NOVEL2
□愛しいものへ17「愛縁」終
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「マズ」
こんなのより、自分の作った料理の方がまだずっとマシじゃないか。きっと、こんなのばっか吸ってたから、病気になったり、免疫力低下したんだ。
宮城が買い込んで、そして押し込んでいたカートン買いの煙草を、まとめてごみ袋に放り遣った。けど、その前に一本だけ―――宮城の匂いそのものだったそれを口にくわえて、そして火を点けてみた。喉が焼けたように、ひりひりする。思い切り吸い過ぎた。
いつも、いつでもどこででも、煙草を口に咥えて紫煙を揺らせていた姿はもうない。もう、灰皿もいらない。それは、今度の燃えないごみの日に出してしまおう。思い出してしまうものは、すべて、捨ててしまおう。煙草の匂いが染みついたシャツも、要らないだろうか。
「おい、何でも捨てんなよ?!」
「うっせぇな、せっかく禁煙続いてんだから、捨てても構わねぇだろ?こんなもん置いとくから駄目なんだよ。シャツもヤニ染みついて匂いとれねぇし、潔く捨てちまえよ?」
「もったいない、破れてないのに」
東京に戻って呆れたことは、宮城の引っ越し先が前の俺の部屋だったってことだ。確かに、隣から隣だったら、プロの引っ越し屋なら数時間で引っ越し終わるはずだ。俺もそこまでは考えが回らなかった。道理で、急に引っ越しても大家が文句も言わねぇわけだ。
「部屋前よか狭いんだからな、要らないもの、捨てろよ」
「捨てろっていっても、あとは俺の本しかないだろうが」
「あんたの本が多いから、俺の荷物がキャリー一つ分くらいしか持ってこれないんだろ!本も大学もってけよ、あそこまだまだ置けるだろ?」
当たり前のように、ここに戻ってきた。宮城の故郷のホテルで、目が覚めたら2日くらい時間がたっていて、病み上がりの人間2人で、のろのろと休みながら東京まで帰ってきた。まさか宮城の車が、また以前のままのマンションの駐車場で停まるとは、夢にも思わなかったけど。
知らない場所じゃなくてよかった。そこは、自分たちの住処で、帰る場所であってほしかったから。二人で、エレベーターに乗って、同じ階で降りて、ほんのちょっと、エレベーターから一部屋分近くなっただけで。見慣れた部屋だ。ほんの数か月だけ俺が住んだ部屋で、リビングが僅かに狭くて、そして一部屋だけ少ない。実際宮城の書斎に一部屋取ってしまえば、俺の部屋はなくなる。まぁ、もともと必要ないんだけど。課題も本を読むのも、リビングで十分事足りてるし。宮城が見える場所にいる方が、いいに決まってるし。
「片づけもいいけど、T大提出するレポート、揃ってんのか?」
「もう向こうで全部済ませた」
「ああ、そう」
「あんたこそ、M大顔出さなくていいのかよ。助教授、心配してたし」
『そう、決まったんだ、よかった』
『明日から、向こうに行くし。ありがとう、あんたの知り合いのお蔭で、病院につてができたし』
『小児科医だから、あいつの病院もそういうのあって、どこも人手不足で、ネットワーク作ってるみたいだったから。子どもたちが喜ぶだろうって、言ってた』
『お礼、言っておいて』
『ああ』
以前は宮城の相手なのかと、疑いをかけていた相手が、今では相談役だ。でも実際、適切な進言をしてくれるし、諌め方も説得力がある。やっぱり、育ちの良さと、性格の優しさなんだろう。向こうでも、何度もメールをして、意見を求めたこともある。自分だけでは、どうにもわからないことが、世間には山ほどあって。
『気をつけて。頑張れ』
『ありがとう―――いろいろ、本当に、ありがとう』
「そうだな、上條には、いろいろ面倒降りかかっただろうからな」
「あんたの休講の半分、代替でやらされたって溢してた」
「何でお前がそんなこと知ってるんだ」
「言ってたし、本人が」
宮城は不可思議そうだった。けれど、それ以上を聞いてこなかった。ただ柔らかく笑って、大きな手で、俺の頭を撫でて、恨めしそうにごみ袋の中の煙草をしばらく見つめていた。
「買い物、少し行かないとな。空っぽだ」
「ちょっと待って、携帯―――」
デニムの後ろポケットに突っこんでいた携帯が振動している。音を消していたから、動いていたら気が付かなかったのか、見れば着信履歴が数件表示されていて、慌てて着信ボタンを押した。
「はい」
『何度もかけさせない』
「あ、ごめん」
『部屋、もう片付いた?』
「まだだけど」
『野菜送るけど、他に欲しいものないの?』
「あ、じゃあ、お米。そこの米、美味いし」
『遠慮ないわね、5kgでいい?』
「10s欲しい」
『じゃあ、虎堂の黒羊羹、送ってね。3本』
「わかった」
電話の相手は、あの故郷にいる、その母だ。まるで、もう一人の息子的な扱いになってる。けれど、その掛け合いは気持ちがいい。打って返ってくる、きれいな木霊のようだ。
「誰だ?お袋さんか?」
「あんたの方のな」
「………なんかもう、お前の方が、息子っぽくね?」
「かもな。俺の方が、親孝行だし。ちゃんと家の手伝いも、親父さんの背中も風呂で流してやったし」
『もうちょっと食え。そんなんじゃ、病気になるぞ』が、口癖だった。病気になってしまった息子を想っての言葉だったのかもしれないが。あまりに細い自分が、憐れに見えたのかもしれない。実際、そんなに病気はしないのだけど。
電話をまたポケットに戻して、エレベーターに乗り込もうとボタンを押せば、ちょうど下から上がってきたそれが開く。
「あら、お買い物?」
「母さん」
「奥様」
両手にスーパーの袋を抱えた今度は本当に自分の母親が、小さな体のどこにそんな馬力があるのかという大荷物を持って、にこりと笑った。
「冷蔵庫、きっと空だろうと思って。家に来て食事をしてもらってもいいんだけど、きっとのんびりしたいだろうから、はい」
新鮮な野菜から、すぐに食べられるもの、保存のきくものと、冷凍食品。受け取ると、腕の筋が伸びきるんじゃないかと思う位に酷く重量がある。
「すみません、奥様。本当は、こちらがどこかお食事にお誘いすべきなのに」
「とんでもない、忍が長い間お世話になっていたのに。これくらいじゃ足りないわ。と思ったから、りんご農家から、明日あたり木箱入りのりんご、届くから、宮城さん毎日お食べなさいな。リンゴは胃にも優しいし、病気知らずって言うから」
「あ、ありがとうございます」
なんだかんだと使い切った貯金を補ってくれるかのように、袋の中には手紙と十人ほどの福沢諭吉がいた。冷蔵庫にそれを片づけながら、なんだか、思わず涙腺が緩んだ。親恋しくなったわけじゃない。離れてみて、ずっと離れてみて、親の大きさが見えたからかもしれない。親の心が、いくらかは分かったからかもしれない。
俺にとって宮城が大事なように。異なる思いで、大事だと思ってくれている人たちがいる。愛しさはいろいろ形や関係を変えるけれど、誰もが、誰かを想っている。愛しいと思っている。
俺の大事な宮城も。その両親も。俺の両親も。遠い関係なのに、助言し、心配してくれる人、その人を想う、また遠い誰か。親や、子や、友人や、恋人や。上司や、医者や看護師。子供たち、その親たち。みんなが――――誰かの、大事な人だ。
誰かの愛しいものなんだ。
「疲れたのか、忍」
背中から宮城がふざけて抱え込んでくる。体重は少し戻ったみたいだ。重い。でも、その重さもまた、愛おしい。俺にとっては、大事なものだ。
「疲れた。運べよ」
「無理、病み上がりだし」
そのまま、身体を預けて、胸の前で組まれた腕に手を重ねて、目を閉じた。腕の中は温かくて、気持ちがいい。
愛しくて、しかたがない。
「宮城」
「なんだ?」
「――――好きだ」
背中で、宮城が笑ったのが見えた気がした。でも前よりもずっと優しく、きっと、嬉しそうに。
「俺も」
「え?」
「お前が、一番、大事だ」
愛しさが、とまらない。ずっと、この先も、とめられない。
「好きだ」
愛しいものへ、この心が、伝わればいい。
【終】