嫌いだし。なんで行きたくないコンパに行って金払って愛想笑いしてこなくちゃいけないわけ?」と、それはそれは憮然を通り越した冷然とした顔で言うものだから、忍はそういう学生らしいというか、若者の羽目を外した付き合いはしないものだと、どこかで安心しきっていたのだ。ああ、まさに、胡坐とは言わなくても、安心の上に正座をしていたと言っても過言じゃなかった。


『そんなに遅くならないと思うけど、一応』


 一度目のメールがあったのは15時、そして追加のメールの受信時間は17時だ。返事も来ないほど、忙しいと思ったのだろう。かけてもきっと不在着信だと思ってか、電話の着信履歴は残っていなかった。大学の授業が終わる前に、恐らく人が足りないからと誘われて、そしていい加減一人でマンションで待ってばかりの生活は、きっと、一緒に暮らす前と同じだと、感じて―――出かけてしまったのかもしれない。

 自分が帰ってくるのは、日付変更直前。朝が早いからだろう、、忍はいつも11時には眠っているらしくて。
 本当は、本当は自分だって、早く帰りたいに決まっている。それでも、前年度、数か月講義に穴をあけていたこともあって、あまり強気になれない部分もある。事実、仕事も論文の進みも、しわ寄せは残っていたし。それなら、忍だって条件は同じだった。いくら休学措置に至らなかったとしても、試験は通常通りだし、レポートは割増だ。それでも成績は少しも下がることなかった。


 頭もよくて、育ちもいい、加えて容姿もよければ、話題には事欠かない筈の忍が、敢えて学生同士の酒の場や遊びの場に行かないのは本人いわく、「めんどくせー」と言っているけれど、そのという言葉の中に、「あんた、嫌がるだろ」という俺への気遣いが含まれていたこと位、わかっていたのだ。それでもそれを言葉にしない忍に、甘えていたのも事実で。
 不安なわけがない。以前T大を訪れた時に、どれほど自分が、高い木の上の実をもいでしまったのかという恐れを自ら経験した。忍に好意を寄せる学生がいても、まったくおかしくない状況下へ、日々自分が送り出しているのだ。忍がモテないという条件は、「無愛想」という要因だけだろう。


 自動給湯が止まって、電子音が鳴る。洗濯機は開けられたままで、今朝までの洗濯物は全て片づけられていた。行儀よく畳まれたタオル、水垢のない洗面台。それらが余計いっそう、かなり相当、この部屋に一人でいる寂しさを演出している。

 一人暮らしは慣れていたのに。こんな時に、無性に寂しさを覚えるのは、年をとったせいなんだろうか。部屋の明かりは自分でつけて、風呂は自分で沸かして、飯の代わりにビールを二本、なんてことは、日常茶飯事だったのに。たまたま忍が出かけているだけで、出て行ったわけでもないのに、虚しさを覚えるのは、なぜなんだろう。

『慣れてるし』


 朝言った忍の言葉だ。慣れさせてはいけないことなのに、自分が慣れていないことを忍にはもう習得させてしまっている。一人でいることも、仕事になったらなかなか顔を合わせることもできないことも、。仕事だから仕方がないというしかないけれど、自分は、忍が黙って聴き分けてくれるということに、慣れてしまっていて。卑怯、だと思う。


 久々の湯船に浸かるのは温かいけれど、何もリラックスなどしない。むしろ、どんどん体と頭が固まっていく気さえする。忍は酒には弱い、酒を飲めば何でもベラベラ喋り出す方だ。俺のことははともかく、この先の学生生活において面倒になるようなことを話したりしないだろうか。というか、誕生日的にはまだ未成年だし、警察や病院の世話になるようなことには、ならないだろうか。連絡がまた実家に入れば、俺が放っておいたと向こうが思わなくても、俺が必然的に思う。


「湯あたりしそうだ……」


 こういう場面に、正直慣れない。大人になると、なかなか簡単に物事に慣れることができない。プライドも分厚くなってきて、知識や本能が、あれこれと邪魔をするからかもしれないが。
 大学の食堂の少し味の濃い味噌汁には慣れないけれど、忍の料理には慣れた。学生の若さゆえの省略語は理解できないが、忍の爆弾語は、いたいほどよくわかる。忍の関して、慣性が通る部分と通らない部分がある。だいたいが、忍自身の事ではなく、俺が忍のことに関して勝手にあれこれと気を揉むことばかりだ。


 この一人で過ごすには大きな部屋で、一人で過ごす時間が多い忍に、何かしら、俺に対する諦めみたいなものが、出てきていたんじゃないだろうかと、思わないでなかったのだ。だから、滅多に行くことがなかった夜の誘いに、行ってしまったんじゃないのかと。寂しさを紛らわすには、酒は適度にいい薬になるし。
 それでも、今日はずっと続いていた直感的なもので、ビールに手を伸ばさなかった。電話が、かかってくるような、気がしていたから。


 1時間後、やはり携帯は鳴り響いた。忍の携帯からだ。まだ仕事場にいるのかと、確かめの電話かもしれない。平静をつくろって電話に出て、その声が忍ではなく若い女の声だったことに、俺の理性は蜘蛛の糸に文鎮をくくりつけたように、簡単に切れたのだ。音を立てて、プツリと。


「誰だ、お前」



後編へ続く

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