NOVEL2

□愛しいものへ16「時間」
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 いつの間にか、先に眠ってしまった。気が付けば、時間はもう夜の10時を回っていて、夕飯も食べそびれてしまった。忍は、腹空いてたんじゃないだろうか。病院食生活が長かったせいか、食べても食べなくてもどうでもいいみたいな感覚に慣れてしまって、規則正しい生活を送るべき病院で、逆に食に対する関心というものさえ失せてしまった。

 それより何より、忍が欲しかった。時間を忘れて、忍を求めてしまった。そしてそのまま寝てしまうなんて、いささか体裁が悪い、いいおじさんが。いい大人が。大概、病み上がりの人間が。


 毛布をめくれば、相変わらず、猫のように背を丸めてひっそりと眠っている。腕に頭を抱えていたのだけれど、自分の腕が硬かったのか、それとも俺の腕の痺れを避けようと、頭を下ろしてくれていたのか。胸元あたりに頭が下がっていて、狭い肩を上下させている。 でも、少し、呼吸が早くないか。こんなものだったか?


「忍?」


 何となく違和感を覚えて、少し身体を離し、顔を覆った髪を払って頬に触れて、思わず手を引いてしまった。馬鹿みたいに熱いのだ。流石に我が掌を疑ってしまう。違う、やっぱり俺の手が冷たすぎるわけじゃない。


「忍、おい」


 耳たぶから首筋まで、触れる場所全てが、熱を帯びて、異常を訴えている。早い息、全身にしっかりとにじみ出ている汗。何度呼び掛けても反応しない、それ位、酷く意識が深い場所に落ちてしまっているのだろう。
 身体は細いくせに結構頑丈で、昔は病弱だったとは聞いたけれど、今では滅多に風邪もひかないと言っていた。実際、自分がどれだけひどい風邪をひいていて、その傍らにいても全く感染することもなかったのだから、結構な免疫力を備えている。
 今はそうではない。ここまでぐったりとしている忍を見るのは初めてだ。自分は大病を患った癖に、しかし人の、というか、忍の異常には本当に精神を病むくらいに不安に駆られてしまう。焦る、前みたいに転んで頭を打ったとか、そういう原因が何も思い当たらないのだ。インフルエンザ?だったら、もっと前から症状が出ていた筈だ。


 さっきまで、普通だった。どうして急に。




「大丈夫、好きなだけ寝かせておいてやりなさい」
「見てもないくせにどうしてわかるんだよ」
「年の功よ。学者先生にはわからなくても、親にはわかることだってあんのよ」
「ええ?」


 薬をもらおうか、それとも家に連れて帰ろうかと悩んで、夜型でまだ起きているだろう母親の携帯に電話を入れれば、そんな素っ気ない返事が戻ってきた。それも自信満々の語調でだ。
 一応忍の財布の中を確かめたら、T大の学生証と、自分が忍の貴重品だと別に封筒に入れて帰した保険証も入っていた。大きな病院ではなくても、近くにの町医者でも見せるに越したことはないかと思ったのだが、それまで一緒に生活していたという母親なら、なにか以上に気が付いていたのではないかと思って、一応聞いてみたのだが。そんな考えを見透かされたかのように、母親がもう一言付け加えた。


「若い子が、慣れない他人の家で何か月も暮らしてたのよ。知らずに気、張ってたのよ。やっとあんたに会って、話して、安心しきったんでしょ。……疲れてたんのよ、身体も、それ以上に心もね」
「ああ――――ああ、そうかもな。……ありがとう、母さん」
「何度も何度も大事だなんて、言ってもらえることなんて早々ないんだからね。あんた、ちゃんと、―――しなさいよ」


 忍とはどういう関係だとは、聞かれなかった。聞きたくないのか、知らなくてもいいと思っているのか、聞かないでいてくれているのか、わからない。でも、ちゃんとする、の意味は、結構俺的には重く聞こえたのだ。中途半端じゃだめだ、一方的でも駄目だ。もっと真剣に、もっと相手もことも考えて、相手の心もはかって、そんな意味合いなのだろう。


「わかってる」
「そう、じゃあ、お大事に。忍君も、あんたもね」


 とりあえず、翌朝近くの薬局で解熱剤だけは買ってきて、冷却シートも1箱買ってきた。水分は多めに、という薬剤師の勧めもあって、スポーツドリンクも数本買い込んだ。流石に退院してすぐにコンビニ弁当もなんだから―――簡単に取れる栄養補助食品でいいだろうと、菓子なのか食事かのか分からないものを、時々口にした。


 自分は、あの時、そこまでできなかった。する勇気もなかったからだろうけれど、高校の授業が終われば病院に詰めて、週末もそこで過ごして、亡くなった後は、黙って墓を訪れるだけで、それ以上のことはできなかった。もともとが、臆病者だから。


 ただでさえ相手の言葉や態度を気を遣う忍だ。正直避けて通りたいだろう俺の両親なんかと、どんな顔で付き合ったのだろうか。親父は、あの理沙子の弟だと聞いて、どんな態度をとったのだろうか。難しい人だけれど、決して曲がってはいない。忍自身が何かをしたのでなければ、その弟だからと、理不尽なこともしないだろうけど、忍自身は、相当神経を使っただろう。きっと、疲れただろう、いろいろ、気を病んだだろう。それでも逃げ出さずに、忍は、居続けたんだ。俺と向き合うために、俺の傍にいるために、俺を想って。
 あの時から変わらず、俺の事ばっか考えて。


「疲れるわな――――そりゃ」


 前髪をあげて、温かくなってしまった冷却ジェルシートを交換すると、冷たさに一瞬ピクリと身じろぐものの、瞼は動かない。しかりと閉じられた目は、まるでなにか強い注射を打たれたかのように、開こうとはしなかった。


 2か月だ。ここに来て、検査入院から、手術までの期間、その後の治療と経過を含めて。あのマンションから忍を追い出し、大学に休職届を出してすぐにここに戻ったのに、しかしそう時間をおかずに、忍はたどり着いていたという。あれだけの仕打ちを受けながら、あれだけ手酷く突き放したのに、それでも、俺の言葉を信じなかったと、いうのだろうか。俺の言葉の真偽を、もう忍は、すべて見抜いているのだろうか。それほど、自分は想われ、そして大事な存在だと、してくれているのだろうか。

 こんなに身勝手なおじさんを、こんなに臆病な俺を、こんなに恋愛に不器用な大人を、それでも想ってくれるというのだろうか。俺はそんな忍に、何をしてやれるというのだろうか。
 今はただ、冷却ジェルシートを交換してやって、汗をかいた身体を拭いてやって、傍にいてやることしかできない。俺はただ、そんなことしかできない。


『あんたが傍にいてくれるなら、他には、何もいらない』


 そんなことでいいんだろうか。自分がいることで、そんなに忍の心を満たせるのだろうか。忍にとって、どんな存在であれたのだろうかと。そして、忍は、自分にとってどれだけの存在であったかを。

 正直、突然目の前に現れた理沙子の弟を、それ以上にもそれ以下にも見ることなんかできなかった。寧ろ、自分の義弟と呼ぶにはあまりにも年齢が離れていて、そして結婚式後すぐに留学して、年末年始も盆も、日本基準の休日には戻ってくることもなくて、存在を忘れかけていたと言っても過言じゃなかった。でも、忍にはその3年は、あまりに過酷で長いことであったこと後にを知った。自分をあきらめようと、恋を忘れようと、名門の私立高校も、親元さえ離れて、誰も知る者もいない外国へ渡るほどの勇気も覚悟も、自分にはなかった。
 相手が振り向いてくれるのかもわからないのに、そこまで必死に、そこまで真っ直ぐに。一途な思いだけで帰国して、目の前に現れた。


「忍」


 髪を梳いて、頭を撫でて、火照った頬に触れて、声を、名を、呼ぶしかできない。そんなおじさんに、存在価値はあるのだろうか。何度も問い直した、何度も考えた。忍はまだ若くて、結婚も女の子相手の恋愛の経験もなく、ただ俺とだけという狭い世界の中に、俺が留めて、隠してしまっていいのかと。俺がもし忍の親だったら、寛容に許せていたのかと。
 でも俺がどれだけの覚悟で突き放しても手放しても、忍はそれを是としない。しなかった。


「………お前が俺の立場でも…同じことをしなかったか?」


 って、今の俺なら、逆の立場なら、やはり忍と同じことをしていたかもしれんが。


 指先が少し冷たいからか、自分の手だとわかってくれいるからなのか、忍の表情が、少し穏やかになったように見える。具合が悪い時、一番傍にいてほしい人間が近くにいてくれることは酷く安心を覚えるだろう。昔は、肉親や母であったりするけれど、今はそうではない。傍にいてもいいのか、こんな年の離れた、俺でいいのか。


 あれだけ憂鬱に過ぎていた時間が、今は自分たちに必要なだけ、ゆっくりと過ぎている気がする。自分たちの間で、止っていた時間が、忍が眠っている間に動き出している。そう、忍が今眠っている間に、遡ろう、自分たちの間の、時間を。


「忍。――――帰ろう」


 自分たちの、あの場所へ。帰ろうか。


 お前が眠っている間に、俺が追いつくから。今は少し眠って。そうしたら、帰ろう。


「………一緒に……帰ろう」







 

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