君と死ねる明日

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 逃げたい。カコはそれだけ言った。これを説明と呼ぶには余りに言葉が足りない。追求しようにも、余りに漠然とし過ぎている。けれど、今ここで追求しなくては永遠にその機会は失われるような気さえした。



「じゃあ、逃げればいいだろぉ。」
「うん、そうなんだけど、でも、」



 結局言葉にできたのは彼女同様曖昧なものだったのだけれど、それで充分だったようだ。

 でも、とカコが言い募る。至極冷静に見えるが、内容は熱に浮かされたように無茶苦茶だ。

 でもでも、例えば秋晴れの下で閉塞感に苛まれたり、自分の思考が納まっているこの肉体も思考自体も救いようが無いくらい穢れているのだという錯覚に冒されたりして、ともかくもうどうしようもなくなった時には、きっと無条件に認められて甘やかされて幸せすぎて泣いてみたりしたくなるんじゃないかって、思うの。

 そう告げて、カコは自棄に穏やかな表情のまま勢い良くフォークを振り下ろした。真っ赤な苺の汁に塗れた凶器が軽いクッキー生地に埋め込まれる。ガツリと不穏な音を立ててそれを受けとめた皿は、崩れかけたタルトが載る以外何の飾り気もない。突き刺さったままのフォークがぐりぐりといたぶっているのは確かにドルチェだったはずなのに、どうしてもそれが得体の知れない獣の肉にしか見えない。

 なぁ、お前は何に対して「でも」と反論した?何の為に「例えば」と具体例をあげて、何を思って俺に告げた?

 額面通りに受け取るなら、無条件に認められたいのだという部分だけを切り取って解釈することも出来る。

 それなのに、テーブルの向こう側で菩薩のように苺をいたぶるカコが、カコに初めから付随していた違和感が、それを許さない。

 お前は、一体何を。



「殺意、」



 全く無意識のうちにそう呟いていた。鼓膜の内側から聞こえた己の声に驚く。ああ、そうかもしれない。確かにあれは、カコを突き動かしているあれは殺意なのかもしれない。

 曖昧に納得し始めた俺とは逆に、カコは微かに顔を歪めた。きっと甘ったるい唇が、わからない、と動く。



「殺意だってあるのかもしれない。でもでも、やっぱりその殺意の底にあるのは、逃げたいって、ただそれだけ」
「逃げたいって、何から」
「…監視屋。あたし、」



 あたし、あそこが嫌いなの。怯えるように言い淀んだカコだったが、言い切った後には存外すっきりしたように見えた。



「互いの腹を探り合い、自ら抱えるものは決して表に出そうとしない。そんなどろっどろの関係がごろごろ転がってる中で、どうして監視屋の人間がその真意を、少なくとも真意に近いものを嗅ぎ取って証明できるのか、知ってる?それはね、ファミリーの中がそんなんばっかりだからだよ。そりゃあ、ガキの頃からそんなんに曝され続けたら、見えるようにもなるよ。」



 ぐちゅり、ぐちゅり。グロテスクな音と甘酸っぱい匂いでどこか正気を奪われそうな、異様な雰囲気が満ちていた。



「しかも、監視屋の人間はみーんなそう言うことが大好きなの。信じられる?あたしは信じたくないよ。他のファミリーのやった酷いことをあげつらって、馬鹿にして、自分たちは綺麗なままだと思い込んで、そんな愚かな話題だけで脳内カーストを作って自分たちをトップに据えている方がずっとずっと醜いに決まっているのに、絶対に認めない、気付こうともしない。あたしだって、あの人たちの能力が凄いのは分かっている。でもどんなにあの人たちが賢かろうが聡かろうが、あたしは心の奥の方ではずっと、あの人たちを軽蔑している。だからあたしは、あの人たちから逃げる為にこの任務に志願した」



 長い長い独白を終えて、カコがふっと口を噤んだ。飾り付けられていない素顔は随分と穏やかで凪いでいた。



「死にに来たのかぁ?そいつは随分とはた迷惑な逃走劇じゃねえかぁ」
「え?あはは、ううん、違うよ。この任務が、あたしが監視屋を抜ける為の条件だってことだよ。弱いままにあそこを抜ければ、保護も無くとっつかまって色んな内部機密が漏れかねないから、ってことらしい。今はもうさ、死のうとか考えてないよ。スクアーロのお陰で。」
「…はぁあ”?」
「ひひひ、スクアーロ君よ、君の素晴らしい情報網からたった一つだけ漏れていることがあるよ。」
「そりゃあ、一つどころじゃなくいくらでもあるだろうよ。」
「ううん、大事なのは一つだけ。まあ、情報操作のエキスパートが集まった監視屋が隠蔽したんだから、そう簡単には出てこないだろうけど。」
「う”ぉおい、もったいつけてんじゃねぇよ」
「三年前の、3月13日。」



 ピッと、人差し指から薬指までが真っ直ぐに立てられた手が上がる。



「その日あたしは、君に救われた」

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