君と死ねる明日
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屋敷の外に出ると、重く垂れこめた雲から雨だれが滴りだしたところだった。車を止めた場所までは大した距離ではなく、走れば然程濡れずに辿り着けただろう。ただスクアーロとカコはそうせずに、屋敷の玄関先で並んで夜の雨を眺めていた。
「カコ、てめえ、これからどうするつもりだあ」
「そうだなあ。最近働きづめだったし、暫くはどこか旅行に行こうかな。全然知らない人の中に行くの。誰も私のことを知らなくて、誰のことも知らなくていい場所。有名な観光地を適当に回る。きっと楽しいと思うんだ」
「……で?」
「『で?』って?」
「その後は?」
「知りたい?」
「とっとと言えよ」
思いのほか素直な反応に、カコは思わず隣で星の無い空を眺めるスクアーロを見上げた。そしてどこか嬉しそうに、そうだなあ、と続ける。
「まだはっきりとは決めてないけど、私は私の決着をつけられたらいいな、と思ってる。監視屋から、逃げるだけじゃダメだと思ってるの。その為には、私の中の監視屋の能力にも、これからもきっと変わらずにあり続けるだろう監視屋にも、打ち勝たなきゃいけない。今回の任務でそう思った。どう、これで答えになってる?」
「まだ、具体的には考えてねえんだな」
「痛いところ突くねえ」
「なら、ウチに来い。ヴァリアーの諜報部は確かに必要な分の機能は果たしているが、優秀な諜報もう一人のためならまだ席がある」
「……少し考えさせて」
「いや、今決めろ」
屋敷内の喧騒が、徐々に強まる雨音に紛れて遠い世界の物のように感じられる。降り込む雨に濡らされた爪先を見つめながら、カコは一言「わかった、行く」と頷いた。
「……いいのかぁ?」
「いいのか、って、スクアーロが提案したんじゃない」
「今のは、ヴァリアーからの提案であって、俺からじゃねえ。いいのかよ、ヴァリアーに入れば、てめえの望む監視屋との対決は望み薄になる」
「それは、違うと思う。ねえ、私が殺されないで生き続けて、そうしてもっと強くなること以外に監視屋との決着なんてあり得る?」
「まあ、考え方次第ってとこだが……まあ、そうと決まったら、ここから先は壁に耳のねえ所で、だなあ。う”ぉおい! てめえ、隠れるならもう少しましにやりやがれえ!」
返事の代わりに、背後の物陰からすっと、一人の男が姿を現した。目や髪の色、顔の造作、体格、振る舞いに至るまで酷く平凡なその男は、先程会議室の隅に佇んでいた。カコが目を細める。
「お会いしたことはないですけど、監視屋なんでしょう。もう私は、あなたたちの仲間じゃないし、二度と関わらない約束だった筈じゃない?」
「その通り」
特徴のない男は、同じく何の引っかかりも覚えない声で応答する。
「我々はもうあなたと何の関わりもない。ただ最後に、念を押しに来た。あなたが、」
「業務上知り得た情報は、決して漏らさないこと」
「その通り。そしてそれは、今後どの(男はちらとスクアーロに目をやった)集団に属そうとも、いかにその集団に肩入れしようとも、守ってもらいたい」
「当然よ。そんな必要ないもの。だって、また新しく調べればいいんだから。では、さようなら」
ピエロのようなお道化たお辞儀を一つ。夜の闇に足を踏み出そうとしたところで、降りしきる雨に動きが止まる。その横を銀色の影が颯爽とすり抜ける。流すように一瞥をくれたスクアーロに思わず笑みをこぼしながら、カコもとうとう本降りになった雨の中へ足を踏み出す。
屋敷の明かりと喧騒は、あっという間に遠ざかる。雨だれに視界を阻まれ、纏わりつかれ、それでもさっぱりと憑き物が取れた様な表情でカコは歩く。ふっとスクアーロが歩みを止め、振り返った時も、なんだか腹の底からおかしいような、愉快な気持ちがこぼれ出すようについ笑ってしまった。「何笑ってんだぁ、気持ちわりぃ」と呟いたスクアーロだったが、彼女の気持ちは分からなくもない。翼を得る様な、頸木から逃れた様な感覚なら、自分だってザンザスが8年の眠りから解放された時に感じている。まだ復讐の炎を燃やしていない彼女のそれはあるいは自分の感じるそれとは違うのかもしれないが、それでも構わなかった。
左手を差し出す。ぽかんとその手を見つめるカコは、気付かれていないとでも思っているのだろうか。先ほど凶弾の軌道から外すために押し倒された時、体を支えようと下手に出した足が不自然な角度に曲がっていた。
「まあ、あの場面で弱みを見せなかったことは褒めてやるがなあ、ウチに来るからには受け身くらい取れるようになれよなぁ」
暗さと雨だれに遮られた視界でも、カコがハッと顔を赤らめたのが分かった。ほら、と差し出された手と、自らの固く握りしめた拳を見比べて、カコは躊躇している。だが、それも一瞬のことだった。「任せといて、どんどん強くなるんだから」と微笑んで、カコがスクアーロの手を取った。
「上等だぁ」
掴まれた手をそのままに、カコに背を向ける。何が起こっているのか理解させる前に、掴んだ手を肩越しに引き上げ、彼女の身体を背中に抱え上げる。言葉にならない悲鳴を上げるカコも、濡れて鬱陶しく纏わりつく髪も、気にしてなどやらない。ありがとう、とかなんとか聞こえた気がしたから、それにだけは適当に唸って返答してやる。
こうしてカコのヴァリアー監視任務は、ヴァリアー自身が信頼を勝ち取ったことで誰の目からも明らかな形で終了した。