NOVEL2

□いつまでも恋してる
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「教授、今から2コマ続けて講義だけど」
「それ、部外者の俺が聴いてたら、マズイ?」


 助教授は、不思議そうな顔をした。いつもなら「先に帰る」というのが常で、そんな3時間近い時間をここで待っていることはほとんどないのだ。


「見たことないんだっけ、教授の講義」
「ない、そんな機会もないし。それにやっぱ、違う大学の学生が聴いてちゃ、マズイだろ、宮城も、嫌がりそうだし」
「……そうだね、実際、目の前にいられたら、結構緊張するかも」
「隅っこで、ひっそりいるから」


 大学での宮城を、俺は知らない。いや、姿かたちが変わるわけじゃないんだろうけど、他人に見せている顔を、知らないから。
 前に自分がT大に来た時、「やっぱりお前、大学にいる時は、普通に大学生やってんのな」、みたいなことを言われた。でも実際、俺は大学教授宮城庸という顔を知らない。それは何か、俺にとってみれば、不公平な話だ。
 午後の授業が、突然休講になって、まるまる時間が空かないと、こんなことはできない。


「……今からの講義は専門講義だから人数が限られてる、4コマ目は一般講義だから、大きな講義室だし、目立たないかも。それ、聞いてみたら?」
「ありがとう」
「じゃあそれまで、ここの本の整理、手伝って。また資料増えたのに、あの人全然整理しないから、よその大学から借りてる資料まで行方不明で」
「わかった」


 本当にこの人は、いい人だ。普通、『部外者は遠慮しろ』とか、『うちの学生じゃないのに』とか言いそうなものだけど、俺が学部長の息子だから?でもそんな人事上の権力みたいなものに左右されるような人にも思えない。実際、俺が何か言って、父親が左右されるほど、父親もバカじゃないし。


「でも、どうして?」
「前に、宮城がT大に来てて、その時俺のこと遠くから見てて、『学生みたいな顔してた』って言ってたことがあって、じゃあ、宮城も、M大じゃ俺の知らない顔してるのかな、って思って」
「なるほどね」


 何か、思い当たることでもあったんだろうか。激しく納得している。仕事の邪魔をしたくないから、マンションで仕事を始めたら、終わるまでは近づかない。自分も課題をしたり、本を読んだりする。結構厳しい顔をしていることもあるから、そんな時は、多分ストレスが溜まってるんだろうから、敢えてこちらから気を遣うこともしない、却って気を遣わせるから。ただ、自分が知らない顔があるのだとしたら、それはやっぱり癪なんだ。実際俺は、宮城の多くを知ってるわけじゃない。宮城が俺の全てを知っているわけでもないけど、それは生きてきた時間の差分だけ、俺はもっと知りたいと、思い始めている。知って、何かが劇的に変わるわけじゃないんだけど、でも、仕事をしている時の宮城の顔は、テレビを見ている時の顔、一緒に向かい合ってご飯を食べている時の顔とも、どれとも異なる。じゃあ、学生を前にしている時の宮城は、また違うのかもしれない。その他大勢の学生が知っていて、俺が知らないというのは、間違ってる気がする。


「上司の前では、部下の顔、学生の前じゃ教師の顔、親の前では子供の顔、多分、そんなに大きく表情がわかるもんじゃないだろうけど、緊張感とか、安心感とか、威厳だとか、そんなものが左右するかも、しれないね。小さな子供の前で、何となく笑おうとしたりとか」
「ああ、何か―――それ、わかるかも」
「だろう?でも、気になるのは、わかるかも。一緒に暮らしてる相手の、知らない一面っていうのは、自分だけが知らないのだとしたら、何となく悔しくなるというか……」


 言って、顔を赤くした助教授は、慌ただしく本を抱えて背を向けた。経験があるからなんだろうか、それでも、自分よりも10は上だろう、社会的にも助教授というう立派な肩書を持ったこの人にも、自信をもてないことがあるんだろうか。頭もよくて、育ちもよくて、ちゃんと人に気遣いもできる、ちゃんとした大人なのに。


「だから、逆に、俺は教授が君の前ではどんな顔をしてるんだろうって、時々不思議にになる」
「え?」
「君は教授の前では、学生ではなく、そして元義理の弟でもなく、上司の息子でもなく、対等な立場だろう?まして、同居人以上の関係だ、教授は、どんな風に、君を見ているんだろうと思うと、正直、興味深くてならないんだ」
「………楽しんでるだろう、あんた―――」
「まぁ……教授にはこれまで散々いじられたから、弱みの一つくらい握ってやりたいという気持ちを抑えられなくて」
「弱み?」


 弱み、だろうか。世間体的な弱みになりうることはあるかもしれないけれど、自分が宮城の脆い部分であることなんて、あるだろうか。宮城は大人で、何でも知っていて、俺よりずっと冷静だ。俺が飛び出して勝ってる所なんて、それこそ突拍子の無さ位だろう。


 部屋を片付けて、淹れたてのコーヒーを一杯貰って、早めに大講義室の後の端席を取りに行った。幸いにも周りに集団が陣取ってくれたおかげで、自分も目立たなくて済む。どこの大学でも、後ろの席っていう奴は何かと固まりがちだ。
 始業ベルが鳴って、5分ほどして、宮城が講義室に入ってくる。こういう時はちゃんと点呼をするだろうに、出欠表の名簿を手前から回した。誰かが出席を誤魔化しても、分からないじゃないか。でも、気にしたふうでもなく、教科書代わりの分厚い「中級・古典文学」を開いて、マイクを入れた。数か所につながったスピーカから宮城の声が、する。いつもよりも少し低く聞こえる。眼鏡をかけてる、普段は、してることもないのに。老眼か?近眼が進んだ?帰ってきたらすぐに緩めてるネクタイを、しっかりと上まで締めている。
 よく響く、宮城の声。機械を通すせいなのか、何かおかしい、別人の声にも聞こえる。さらさらと滑るように書いているホワイトボードの字は、読みやすくて、きれいだ。こちらに向けた背中が大きく見える。見慣れた体なのに、いつも見ている背中なのに。腕はこうして見ると長いんだ。あの腕の中にいると、そんなこともわからない。俺の知らない宮城が、やっぱりそこに沢山いた。見たことの無い宮城が、コマ送りみたいに、大勢、同じ宮城なのに。
 家で仕事をしている姿とは、やっぱり違うんだ。先生らしい顔をしている。雑談はほとんどない。一番最後の授業だから、寝こけてる生徒がいるかと思えば、意外に結構少ない。周りも本に何かいろいろと書き込んでるし、単位数合わせじゃなくて、ちゃんと宮城の授業を、聞いてるんだ。

 ――――やっぱ、M大に来ればよかった。なんか俺が知らない宮城がいるのは、嫌だな。でも、やっぱり、どの宮城も、好きすぎる。

 
 疎外感がざっと頭からつま先までを冷たく襲う。でも、俺だって、こいつらの知らない宮城をたくさん知ってるのに。一杯話もしてるし、一緒に暮らしてるのに。……って、何張り合ってんだ……俺。
 宮城の声が、耳に気持ちがよくてそれだけでよかったはずなのに、でも、半分ほど、知らなければよかったという思いが押し寄せてくる。家では俺には見せない、宮城がいたから。


 あっという間に、終業のベルが鳴り、宮城は時間通りに講義を終えて最初に部屋を出て行った。続いて、ぞろぞろと帰路を急ぐ学生が出て行って、誰も居なくなって、やっと席を立った。知らない顔をして、研究室を覗こうと思っていたけど、なんだか、先に帰りたくなった。夕飯の買い物をして、帰ろう。それこそ、何も知らない顔をして、先に、帰ろう。助教授から借りた本は、明日にでも返しに行けばいい。そう思って、分厚いハードカバーを抱えて、誰も居なくなった階段教室を降りて戸口まで来た時、扉が外側からいきなり閉まった。


「なんだぁ、お前。こっそり忍び込んだりして」
「宮、城?」
「バレてないと思ったか?後ろの席は、いつも座る奴が決っててな、視界が違うと、目立っちまう、どうした、研究室潜んでることはあっても、講義に潜伏してるとは、思わなかったが」


 頭を掻きまわすように撫でて、笑って、声は講義の時とは違って、優しくて、少し高い。自分を見下ろす目は、眼鏡は通さずに裸眼で、穏やかな色を保って、何よりもその目に自分を映していて、自分だけを――――


「宮城」
「なんだ?ちゃんと講義、聞いて――――」


 照明の落ちた講義室の扉の前で、居てもたってもいられずに、感情の高揚を抑えきれずに、宮城に飛びついた。ワイシャツごしの、体温が、酷くもどかしい。
 好きで好きで好きで、やっぱり宮城が好きで、どうしようもない、誰にも、見せたくなくて、誰にも関わらせたくなくて、自分だけの宮城でいてほしくて。
 きっと、何十年たっても、どんな宮城にでも、運命を感じるんだろう、それ位、宮城が好きだ。今も好きだろう、でもきっと100年先も、もっと宮城が好きだろう。


「宮城が――――やっぱり好きだ」
「………わかってる」
「好きなんだ」
「忍」


 ずっと恋してる。結ばれて、これだけ傍にいても、でも恋が止まらない。知らなかった宮城の一面を見るたびに、知るたびに、また恋をする、多分、来年の宮城にも恋をして、数年後の宮城にも恋をする。


「好き」


 宮城が無理矢理言葉を遮るまで、そう呟いた。


 
 

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