krbs short

□キックでマーガレット
1ページ/2ページ

愛してくれとでも言うように、バラの花弁が広がる様をただじっと見つめた。バスタブいっぱいに並々と注いだ体温よりも高いお湯に、とっておきのお高いバスボムを入れる。炭酸水素ナトリウムが弾けるサウンドを聞きながら、テツナはぼーっとバラの花弁を1枚手にとった。
これは、心身共に疲労した日の儀式である。原料からこだわったそれ相応の値段のバスボムは外見の可愛さに惹かれ買うもののもったいなさが勝ってなかなか使う機会こそ無いが、何をしても気力が湧いてこない日はこうしてお風呂をバラの花弁塗れにして、普段忙しくてなかなか読めない文庫本とレモンティーのペットボトルを持ち込んで1時間は過ごす。これがテツナの月一回の至福の時だ。
だが最近、こうしてバスボムを使用する頻度が増している。その理由は簡単だ。テツナは思わず、手に持っていた花弁を握り潰した。バラの色水が浴槽へと落ちていく。ぽたり、ぽたりと溢れる赤は、まるで血のようだった。

赤司征十郎という存在は、いつだって眩しくて少し遠い。
どうしたって埋められない生まれながらの格差が他人との間に確実にあって、ただそこにいるだけで周りの人の背筋を正す。その大人びた目がたまに蕩けるように甘味が増すときがあるのをテツナは知っていた。中学生ながらに大人びた口調がテツナの前だけでは少し年相応になることを気づかない筈が無かった。そこまでどんくさくないしむしろ敏いほうだと自負しているから。しかしテツナは、だからといって何をしたわけでもなかった。手を伸ばすことも、振り払うこともしないまま卒業し、数度高校で会うことはあれど、大学にまでなるといつも集まろうと計画を立てる黄瀬の俳優業が花開いたこともありキセキでの集まりすらも少なくなっていって今ではもう全員揃って会うのは年に1回あるかないかくらいの頻度だ。
だから、完全に油断していたと言って良いだろう。これに関しては、完全にテツナの落ち度である。
赤司が起業した会社が波に乗っている、というのは風の噂で聞いていた(というか、テレビでよく見かけていた)。決して考えつかない可能性ではなかったはずで、それを危惧しなかったこちらのミスだ。
なんというか、簡単に言ってしまえばテツナの勤めるある程度名の知られた出版社が赤司の企業に吸収された、らしい。詳しく言ってしまえば吸収とは少し違うのかなんなのか、難しい話で理解は難しいが兎に角赤司が会社の立ち位置的に赤の他人、では無くなった。そのうえ合併直後だからかよく様子見に来る赤司と廊下で会うこと数回。このなんとも言えぬ上下の立ち位置に気まずさを覚えたのはおそらく自分だけではないはずだ。
それよりなにより。


キスをしたんだな、と気づいたのは赤司の瞼に隠されていた瞳が見えてから3秒ほどたったときだった。中学2年の夏。ぼんやりと、ああ、今のが誰もが夢見るキスか。思ったより感触が無いんだな、と想像と比べてそんな感想を持ったことを覚えている。赤司がそのあと、何事も無かったかのように翌日の練習試合の要項を話始めたからテツナも敢えて何も触れず、突き詰めず2人きりの部室を堪能した。曖昧すぎる関係性に名前が欲しいとは思わなかったが、胸を蝕むその気持ちが世間一般でなんていう名前で呼ばれてるかなんて文学に通じているテツナが知らないわけがなかった。敢えて気づかない振りをしたのだ。そして、赤司のその声に出さない━━━━━━━━否、出せなかったのであろうテツナに対する気持ちだとか、なんとなく感づいてはいたものの言葉にすることはなかった。それだけだ。赤司に関する情報はそれくらい。閉じられた睫毛が覆う薄い瞼。開いた時の甘い熱い瞳。赤色。一秒にも満たない軽いキス。バスケにストイックに取り組むその姿。左斜め上に上がり気味の達筆な文字。テノール。
記憶の奥底に仕舞われていたはずのそれが、彼本人の再来により無理やり引き出された。思い出すこともなかった赤司征十郎という存在そのものがテツナの中心にどしんと腰がまえるほどの有り余るスター性と無駄に整いすぎた外見がより一層際立てる。何故かって。女子社員がそんじょそこらで噂をするからだ。今日の赤司様は少しお茶目なネクタイをしてるわよ、とか。赤司様ってなに、と思わず吹き出しそうになったのは墓場まで持っていきたい秘密である。

とりあえずその赤司がテツナにコンタクトをとってきたのは一昨日の昼食時だった。午前中のノルマの達成が遅れ同僚と昼休憩が被らなかったテツナが食堂で遅めの昼食をとっているとき。カタン、と椅子が動く音がしたかと思うと正面から声をかけられたのだった。赤司である。
「久しぶり」
本当に、遅れた昼休憩のおかげで周りに人がいなかったことが幸いだった。
頬杖をついた赤司がテツナをのぞき込む。形の良いアーモンドのような目がやんわりと細められた。
「随分懐かしい顔がいるな、と思って驚いたよ」
それはこっちのセリフだ、とは言わなかった。
「そっか…。あの頃から本の虫だったからな」
あの頃とは一体いつのことを仄めかしているのだろうか。赤司はテツナから目をそらしたまま、幸せの欠片を振りまいた。
「赤司くんは相変わらずチートらしいですね」
確かに確信していた事実ではあるが敢えて伝聞にした理由は、少しでも相手に興味ある素振りをしたら負けだと思ったからだ。なんのことはない。ただの見栄っ張りの結果の行動だった。
コーヒーの匂いが周囲を覆く。すべての神経が彼へと向けられるような鋭い静寂。沈黙がふたりを襲う。
「つい懐かしくて仕事中だろうに声をかけてしまった。すまない」
「別に大丈夫です。ほかの社員の方いたとしたら全力でミスディレクション使ったでしょうけど」
「酷いな」
ははは、と笑う彼は明らかに融和された。成長記録のようだ。
美しく弧を描いた薄い唇をなんとはなしに眺める。気がついたら、その唇と、テツナのそれの距離が縮まっていた。立ち上がった赤司が、上半身を屈めてテーブルを挟んだ反対側のテツナの顔をゴールとして迫ってくる。美しいつくりもののようなそれが、生え揃った睫毛が、かつてはなかった色気を醸し出している。
気づいたら貪られるような燃えるキスをしていた。舌を入れてるわけではないが、何度も唇の位置を変えて重ね追わせた。ついばむようなそれ。潔く離れた彼の唇には、大人の証のように鮮やかな薔薇色がうつっていた。
「…あ、くちべにが」
「ん、ついた?」
楽しそうに笑った彼のその赤い妖艶な唇が忘れられない。
次へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ