あの小さな体の中には、一体どんなアイデンティティーが目一杯詰め込まれているのだろう。



 カーテンを閉め切った自室に帰ってきたのはほんの数分前で、カーテンを開けることも照明を付けることも面倒くさがった結果暗い部屋に俺が一人という、この現状。シャワーの後髪をきちんと乾かす手間を省いたせいで、倒れ込んだシーツが湿っている。任務後に襲ってくる異様な高揚感と言うかハイな状態も完全に失せ、今は薄暗さと人工の温かさで気だるいばかりだ。



 まだ、戻ってこないか。すっかり二人部屋と化したこの部屋にアイツがいないのは、大袈裟にいえば部屋にドアが付いていないようなものだ。



 ついさっきまでツーマンセルの任務に取り組んでいたアイツは今はザンザスに報告書を出しに行っている。俺が出しに行く、と言っても聞きやしない。「任務の補佐から雑用まで全部こなすのが私の役目です!」とかなんとか言って、運転する俺の隣で書き上げた薄っぺらい用紙を持って走って行った。報告書を書き上げた後は辛うじて意識を繋ぎとめているような状態だったってのに、俺よりよっぽど眠たいに決まっているのに、意地っ張りめ。



 例えば助手席に座るときは絶対に眠らないこととか、いつでも俺より早く起きようとすることとか。本人に直接確かめたことは無いが、アイツの中には他にも沢山のルールがある。そのいちいちをアイツは、そのうち倒れるんじゃないかと思う程生真面目に守り続けている。



 まどろみながら沈思していると、こちらに接近してくる気配を壁越しに感じた。あんな頼りなさげな足音、ここじゃあ一人しか思い当たらない。案の定気配はこの部屋の前で止まり、遠慮がちに開かれた扉から廊下の照明が射しこんだ。



「…隊長?もう寝ましたか?」
「…寝た」
「じゃあ電気は付けないでおきますね」



 暫く部屋を行ったり来たりした後バスルームに消えた足音。返り血やらを流しているであろう水の音の、その単調さが耳に心地よい。うつらうつらとしているうちに音は止み、一分もしないうちにバスルームの戸の開く音。アイツも髪を乾かす作業を放棄したらしい。それとも、寝ている俺を気遣ってドライヤーを使わなかったのか。



 もた、もた、もた…今にも止まってしまいそうな足音はどうにかベッドまで辿り着き、きしっと控えめに軋んだマットレスがもう一人人間を受け入れたことを示す。薄く眼を開けて確かめると、アイツは広いベッドの向こう端で毛布の下に潜り込むことさえままならずに倒れ込んでいた。よっぽど疲れていたんだろう。名前を読んでみても反応が無いし、小さな寝息からきっともう寝たんだろう、と思うことにする。



 もう一度呼んでそれを確かめてから、だるい体をゆっくりと起こす。さっきアイツがやったのよりうんと上手く音を消してベッドから降り立ち、カーテンを少しだけ開けると顔を見せたばかりの朝日が目に染みた。



「…ったく、こうでもしねぇと寝ようとしねえんだから」



 一人ごちて苦笑してみても、それは別に彼女の行動を批判するものではなかった。



 元々睡眠は少なくてすむ性質だから、こうして彼女が眠った後に起きだしてまた少し活動する。確かに二度手間ではあるが、それだけ想われているのだ、と思うと満更でも無い。もう少しカーテンを大きく開けて陽の差し込む空間を増やす。そこに今日使った剣と手入れ道具を持ち出して来て座り込む。



 こうして起きだしてきた初めの頃はアイツが起きはしないかと暗い中で手入れをしたりしたもんだが、疲れ切った彼女は少し明るくなった位では起きたりはしない。



 一通り整備し終え、道具まできちんと片付け終わる頃には太陽は完全に稜線と離別する。昼夜逆転した生活を送る暗部に於いて、朝は即ち一日の終わりであり、休息の始まりだ。音を殺してベッドに戻り、これから昼過ぎ頃までは睡眠時間に充てる。それから昼食が用意される音や香りで自然と目が覚めて、それでもアイツが起こしに来るまでは布団の中で寝たふりをする。起こされても暫くは起きださないのは、困ったように眉を下げるアイツの顔が可愛いことに気付いてしまったからだ。ああ、そういや明日は任務が無かった。じゃあ、起こしに来たアイツをもう一回ベッドに引き摺りこんでやろうか。



 カーテン越しの陽光の中、穏やかに胸を上下させる愛しい生き物を眺める。ただひたすらに甘く穏やかな心持ちがして、そのくせ少しの苦しさをともなう。



「…あいしてる」



 殆ど無意識に戯言のように繰り返す自分にももう驚かなくなっていた。起きている時には滅多に伝えないのは、怖いからだ。別に彼女の俺への想いを疑う訳ではない。じゃあ何が怖いって、この言葉の強制力と彼女の従順さが。愛してる、と言えば必ず彼女も愛してると返すだろう。それが、その一問一答が嫌なのだ。実際はそうでなくとも、自分が無理矢理言わせてしまったような気になるから。彼女の愛と従順さに境界など引けないから。



 だから、どうしようもなく不安になる。馬鹿げてるだろぉ?だが、どうしようもねえんだ。だからこうして、コイツが寝ている時にだけ言ってやる。



 ああ、またきっと24時間後には同じことをしてる。それがどうしようもなくおかしくて、自棄に愛おしくて、二代目剣帝様も丸くなったもんだと眠りに就く。



これから何度も何度もおなじ朝を迎えてそのたびに僕はきみに愛してるって伝えるんだろうね


 俺が起きだす前に君が繰り返す「愛してる」を、俺はまだ知らない 


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